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優しい夜だけが知っている





(誕生日なんか知らねえもん)
 腹に落とされた不貞腐れた声に九喇嘛は不機嫌に鼻を鳴らした。十二年間、この薄暗い牢の中に閉じ込められている。揺蕩う水面に横たわりながら、九喇嘛の身に絶えず流れるのは怨嗟の声だ。それは悠久のときのなかで、九喇嘛が聞いてきた声だった。新しい宿主の腹に封印されてからも、その声が止むことはなかった。「九尾の子」「化け狐」と。宿主の聞いた声は九喇嘛にも同じように聞こえてくる。子どもはそのたびに耳を塞ぎ、目を閉じ、聞こえないように知らんふりをした。頼る身のない無力なガキが身に着けた、それは処世術だった。目の前の真実から目を逸らすことは。
 だから本当は。子ども騙した中忍に言われずとも、ナルトは自分が何者なのか何度も聞いていたはずだった。「九尾の子」だと「化け狐」だと、罵倒されてきた回数を九喇嘛は覚えている。それなのにあのとき初めて事実を知ったようにナルトがショックを受けたのは、度重なる里民からの罵詈雑言を、彼が必死に「聞こえないフリ」をしているうちに、彼の記憶からはすっぱり失われてしまったからだ。忘却は心の防衛術だという。ナルトがあの地獄のような日々を耐え抜けたのは、その辛い出来事を彼自身が心を鈍感にして「苦痛を感じないフリ」をしているうちに、実際に苦痛を感じていたことを認識できなくなってしまったからだ。その時代幼い子どもの柔い心を守ったそのやり方は、きっといつかナルト自身に牙を剥くだろう。人の子とは実に愚かで目も当てられない。そう九喇嘛は思っていた。
 いま、胸中に零されたひとりごとも、その弊害のひとつなのかもしれない。ナルトは誕生日の祝い方を「知らない」。だが九喇嘛は覚えている。ひとりで公園のブランコに座るナルト。その前の通り、親子連れが歩いていた日。母親は子どもの手を握ってやり、もう一方の手では四角い箱を提げていた。「今日はあなたの誕生日だから、夕飯の後はケーキを食べようね」ナルトはその光景を見ていたし、その声も聞いていたはずだ。だが、見ていないフリを、聞いていないフリをした。そうして本当に見ていないことにした。聞いていないことになった。だからナルトは誕生日にケーキを食べることを知らない。誕生日に「誕生日おめでとう」と言われることも、プレゼントが送られることも、抱きしめてもらうことも、なにも、ナルトは見ていたし聞いてもいたが、ついぞ知ることはなかったのだ。
 だから担当上忍になったはたけカカシという男の誕生日を祝うことに難儀している。ナルトは誕生日をどう祝うのかを「知らない」から。
 あまりにも哀れで、滑稽な話だ。九喇嘛はぐるぐると咽喉を鳴らした。どんなに泣いても意味はないからと、この子どもは泣き方を忘れてしまった。目を逸らし耳を塞ぎ子どもらしい感情の出し方を犠牲にして、この子どもが得たのは何だろう。泣いても無駄だからと、ナルトが始めたのは他愛のない悪戯だ。他の子どもが泣いて親に関心を惹く。ナルトにはそれが通用しなかったから違うやり方を覚え始めた。心無い非難を浴びても、自分を認めさせることを諦めなかった。ナルトのしたたかさは、この暗い牢の中で暗鬱と閉じ込められている九喇嘛にも小気味の良いものとしてうつった。
 ――誕生日を祝われたこともないお前が、いったい誰の誕生日を祝ってやろうというのだろう。
 人の業深さを痛感している九喇嘛には、素直にナルトが上忍の言葉に従って、その誕生日を祝おうと頭を悩ませていることを以外に思う。
 九喇嘛の知っている人間とは、奪われたら奪いかえすものだ。傷つけられたなら傷つける。そうして呪いは止まらない。人は絶えず他から奪い、傷つける。憎しみの炎を灯し続ける。それだというのに、ナルトは一度も祝われたことのない誕生日を、誰かの誕生日を祝おうとする。
 何も持っていない手のひらで、何を差しだすつもりだろう。九喇嘛は嘲笑った。それでも、九喇嘛はここで、生贄にされた子どもの腹の中で、見ていることしかできないのだ。
「カカシ先生?」
 ナルトが上忍の家を訪れる。任務失敗の文字がナルトの胸中を重くする。馬鹿だなと九喇嘛は思う。
 ――初めからお前に、そんなことできるはずなかったんだ。こいつはそれを知って、お前に意地悪したに違いない。
 九喇嘛は吐き捨てた。封印に阻まれて、ナルトがその言葉を聞くことはなかったけれど。
 たとえナルトが、耳を塞ぎ、目を閉じても。九喇嘛は聞こえている。見えている。覚えているのだ。

 ナルトがアカデミーを入る前の頃だった。日が暮れ、夜になっても、ナルトはブランコをひとり漕ぎ続けた。ナルトの耳には「おかあさん」と甘えた幼子の声が残っている。「抱っこして」小さな手のひらが母に向けられた。母親は優しい顔で「しょうがないわね」とその子ども抱き上げた。優しい風景だった。直後、ナルトに気付いた母親の顔がこわばって、早足にその場を立ち去るまでは。母子は穏やかな顔で抱擁していたのだ。
 オレンジ色の空の下、公園で遊ぶ子どもたちが親に呼ばれて帰る背中を見つめながら、誰からも声のかけられなかったナルトは夜になってもブランコを漕いでいる。乾いた瞳に、夜闇に浮く月は眩しかった。
(かえりたくないな)
 帰ってもひとりだし。なら公園にいるのも、家に帰るのも、変わらないんじゃないか。ナルトの孤独を九喇嘛は感じていた。
 それでも帰らねばならないだろう。唯一ナルトと親しく話しかける三代目火影と、「暗くなる前に家に帰ってくるように」と約束したのだから。ナルトはブランコを降りた。足先に、こつんと何かが当たる。見下ろすと、それはだれかが忘れたチョークだった。地面に丸や四角を書いて、子どもたちが飛び跳ねる光景をナルトは見ていた。チョークを手に取る。見よう見まねで地面にまるを書く。とん、と飛んだ。なにが面白いのか分からない。胸にぐっと空しさが迫るのを、唯一九喇嘛だけが感じている。途端に、家に帰ることも、三代目との約束も、ナルトにはどうでも良くなった。書いた丸の下に、逆三角形を書く。丸と三角の頂点から水平の線が、そして三角形の底辺にも直角の線が二本足される。それは人の形をしていた。
「かあちゃん……」
 子ども声が、夜のしじまに響いた。
「だっこ」
 ナルトはぽつりとつぶやいて、三角形の真ん中に身を横たえた。
 あまりにも哀れで、愚かな子どもだった。
 夜空の下で、着の身着のまま地面に横たわったナルトが、そのまま目を閉じて眠ってしまうと、流石に九喇嘛も困惑したものだ。
 ――ガキめ。このままじゃ風邪ひいちまうぞ。
 その声もナルトには届くはずもない。次第に風も冷たくなってきたころ、眠るナルトに影が差した。
 それは、ひとりの忍だった。狛犬の仮面をつけて、顔は見えない。二の腕に赤い入れ墨と、夜闇に溶け込むような装束の意味を、九喇嘛は知っている。
 ――監視の暗部か。
 その忍は、じっとナルトを見下ろしていた。月光に照らされて、珍しい銀糸の髪がキラキラと光る。
「お前も」
 くぐもった声が仮面から響いた。
「生まれなければよかったと、思ってるんだろうね」
 深夜の冷え込みにも劣らぬ冷たい声が投げかけられて、九喇嘛だけがその言葉を聞いた。もしかしたらナルトは、このまま捨て置かれるのかもしれない。三代目がナルトの身辺警護のつもりで置いた監視は、入れ替わり立ち代わりであるにしろ、ナルトからわざと目を離すことが多々あったからだ。
 こいつもそうなのか。九喇嘛が人の浅はかさに落胆しようとしたのも束の間、暗部の手工に覆われた手が、存外優しく子どもの体を抱いた。
「かわいそうにね」
 朝目覚めた子どもは、どうして公園で寝たはずなのに起きたら自宅のベッドにいたのか不思議がった。それでもナルトは九喇嘛の声は聞こえないし、九喇嘛もその夜、ナルトを負ぶって自宅まで連れ帰り、丁寧に布団を掛けた存在を口外するつもりもなかったので、あの夜ナルトが願っても与えられなかった体温があったことをナルト自身が知ることはない。九喇嘛も、そして暗部当人もナルトにそれを教えることはしないだろう。だから、その夜の温もりを知っているのは、夜空のに浮かぶ月だけなのだ。

「誕生日おめでとう、先生。これから毎年、先生に誕生日おめでとうって言うな!」
 いま、無邪気に約束された言葉を、この男はどんな心境で聞いているのだろう。それは断罪にも等しい明け透けな好意だ。
「うん。楽しみにしているよ」
 男の本心は、きっと男自身にも分からないのではないか。ナルトの腹のなかから見て、九喇嘛は思う。だから人間は愚かで滑稽で哀れなのだ。
 あの夜に与えた温もりの本当の意味を。

















2017/10/9
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