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えずく





 一年に一度は地球に帰る。それがいまや銀河を股にかけ流浪するシモンの決まりごとであった。
 目的地を目指す前にカミナシティへ立ち寄る。一年前にも見たはずなのに、いまだ見慣れぬ景色だ。カミナシティの象徴が倒されたあの時から、シモンにとってここは自分の帰るべき場所ではなくなった。異郷の地の様相は、いくら目にしても異質に写る。発展・繁栄を遂げたカミナシティ。銀河の中枢として役割を果たすようになるのも、時間の問題だろう。ここカミナシティが。
「お久しぶりです。シモンさん」
 ロシウ総司令は慇懃に腰を折った。うやうやしく差し出された手を、土塊まみれた手はかたく握り、サッと離れていく。
 総司令補佐のキンブレーは顔色を変えずふたりのやりとりを見ている。彼の鉄面皮が剥がれることは滅多になく、補佐として優秀なキンブレーの態度を訝しむことはできないだろう。だが、彼をよくよく注意深く観察すれば、そのメガネの奥にキラキラと尊敬を滲ませた光がレンズを反射させていることを認められたかもしれない。いつも通りの冷静さを保つ――ように見える――キンブレーに対して、動揺を隠しきれなかったのはロシウ総司令の護衛を任じられて日の浅い者たちだ。一見浮浪者のようにも見えるうさんくさい男を相手にするには、総司令の礼儀を尽くした対応は過剰に思えた。訓練された職員のわずかな緊張と侮蔑を悟って、「ここからはプライベートだから」と、ロシウ総司令はキンブレー以下護衛全てを下がらせた。キンブレーが一切のためらいもなく「承知致しました」といらえれば、護衛の邪推も出る幕を失う。
 そうしてガラス張りの執務室にふたり。ロシウ総司令とかつての総司令――権限を剥奪され一時は重罪人でもあった、またこの銀河を救った英雄であり、何よりロシウのかけがえのない友である――シモンが対峙していた。
「今年も顔を見ることができて安心しました」
「こっちはなにも変わりないぞ」
「まさか、あなたが過去より少しも変わりないだなんて、あるはずがない」
 ロシウ総司令の穏やかで控えめな笑みは、目の前に立つ友への親しみをこれ以上なく湛えている。茶化すような物言いは、その実親友に対してロシウが持つ一種の信仰と祈りすら含んでいる。
「ロシウも相変わらずみたいだな」
 フードから覗く口元がひょうひょうと軽口を叩く。
「シモンさん、今年はカミナシティにすこし長く滞在しませんか?」
 ロシウが手で促した革張りのソファを、シモンは首を振ることで固辞した。長居するつもりはないらしい。
「あの戦いから三年経ちました。まだ三年です。世界には、まだあなたを必要としている人たちがいる」
 記念式典があるんです。そこで、あなたに講演を頼みたい。みんなあなたの話を聞きたがっている。この都市ができた由来を、その名の意味を、あなたの口から。
 シモンは薄く微笑んだ。フードの影、ほのかな緑色の発光が覗く。
「もう三年だ。それにオレは言っただろ。オレは穴掘りシモンなんだ。通った穴を通るには、また相応しい奴がいる。お前がそいつらを導いてやればいい」
 オレはオレたちを信じてる。ロシウ、お前のことだ。
 広い室内に朗々と響く声は、力強さと少しの疲労を滲ませていた。それに、
「オレがそういう場を得意じゃないのは、お前も知ってるだろ」
 ロシウ総司令とシモンのアポなし密会は、一時間にも満たなかった。
「ヨーコにも会ってくるよ」
「よろしくお伝えください」
 ロシウ総司令は複雑な眼差しで去り行くシモンの背中を見守った。一年ぶりに邂逅した親友の、滲む疲弊が気がかりだった。だがロシウがシモンにできることはあまりにも少ない。差し伸ばす手は、いつも友には届かない。この手を、シモンが望んでいないばかりに。
 彼が望むもの。それはこの地球にある。暗く冷たい土の中。今年もシモンが地球に帰ってきた理由。



「久しぶりね、シモン」
 簡素な校長室で、ヨーコとシモンが向かいあっていた。小さな校舎には応接室がなく、校長の好意によってふたりのために束の間明け渡された空間だった。窓から子どもたちの駆け回る姿が見える。いまは昼休み中なのだ。
 雲ひとつない澄んだ青空だった。小さな孤島に足を運んだのは今回が初めてなのに、この空には郷愁を誘われる。シモンはフードの影から目をすがめた。
「ヨーコも。元気そうだ」
「ここではみんなのヨマコ先生なの」
 メガネを通して彼女はウィンクした。かつては動きやすさを重視した格好を好んでいた彼女が、長い髪を下ろし襟のある服を着て、名前まで変えてそこに立っていた。
「……そうか」
 彼女は過去を切り離したのだ。捨てたのであれ封印したのであれ、いまと過去を意識的に断絶した。
 ヨーコは死んだのか?
 シモンの唇は固く結ばれたまま。しかしヨマコには――いやヨーコだからこそ、シモンのその声が聞こえてしまった。
「勘違いしないで。あんたが思ってるようなことじゃないわ。私は私。ずっとそうよ。あの人の夢を叶えるのが私の夢。ヨーコ・リットナーの名前はちょっと有名になりすぎたわね。私は私の夢のためなら、名前なんていくらでも変えられる」
 シモン、あんたは?
 力強い視線だった。彼女の生徒がその視線を浴びれば、聞かれてもいないのに昨日今日した他愛ない悪戯まで白状しまうだろう。
 しかしシモンは緩くかぶりを振る。
「夢、か……。そうだな。ニアが言ってた。世界中に花を咲かせたいって。オレは誰でもない、ただの穴掘りシモンだから、せいぜい穴を掘っているうちに、続いた道が豊かな土壌になることを願うよ。やがて芽吹き花が咲くのを」
「素敵な夢じゃない」
 ヨーコは応える。
「あの人も……、きっとそう言うんじゃないかしら。ねぇ、シモン。か、」
「ヨマコ先生」
 彼女の言葉を遮ったのはシモンだった。口元がわななく。震える唇で、そっと。
「元気で」
 彼はきっと、もうここには来ないだろう。来ないほうがいい。彼女は直感した。
 シモンとヨーコ、ふたりにとって、たったの数年間はあまりにも濃密だった。ふたりの抱えた傷はほぼ同じもので、数年間のうちほんの一瞬だけ、お互いの区別がつかなくなったときがあった。それからごく稀に、皮膚がひりつくように、片頬が痙攣するように、シモンとヨーコは特別なシンパシーを感じるようになった。
 傷の舐め合い。奇妙な感覚を、かつて少女だったヨーコはそう称した。吐き捨てるように言った。「こんなの傷の舐め合いだわ」
「そう。シモン、あんたも元気でね」
 ヨーコが名前を変えたように、その名前でもってシモンが話を遮ったのも、いわば儀式だ。
 もう自分たちは違う。同じ傷を抱えて、別の生き方を選んだ、個別の存在だ。ふたりの境界線が曖昧になることはこのさき一生こないだろう。シンパシーは断ち切られた。それを彼女は悟った。
 校長室の窓から、男が校舎を離れていくのを見やる。
 共感覚が切られて初めて、ヨーコはその繋がりがシモンの不思議な力のせいだったのを理解した。
 だがもう、詮無いことだ。ヨーコとシモンの関係は潰えた。ヨーコはヨマコとして、シモンは誰でもない男として、別の道を生きていくのだ。
「ねぇシモン。カミナは、なんて言うのかな」
 青い空はあの人を思い出させる。シモンだってそうに違いないのに、彼はかの人の名前を一度も口に出しはしなかった。



「あの、あの! あの、すみません!」
 船舶場を目指して一本道を歩く男に、ひとりの青年が駆け寄った。まわりにはふたり以外の人影はない。だというのにフードを目深に被った男は、三度呼びかけられてもそれが自分のことだと気付かなかった。
「あの! あなた!」
 四度目の「あの」で、フードの中から「ブヒ!」と鳴き声がした。それにまず青年がびっくりして足を止め、「ブータ?」男の低い声が呼ばわる。ブヒブヒブヒ。どうやら男はそのフードの中に、子どものブタモグラを忍ばせていたようだ。青年はそう了解すると、五度目の「あの!」を呼びかけた。やっと男が青年を振り向く。
 四度呼んでも気付かなかったというのに、後ろで顔を赤くした青年がいるのを男はさして驚かなかった。人がいるのは知っていた。だが彼の呼びかける相手が男自身のことだとは気付かなかった。
「どうした青年」
 フードの胸元ならブタモグラが得意げな顔をしている。青年を助けたのは自分だと言いたいばかりだ。だがもしそれが本当なら、そうとう知能の高いペットだった。もしかして獣人? 青年は戸惑う。
「ブータに用なのか?」
 訝しげな視線を男が問う。目的を思い出した青年は慌てて首を振った。
「いえ! あなたに用があったんです! あなたはシモン・ジーハ! この世界を救った英雄その人ではないですか?」
 興奮気味に話す青年を前に、シモンは苦笑した。
「ジーハの性はないんだ。世界を救ったつもりもない。君の求めてる英雄はいない」
「けどあなたは“シモン”だ!」
「……そうだな」
 渋々男が頷くと、青年は男のもとへにじり寄る。手元にはノートとペン。それに録音機が握られている。
「是非お話を聞かせてください!」
 英雄を前にした興奮で青年の目は輝いていた。対する男の顔色は冴えない。
「すまないが……、君に語って聞かせるような話はないんだ」
「まさか! 獣人から地上を解放し、総司令としてカミナシティを作り上げたのみならず、人類滅亡を企むアンチスパイラルと戦い勝利した!」
「……ヨマコ先生にそう教わったのか?」
「いえ、自分はココハナ島出身ではありませんので。いま、大グレン団のメンバーに取材を申し込んでいるのです。当時の話を聞きたいという読者は多いんですよ!」
 シモンの口元に遠慮を知らぬ手が録音機を近づけた。シモンは顔を背ける。
「カミナシティは宇宙の第一都市として躍り出ようとする寸前にある。そのとき自分たちの都市を誇るために必要なのは都市の歴史だ。そう、大グレン団の初代リーダーカミナ・ジーハ! 志半ばで倒れたカミナの遺志を継ぎ、あなたはカミナシティを建てた。英雄を作った男の話、聞かせてくださいよ」
 シモンの片目が、チカチカと瞬く。青年はギョッとして半歩後ずさった。
 青年の知識はところどころ委細に不備があった。なるほど、シモンは初めて自分が人の呼ばわる「英雄」になったことを知った。大衆のおもちゃだ。そこに個人の真実なんて差し挟む余地はない。みな、見たいものをシモンに見ている。
「オレは、誰でもない。英雄でもなんでもない。話すことはない。オレの言葉で語ることのできる人はいないんだ」
 録音機が不快な音を立てる。シモンの言葉を記録できていないのは明らかだった。 「あっ、待ってください! いまメモを……!」
 青年がノートを開くのを待たずに、全身から立ち上った緑色の光がシモンの姿をかき消した。
「なっ……!?」
 人知の超えた力を前にして、青年は言葉をなくす。しかしすぐに我に返ると、いまはもう見えぬ相手に向かって罵倒した。
「なんだよ、英雄だからってお高くとまりやがって!」
 この後、青年は大グレン団のメンバー数人に取材を持ちかけるが、取材に応じてくれたのはアーテンボローだけであった。彼の証言は残念ながら使い物にならず、高い金を払って取材権を勝ち取った元ジーハ村村長の話しか聞くことができなかった。方々を駆けて書き上げた記事は、二束三文の値段で売られ、その紙面は購買者の多くが流し読むだけ。彼らの目当ては巻頭グラビアだったのである。総司令の監査にも引っかからず、話題にも上らず、ひっそりと青年の苦労はダストボックスに投げ込まれた。



 そこは荒涼の地だった。
 開発の手が届かぬ土地は、シモンの記憶した通りの光景をいまも見せている。荒野も、吹き付ける風の強さも。
 やっとここまで帰ってきた。
 銀河と銀河を越えて旅するシモンにとって、地球上の距離なんて大したことではない。それなのに地球に降り立ってからふたりの知己と再会、そして予期せぬひとりとの対話。それは思った以上にシモンをへこたれさせた。ここまでの道のりは、こんなに困難で遠いものだったか。
 岩肌も時おり覗く土塊が盛り上がったところに、無骨な黒い刀が突き立てられ、柄には赤いマントが風にはためいている。
 十年前から変わらない光景。
 当然だ。この場所が永遠にこの姿を保っていられるようにしたのはシモンなのだから。
 総司令の時分にこの区画を永年未開発地域に設定した。一時は死罪も賜った重罪人になっても、その決まりが無効になることはなく、むしろアンチスパイラル戦から帰還しニアと結婚したのち、ロシウは改めてこの土地を「歴史的重要地区」として保護した。展望を遂げるカミナシティと比べて、当時の景観を保っているのはそのためだ。そして粗末な墓が十年の風月を耐えているのは、ひとえにシモンの不思議な力によってである。この墓が朽ちたりしないよう、いつまでもシモンの記憶にあるものと寸分違わぬ姿を保っていられるよう、シモンが願った。
 カミナシティ樹立から七年。この土地に墓を作ってから、十年。
「十年か……」
 それはシモンの独り言であった。いまこのときばかりは、相棒のブータも連れてきていない。
 まだ十年だ。これからシモンが己の人生を歩いていく膨大な時間の中で、たったの十年しか。

 シモンの心に重くのしかかっているものは、旧知や見知らぬ他人への気疲れではない。それはおよそ一年前、ある惑星に立ち寄ったときのことだ。
 比較的文明の発展した星だった。若者は同じ服を着て同じ学び舎に入り同じ教育を受ける。
 シモンは校庭の隅で地下深く穴を掘っていた。なぜそのようなことをしていたのかというと、頼まれたからだ。この星に降り立って、親切にしてくれていたご婦人たっての頼み。タイムカプセルを掘り起こしてほしい。開封の日は五年先の同窓会でだが、どうしてもいま必要なものがその中に入っているのだそうだ。シモンは請け負った。
 もくもくと校庭の隅を掘っているうちに、生徒たちの下校時間になっていたらしい。一二時間掘り進め、穴はシモンが立っても頭まで隠してしまうほどの深さだ。横入りする日はオレンジ色。かすかな声がそよぐ。本日の授業を終えたのだろう女子生徒ふたりの声だった。よもや人が背後で穴を掘っているなんて知らずに、ベンチに並んで座り、秘密のお喋りに興じている。
 シモンは手を動かしながら、頭上の声を聞くともなしに聞いていた。
「いいの。いいのよ。言えただけでいいの。伝えられただけでいいの。だってずっと、ずっと思ってきたんだもの。ずっと苦しくて苦しくて、あの人に言ったとき、『私やっと言えたんだわ』って感動しちゃった。もうあの人の答えなんてはいでもいいでもどっちでもよかったわ。本当よ。『好きです』って言ったあの瞬間、長年のあの人を好きになって嬉しいだとか悲しいだとか幸せだとか辛かったことすべてが、昇華されてすっきりしちゃった。あの人には断られたけど、いまは全然悲しくない。もっと、あの人に冷たく振られたら死んでしまうんじゃないかなぐらい思ってたの。いまは明日がくるのが楽しみ。振られちゃったけど、私はちゃんと言葉にできた。その瞬間、私の恋は終わっていたのね。明日からまた新しい私が始まるのが楽しみだわ」
「そう、あなたの気が晴れてよかった。あなたのそういう前向きなところ、わたし大好きよ」
 暗い影が穴の中に満ちている。薄闇色にさらに濃い影を落としている。シモンの影。いつのまにか夕日が落ちて、もう女子生徒の密やかな声は聞こえない。いつのまにか、シモンの手は止まっていた。
 言葉に出すと消えてしまうのか。漠然と思った。それは嫌だな。シモンの心に残ったのはそれだけだった。消したくない。昇華したくない。すっきりなどしたくない。心が晴れるときなどこない。あの日から降り続く雨は、シモンを濡らし影を落とし体を冷やすが、恵みの雨であることは変わりがない。絶やすものか。忘れてなどなるものか。言葉に出した瞬間、シモンは死ぬ。新しいシモンなど、シモンではない。ありえない。

「ありがとう」
 掘り起こしたタイムカプセルから、指定された物だけを取ってきた。手渡すと、婦人は両手で包み込むように受け取った。それはカセットテープだった。
「お慕いしていた人だったの。三年前に亡くなったわ。声をね、忘れてしまって。あんなに大好きだったのに。ずっとあの人の声を聞いていたのに。絶対あの人のこと忘れないと誓ったのに。そしたら思い出したの。合唱コンクールのカセットテープ。指揮者だったのよ、あの人。発表の前にひとこと言うの。クラス番号と曲名を。あの人の肉声。いましかないの。五年後にはきっと、カセットテープの再生機器なんてない。古いものはどんどん淘汰されていく。新しいものが押し流していく。記憶も。わたしはあの人の声を忘れてしまった。五年後に、わたしはあの人のことをほとんど覚えてないかもしれない。ううん。もし五年後このカセットテープを聞くことができても、『そういえばわたし、この子のことが好きだった』 としか思えないかもしれない。あの人を思い出すなんて嫌なの。思い出すまでは忘れていたなんて、絶対嫌なの」

 あの星以来、シモンの唇はかたく結ばれたままだ。それは寡黙なのではない。あるたったひとりの名前を呼ぼうとするときだけ、シモンの口元は強張る。叫び出したい夜に言葉を飲み込み。そうして腹に溜めて溜め続けた思いが、いつしか重く膨大ななものになって、シモンの体外へ出ようと暴れるのだ。それはまさしく、吐き気を無理やり抑えるみたいに。

 ここ最近の吐き気が酷かった。それはシモンの体力や精神力まで奪うほどだった。  目の前に立つ、その墓の前で。
「……ァ、」
 十年だ。まだ十年しか経っていない。まだその声を覚えている。どのようにシモンを呼ぶか。まだ胸にいる。あたたかなともしび。まだ。
 呼びたい。あなたを呼びたい。でも言葉に出した瞬間、この腹腔に溜めた思いが消えてしまう、減ってしまう、変容してしまう……かもしれない、その可能性が恐ろしい。言葉は容易に出て来ようとして、シモンは口元を手のひらで覆った。口に手を当てたまま俯き震える姿は、誰から見ても嘔吐を我慢しているように見える。
「シモン」
 その声を覚えている。どんな調子でシモンを呼ぶのか。それはときに低く穏やかな声で。ときに青空を裂くような高い声で。「シモン」と。
「シモン! おい聞いてんのか、こっち見ろ!」
「!?」
 顔をあげれば、青空を背にしてその人は立っていた。シモンは目を疑う。記憶のままの声で、記憶のままの姿で。
「ア、」
 その人を呼ぼうとして、シモンは我に返った。呼んでいいのか?
「どうした、シモン」
「あっ、ァ、……どうして」
 どうしてあなたが。
「お前が苦しんでるからだよ、シモン」
 シモンは墓の前で膝をついた。フードが落ちて、その顔を露わにする。頰がそげながらも、精悍な顔立ち。その片目は緑色に淡く発光している。
 見上げた先にはあの人が微笑んでいる。灼熱の太陽を遮って、そのまなこは赤くたわまり、口元を描く曲線は緩い。
「どうして、」
 苦しんでいた。苦しんでいたとも。あなたを失ったその日から、一瞬たりとも、苦しまなかったときなどない。それなのにどうして、いまなんだ。
「辛かったな、シモン。もういいんだ」
「うっ、ぅぐ、」
 歯と歯の間から、擦り切れた嗚咽が漏れでる。だめだ。シモンは手でおさえた。
「大丈夫だ、シモン。手をどけろ」
 さぁ、手を。その吐息が、驚くほど近くにあった。耳元が熱くなる。
「っ!?」
 顔を寄せて、彼はシモンと目線を合わせたまま頷く。
「大丈夫だ」
 ――お前なら大丈夫だ。
 力強く肯定されることに、シモンならと寄せられる信頼に、どれほどこの人の言葉は自分を支えてきただろう。いまはもうひとりで立って歩いていけるのに、どうして跪いた足に力が入らない。
 恐る恐る手をどける。彼は満足げに笑った。幼い笑みだった。
「そうだ、よくやったな。シモン。ほら、その手を」
 下に。
 導かれるように視線を下げて、シモンは瞠目した。股の間が盛り上がっている。勃起しているのだ。
 体に起こっている反応を理解して、シモンは赤面した。
「見ないでくれ……」
 切れ切れにそう頼むのがやっとで、それなのに彼は「大丈夫だ」と言う。
「シモン。ほら、なんにも悪いことじゃねぇんだから、触ってみな」
 彼の声のせいで全身が熱い。血管の渡るすみからすみまで、ゴウゴウと音をたてて血が巡っていく。
「あ、っぃ……」
 土くれに汚れた手が、衣服越しに股間を撫でた。湯気でも立っているのかと錯覚するほど、手のひらに伝わる熱がひどい。
「そうだ、シモン。その調子だ。お前にこんなこと、教える日がくるなんてな」
 そうだ。十年前はまだシモンに精通はきていなかった。誰かから何かを教わることもなく、大グレン団のメンバーが話す性的なニュアンスをたまに感じ取るぐらいで、シモンは性教育を受けずに大人になった。だから知らなかった。多くの人間は大事な人を失った瞬間を思い出しては射精しないのだということを。シモンは知らずに大人になった。
 あなたに自慰を見せる日がくるなんて。
 感慨深げにつぶやかれる言葉はシモンも同じだ。こんな日がくるなんて。
 熱は上がる一方だった。下穿きが先走りの体液でぐしょぐしょに濡れて気持ちが悪い。シモンの不快感を悟ったのか、その人は慈悲深く。
「いいぞ、シモン。脱いじまえ」
 許しを得たことでシモンの手はよどみなく動く。下腹部の衣服を緩めて、重くもたげた肉を取り出す。こらえ性のない汁が下生えまでしとどに濡らし、双球はパンパンに膨れていた。
 ヒュウ。頭上で下品な口笛。
「流石、シモン。でかいな」
 茶化したような言い方に居たたまれぬ羞恥心を覚えるのに、手は止まらないどころか、喜ぶようにシモンの性器が跳ね上がる。
「、ふっ、ぅ、」
 視線を注がれている。シモンの手中の欲望が肥大化する。背筋を駆け上る快感は口から飛び出そうだ。必死に奥歯を噛んで耐えた。
「大丈夫。シモン大丈夫だ。呼んでみろ。オレの名前を」
 もっと気持ちよくなるから。
「ぅう……! ぐ、ぅっ、っ」
 その瞬間、快感は恐怖に変わり、背筋が凍りつく。どうして。どうしてそんなことを言うの。
「オレが誰だか言ってみろ」
「っハ、あぁ、んぐ!」
 食いしばった歯が擦れる。このまま摩耗してしまいそうだ。口をおさえたいのに、手が止まらない。シモンがこれほど興奮するその名を呼んでしまいたい。呼びたい!
 ――呼びたくない。楽になりたくない。言葉に出せばすっきりする? ふざけるな!
「……っ、……!」
「シモン……」
 なんであんたはそんな声でオレを呼ぶんだ。まるでこの世界で一等大事な宝物だと言わんばかりに。
「シモン。なあ、シモン」
 呼びたい。あんたの名前を。オレの魂に刻み付けたその名前を。かけがえのないものはあんただ。オレのほうがずっとずっと、そう思ってきた。ずっと長い間。ずっと!
「シモン、オレの兄弟」
「……アニキ!」
 ――アニキ、アニキ、アニキ! オレのカミナ。オレだけの。
 腹腔に溜めに溜めた思いが爆発する。激流のように、雪崩のように、シモンの口から吐き出されていく。嘔吐の瞬間。
「っ、アニキ、アニキ、好きなんだ、ずっと好きだったんだ、いまでも好きなんだ、オレはあんたが、いちばん……!」
 この十年、アニキを忘れたことなんかなかった。ずっと覚えていた。その声も、言葉も、どんな風に笑い、怒り、泣き、またどのように表情を変えるのか。手のひらのあたたかさ、力強さ、シモンへのまなざし。すべて。失くしたくないと握ったものだった。いま、どうしてこの手のひらは濡れている?
 熱は迸り出ていた。その白濁を目にした。手が止まる。シモンは息を止めた。
「アニキ……?」
 顔を上げる。そこに人影はない。ただ大きな青空に太陽がぽかりと。風が吹いている。シモンの剥きだしの下半身をあっという間に冷やしていく。目の前は墓だ。変わらず刀とマントが。アニキがいない。
「あ、あぁっ、あっ、あ!」
 呼んでしまったからだ。シモンがその名を。決して口に出してはいけなかったのに。その思いを、吐き出してはいけなかったのに。だからもういない。シモンはひとりだ。
「あ、あ、あ、あ」
 呼べない。呼んではいけなかったのだ。言ってはいけなかった。この十年の腹の内を。吐き出してはいけなかった。
「あぁ……」
 その人の墓の前で、汚れた手のひらで顔を覆って、シモンはいつまでも蹲りつづけた。





「カミナシティ、銀河間協議実現に向けて動き出す」
 ある日の新聞にその見出しは大きく載った。
「すごいな、ブータ。ここにロシウの名前がある。大統領就任だとさ」
 土埃で汚れた指先で示せば、ブータは「ブイブイ」と鳴いた。仲間の活躍を、ブータも喜んでいるようだ。
「またこの季節がやってきたな」
 シモンは柔らかく目を細める。銀河の星々が煌々とシモンを照らす。
 空っぽの胃袋にまた食べ物を詰め込むように、精巣に種子が溜まるように、シモンの吐き出した思いが尽きることはなかった。しかし変質はあったのかもしれない。あの日から、シモンの視界は一層鮮やかに、鮮明に世界を映し出す。
 喪失が恐ろしかったシモンに「大丈夫だ」とあの人は言った。失われることなんてない。日々強くあの人を感じられる。シモンは気付いた。この思いを忘れ去るときなどくるはずがない。
 一際輝く螺旋の目で、シモンは見下ろした。
「一年に一度は、地球に帰る。そうだろ、ブータ」
 シモンは確信していた。いつかまたあの人は自分を呼んでくれるだろう。「シモン」と。記憶のままのその声で。
 だってほら、いまは足元まで見えている。













2017/5/20
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