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25歳





 最期の夜だった。
 憲兵団に引きずられるようにしてリヴァイ兵長が出て行ってから、どれ程の時が経っただろうか。
 まだ夜は明けない。
 明ければエレンが向かう先は冷たい刃の前だ。
 当然窓などない地下室で、カンテラの灯も落とされてしまえば時間の経過を知ることはできず、エレンはただ時が過ぎ行くことに耐えていた。
 朝までいったいあと何時間あるだろうか。
 エレンが生きていられる時間を数えているのではない。
 真っ暗闇の中で、悶々といつか必ず訪れるその瞬間を待っている。息を顰めて。この最低な気分はいつまで続くのか。窓も時計もなく時間の経過が分からない地下牢の隅で、できることなら朝がくるのを指折り数えていたかった。
 嘘ではない。強がりでもない。他人の前では――特にあの人の前では、恐怖も後悔も、悲観すらなかった。
 それが今はどうだ。たった一人で、草木も眠る夜更けに、牢獄の端っこで蹲っている。恐れることなど、もう何もないというのに。なかったはずなのに。
「今になって震えてくるのかよ」
 だせぇな。エレンは自嘲した。枷の嵌った己の手が小刻みに揺れている。必死で抑えようとすればするほど、カチャカチャと鳴る音は止まらない。耳障りな音がやたらに神経に響いて、エレンは更に追い詰められてしまうのだった。
「やっぱり……、怖ぇよ」
 この期に及んで、怯えているのだ。あのエレン・イェーガーが!
 自我の強さだけで戦い抜いてきたと自負するエレンにとって、これ以上惨めなことはなかった。
 確かに、自由と復讐を求めての戦いが終わっても、依然変わらずエレンは不自由な立場であったかもしれない。いつまで経ってもエレンの体は拘束されたままだった。
 自分のものなのに。自身の体なのに。自分の意志のままに体が動かせないということは、それが就寝時の手枷であっても巨人化中の忘我であってもエレンには苦痛でしかない。
 それでも。エレンは自分が生を受けてから勝利を勝ち取った今まで、その四半世紀中で一瞬でも自分が自由でない時などなかったと断言できる。
 エレンの意志は、例え身体的には思うようにいかなかった時があったとしても、その心はずっと自由だった。誰にも己の意志を強制させやしなかった。全部自分で選んできたのだ。戦うと、決めたのはエレンだ。その結果、死ぬほど後悔することがあっても。エレンは己の自由を手放さなかった。自らの意志で戦うことを止めなかった。思考を停止させたことは一時もなく、決断することを放棄したり、諦めたりすることはなかった。エレンの誇りだった。
 だから。そうしてがむしゃらに己の意志で進んできた結果が、死を前にして怯懦に震えているなど、情けなさ過ぎて自分に自分が納得できない。
 その誇りを胸にして堂々と一生を終えたいのに。朝になって処刑台を前にしてもこの体の震えが止まらなかったらどうしよう。
 あの人が見たら、何と思うだろうか。
 きっと一生に残る傷となって、あの人をいつまでも苦しめるだろう。
 そんなこと、死んでもごめんだ。だったら今この場で舌を噛み切って死んでやる。できるはずだ。己の掌さえ噛み千切ることができたのだから。
 エレンは舌先の感触を確かめた。緊張の余りカラカラに乾いた口内で、ザラザラの舌が喉奥まで迫ってくるような錯覚。この根をちょん切ってしまえば、容易く肉塊は気道を塞いでしまうのだ。
「うぅ、」
 朝になって、冷たい屍となったエレンを見たら、あの人はどう思うだろう。もしくはうまく死にきれなかったとして、何かをきっかけに巨人化してしまったら。夜明けの迫る頃に、刃を振り下ろさなくてはいけなくなったあの人は。
 どれほど苦しむというのだろうか。
 咄嗟にエレンはか細い悲鳴をあげていた。無意識に助けてと縋った名前は、余りにも予想外だったために、エレンはその名を認識した途端に震えが止まった。
「……母さんっ!」
 母だった。
 巨人に喰われた母。最期どんな顔をしていただろうか。幼少の頃、エレンを叱りつけた母。エレンの悪戯に、しょうがないわねと笑って許してくれた母。道端の花がとてもきれいだったからと渡したら、とても嬉しそうに喜んでくれた母。あの花が暫く食卓の上に飾られていたことをこの時になって思い出す。ミカサと一緒にエレンを抱きしめてくれた母。「生き延びるのよ」と言った。母が言ったのだ。
 エレンの戦いの根底には、ずっと母の存在があった。それは時に悲しく、辛い思いをエレンにさせたけれど、時に自分を助け、生かしてきた。彼女はエレンを一人にしなかった。もうその手を取ることは永遠にできないけれど、その存在はずっとエレンの傍にいた。寄り添うように。大丈夫。母はエレンの心の中で今も自分と共にいるのだ。
 ふっと、鬱屈した思いが軽くなったような気がした。
 母を思い出せば、次に呼ぶ名も自然と出てきた。
「父さん」
 尊敬する父だった。特異な体質となってしまってからは恨みもした、憤りもしたが、あの日々の幸福は確かにあった。父を慕う気持ちを完全に失うことはできなかった。
 ミカサ、アルミン、ハンネスおじさん。
 それから一人ずつ回顧していき、百四期の人々。仲間も裏切り者も関係なく、かけがえのない日々を過ごした同期達のことを想った。
 トロスト区でエレンを信じてくれた兵団員、旧リヴァイ班の先輩達、今はもうほとんどが亡くなっている調査兵団の幹部の名前を呼んだ。
 みんな、ここにいた。
 死んでしまった人も生きている奴らも、エレンを生かしてくれた人達はみんな。
 ずっと一緒にいたのだ。エレンの自由な心の中で。失われたことなどなかった。
 そうして最期には呼ぶのだろう、あの人の名を。
「……リヴァイ兵長」
 きっと怖くはないはずだ。
 死ぬ前に気付けて良かった。エレンが今夜一人ぼっちにならなかったように、あの人も独りになることなんてできないのだ。今この時になって、やっと分かった。……良かった。本当に良かった。これで何も恐れることなく眠れるだろう。
「おやすみなさい」
 エレンは、どんな時にも必ず朝がやってくることを随分前から知っていた。
 夜明けは迫ってきていた。束の間の時間、エレンは幸福な夢を見た。














2014/10/6
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