12歳と17歳
風呂上りに日課となっている牛乳を飲んでいると、玄関の方で物音がした。
時計を見てみれば夜の七時を少し過ぎたところ。母親の在宅は確認済みなので、残すは二人。父親にしては帰りが早すぎるし、兄であるエレンにしては少し遅い。しかしエレンに関してはここ二、三日はいつもこれぐらいの帰宅であった。
リヴァイはそのままコップを洗っていると、ちょうどリビングにエレンが現れた。
「ただいまぁ」
学生鞄をソファに落とすのをリヴァイが見咎めても、エレンが気にした素振りはなく「あちー」と言いながら冷蔵庫に向かう。洗い終わったばかりのリヴァイ専用のコップを渡すと、軽く礼を告げたエレンは冷えた麦茶をそこへ注いだ。
所作がいちいち雑なせいか、勢い余って兄の手元で飛沫が飛び散る。フローリングにでも垂らそうものならリヴァイ直々に指導が入るが、僅かな水滴は兄の日に焼けた肌にちょこちょこと乗るのがせいぜいだ。水飛沫は皮膚の上で細かくキラキラと輝いて、リヴァイは暫し兄の親指の付け根に光が乗っているさまを注視した。弟がじっと見ていることを気にしないエレンは、一気に麦茶を呷ってご満悦なのであった。
「ふー」
満足げに吐き出した溜息に、リヴァイの背筋がゾクゾクした。背を這うものにあまり意識を向けないようにして、ことさら何気ない風に問いかける。
「最近帰りが遅いな」
一息ついたエレンは「あぁ」と軽い調子で頷いて、先ほどのリヴァイと同じような手順でコップを洗い始める。
「彼女を家まで送ってるからな」
遠回りして放課後デートしてんの。
恥ずかしげもなく、ましてや気まずさもなく告げられた衝撃の事実に、リヴァイは心臓が止まったような心地だった。
「……彼女、だと?」
やっとの思いで口にしたというのにエレンはあっさりと肯定して、あまつさえ更に言葉を続けるのだ。
「この前告白されて、それから付き合ってる」
聞いてねぇぞ……。知らず腹の底から這い出た低い声は呻くようだったが、エレンの調子に何の変化も及ぼさなかった。言ってなかったからな。何故と尋ねれば、どこの世界に弟に彼女ができたことをわざわざ報告する兄貴がいるんだよと笑われた。その軽薄すぎる笑いがリヴァイの神経を逆なでしてやまない。
エレンはよく、リヴァイに自分たちが兄弟であることを強調するような言い方をする。所詮俺たちは兄と弟なのだと窘められているみたいで、リヴァイはその度に腹の奥がざわざわと毛羽立つのだ。穏やかな胸中にはなれない。
リヴァイが押し黙ると何を勘違いしたのか、エレンは我が意を得たりというような顔をして、「お前もさ、彼女つくってみたら」と言ってのけた。
カッと体に血が上る。このまま自分がエレンに何をするのか分からなくなって、リヴァイは何も言わずに自室へと引きこもった。
何て酷いことを言うのだろう、あの兄は。
彼女が欲しいなんて、リヴァイが望んでいると本気で思っているのだろうか。
エレンしか。いつだってリヴァイはエレンしか望んでいないというのに。女などと。
彼女なんて望むはずがない。エレンと一緒にいられれば良いのだ。
エレンが欲しい。エレンが欲しい。エレンが欲しい。
(お前が俺の彼女になれば良いのに!)
荒れ狂った頭の中で導かれた結論に、はたとリヴァイの思考は停止した。僅かな間があった。ブゥンとパソコンが再起動するように、リヴァイはゆっくりと思いを巡らしていく。
エレンが、彼女なら。一緒に寄り添って、一緒にご飯を食べて、一緒に眠ることだって自然なことだろう。少なくとも兄弟よりは。
リヴァイにとってエレンと共にいることは当然のことだったが、あいにくエレンの価値観は兄弟という関係が邪魔をしてリヴァイを受け入れられないようだった。この数年で、嫌というほど思い知った。兄弟という絆がある限り、エレンとリヴァイの距離は埋まらない。
だが恋人同士ならば。エレンとリヴァイが恋人なら、エレンも拒否感を抱くことなくリヴァイと共にいることを許容できるだろうか。
食う寝るところに住むところ、ずっと一緒だ。それは悪くない考えだった。今だって彼女を優先して弟であるリヴァイを蔑ろにしているではないか。エレンが彼女を送って寄り道なんかしなかったら、一時間早くリヴァイはエレンに会うことができたはずだ。あの一時間を自分のものにできるのなら。
兄弟という関係にリヴァイが固執する理由はない。
エレンと共にいられさえすれば良いのだから、その関係が恋人になったとしてもリヴァイが構わなかった。
さて、では。
リヴァイは組んだ手を顔の前に置き、熟考のポーズを取る。
兄弟と恋人の違いは何だろうか。兄弟ではしなくて、恋人とはすること。リヴァイが兄としてのエレンにではなく、彼女としてのエレンにすること。
こんなところでカマトトぶるつもりはリヴァイにはない。ついでに余裕もなかった。
パソコンを起動するとすぐさまネットに繋いで、検索欄に単語を入力していく。
「男同士」「キス」
「男同士」「セックス」
そこにはリヴァイの見たことのない世界が広がっていた。
「ハッ!」
夜も更けようかという頃に、リヴァイは飛び起きた。じっとりとかいた汗が不快だがそれどころではない。
リヴァイは隣で寝ている(というよりここはエレンのベッドだ)エレンの上掛けを乱暴に剥ぎ取った。
「おい! おい!」
胸倉を掴んでこちらの気も知らずに安眠中のエレンを揺さぶると、その眉間に深い皺が寄る。うぅ、だとかあぅだとかむずかるような声を出して、エレンがやっと薄目を開けた。すると薄らとした闇の中で、寝ぼけまなこは涙に濡れてキラキラとエメラルド色に輝いた。先ほどリヴァイが見つめていた眼差しと重なる。夢と現実の一致にリヴァイはとても動揺して、ぶるぶると手が震えだすのを止められなかった。
「おいエレン。お前ちゃんと服着てるか」
震えすら混じる声でとんちんかんなことを尋ねられて、エレンは睡眠を妨害された不快感そのままに胡乱な目を向けた。
「お前が掴んでるものは何だって言うんだよ……」
言われて手元を見ると、しっかりエレンのパジャマの襟ぐりを握っている。まじまじと見下ろせば、エレンが服を着てないということはない。
「……下は?」
それでも信じられないというように、視線を下げておきながらエレンにも確認するリヴァイは真剣で、エレンは呆れていいのか怒っていいのか分からないみたいな、出来損ないの顔をした。
「俺に全裸で寝る趣味はねぇよ」
知ってんだろ?
胸倉を掴んでいる手を存外優しい手つきで叩かれて、リヴァイはやっと落ち着くことができた。
「……あぁ。そうだったな」
何年一緒にベッドを共にしたと思っているのか。確かに、エレンが裸のままで寝たことなど、今まで一度もなかった。どんなに熱くて寝苦しい夜でも、エレンはタンクトップにトランクスは身に着けていた。それを知らないリヴァイではない。
ホッとした途端に感じた下腹部への違和感にリヴァイは眉を顰めたが、すぐに事態を察して戦いた。
隣で身じろぎもせず座ったままの弟を訝しんで、エレンはその肩を叩く。びくりと震えたリヴァイ以上に、常ならない様子にエレンが驚いて、「どうした?」とかけた声は弟を案じたもの以外の何ものでもない。
リヴァイは咄嗟にエレンの手を振り払った。緊張しているせいでざらざらした喉に力を込めて、無理やり絞り出したような声で答える。
「、いや」
なんて白々しい声だろうか。自分の声なのに自分のものではないみたいだ。動転していることをまざまざと思い知らされて、リヴァイは気まずさを誤魔化すように舌を打つ。
今すぐ駆け出してしまいたかったが、その気持ちを抑えて慎重に立ち上がると背後のエレンは慌てたようだった。夜中におかしな弟が気がかりなのだろう。
「おいどうしたんだ? 部屋に戻んのか?」
おろおろと気弱な声が、今のリヴァイにとっては辛かった。滅多に聞くことのないエレンの困りきったその声を、リヴァイはついさきほど耳にしたばかりだったから。勿論実際に聞いたわけではないのだけれど。
拳をぎゅっと握りしめると、努めて平静な声を出した。
「……糞」
たった一言でもエレンを安堵させるには十分だったようで、背後から拍子抜けしたような空気が伝わる。リヴァイだって、こんな夜中にこんな惨めな気分で、冗談(に見せるため)でもシモの話をするのはやりきれない。
「あっ、そ……。漏らすなよ」
誰がこの年で漏らすか。そう言って今すぐ勘違いを正したかったが、そもそも便意など初めからないリヴァイは墓穴を掘ることを避けて口を噤んだ。
どこか気の抜けないエレンに不信を抱かせないよう気を使って歩きだしたリヴァイだったが、扉に辿り着く前にはエレンの寝息が聞こえはじめたので全くの杞憂であったようだ。一息つくとそれは溜息となってリヴァイの口から出ていく。
張りつめていたものが無くなった分、なんだか理不尽な怒りを持て余してしまう。理性ではエレンに非がないことを理解していた。悪いのはネットだ。いや、好奇心を抑えられなかった自分が一番悪い。
何だあの画像は。何だったんだあの映像は。
よく考えもしないで再生ボタンをクリックした自分を心底恨んだ。おかげでとんでもない夢を見てしまった。まさかエレンが……。
リヴァイがいつエレンのベッドに戻ったのか、当の本人は知らないだろう。
リヴァイも夜明け前に汚れたパンツを手洗いする惨めさを、できれば知らないままでいたかった。
2014/10/6