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7歳と12歳





 息苦しくて目が覚めた。
 枕に押し付けていたままだった頬がじんわり痛い。しかしそのせいで深夜のこの時間に起きてしまったのではない。エレンが気にかかったのは、自分の体が思うように動かせないことだった。
「?」
 まるで拘束されているかのように体の自由がきかなくて、不快感に息が詰まる。エレンは暫くの間、ぼんやりとその気持ちの悪さを感じるままに横になっていた。
 そうして暗闇の中でじっとしていると、やがて目が慣れてきたのか、エレンを追い詰めている原因がぼうっと白く浮かびあがってくる。その輪郭は幼さを表すようにあどけなく丸い。熟睡しているのだろう、安眠を妨害されたエレンに比べて、深い呼吸は僅かな狂いもない。憎たらしいほど健やかな寝息だった。
 他人の息遣い。
 他人の体温。
 リヴァイ。七年前にエレンの家族になった。五歳下の弟だ。
 ベッドを共にしようとするリヴァイに、いい加減一人寝ができるようになれと言いつけて(半ば突き放すようにして)昨夜はリヴァイの目の前で自室の扉を閉めたというのに、どうして彼がここにいるのだろう。
 疑問に思うのは寝ぼけた頭でも瞬きの間だけで、すぐにエレンは思い至る。同時に長い溜息を漏らした。
 どうしたも何も、リヴァイはエレンが寝入った時を見計らって、部屋に忍び込んできたのだろう。過去、何度も繰り返されてきた顛末に、エレンは学習能力がないのは自分なのか弟なのか分からなくなってしまっていた。
 自室に鍵が欲しいと、思わないわけではない。エレンだってもう、来年は中学生なのだ。そりゃあひとりきりになりたい時だってある。
 両親は許してくれるだろうか、とか、鍵を取り付けるのは一人でできるだろうか、もし工事を頼むとしたら僅かなお小遣いだけで足りるだろうか、それらのことを考えるととても面倒くさくて、エレンはいつもこの企てを夢想するだけだった。
 何より、例え親に反対されようとも一度自分がこうすると決めたのなら誰にも覆させやしないのに、面倒だからと投げ出してしまえる時点で、エレンはそこまで自室に鍵をつけることを望んでなんかいやしないのだった。
 リヴァイの、あの顔が駄目だ。
 仏頂面なのに、エレンにだけ寂しさを気付かせる。母にも父にも何でもない顔をして、エレンにだけ弱みを見せる。卑怯な奴だった。そんな顔をされてしまったら、良き兄でありたいエレンはついその小さい体を抱きしめてしまうのもしょうがないのだ。
 でも、だからと言って。
 エレンの意識がないのを良いことに勝手にベッドへ入り込んできて、寝返りも打てないほどしがみついているというのには辟易する。エレンは昔から、自分の体が己の範疇を超えることが大嫌いなのだ。
 エレンの体を抱きしめようとして乗っけられた細い腕が重かった。どんなに細くても、人の重さだ。引きはがそうと身を捩ると、いったいどこまで無意識なのか、余計にぎゅっと握られてしまう。
 リヴァイの寝顔には眉間に深い皺が寄せられて、むずがっている赤子のようにも、途方に暮れた大人のようにも見えた。その顔に、エレンの心臓は大きく鼓動した。
 それはとても嫌な感じだった。どくりと打った一回がきっかけになって、血液がどんどん逆流していくみたいな。冷や汗がエレンの背中を伝い落ちていく。
 元より変な時間に起こされたのだ。イライラしていた意識は寝ぼけた状態であっというまに自制のメーターを振り切った。カッと逆上したままに、リヴァイをベッドから蹴りだした。どすん! と、深夜にたてるには心臓に悪いほど大きな音。リヴァイがベッドから転がり落ちて、やっとエレンは冷静な意識を取り戻すことができた。夢うつつだったところから覚醒したと言っても良い。とにかく自分がしてしまったことに慌てふためいて、エレンは声を張り上げた。
「おい! リヴァイ大丈夫か!?」
 ベッドの淵から見下ろしたリヴァイは不機嫌な顔をしたまま目を瞬かせている。彼はエレン以上にびっくりしたことだろう。
「あ?」
 まだ理解が追い付いていないのか、リヴァイはぼんやりと打ち付けた頭を撫でていて、エレンは血の気が引く代わりにぐっと罪悪感が増した。
「ごめん! 驚いたから蹴っちまった。痛いか? 痛いよな。ごめんな」
 リヴァイがいることに驚いたんじゃない。
 手をどかそうとしただけで、リヴァイがちぐはぐな顔をしたことに驚いたんだ。
 後から思えば、エレンは自分の心情をそう分析できたかもしれない。だが今は、リヴァイを案じることで頭がいっぱいになってしまっていて、自身の感情にまで気を向けることができなかった。リヴァイがやっと立ち上がって「大丈夫だ」と言ってみせても、エレンは不安を拭えなくて、細い腕や薄い背中を無意味に撫でさすっていた。
 そんなエレンの様子にリヴァイは目を細めて満足そうに吐息を漏らしても、兄は弟の心情を欠片も察することができない。だがリヴァイが当然のようにまたベッドに潜り込もうとしてくるので、エレンも我に返って肩を撫でていた手を突っぱねた。拒絶されたリヴァイが気分を害したのは火を見るよりも明らかだ。リヴァイの鋭い視線は暗闇の中一直線にエレンを貫いた。
(おい、邪魔だ″)
「おい、手ぇ邪魔だ。ベッド空けろ」
 不遜に言い放つ態度に、先ほどまでのしおらしさも忘れて、というより自分ばかりが動転していたことに恥ずかしさを覚え始めて、エレンは気まずさから声を荒げた。
「元はと言えばお前が隣で寝てたからびっくりしちゃったんだろ! さっさと部屋に戻って一人で寝ろよ」
 リヴァイがベッドに入ってこられないように、上掛けの毛布を全部自分に巻き込んでしまう。蓑虫のような恰好をしたエレンに見上げられたリヴァイは、そんな兄の様子をじっと見下ろしていた。それから一言。
「いやだ」
 と言ってフローリングの床にしゃがみこむ。
 だんだん夏に近づいてきたとはいえ、深夜はまだまだひやりとした冷気を帯びている。このまま地べたに座って一晩を明かせば、リヴァイは風邪をひいてしまうだろう。
 エレンはリヴァイのことが嫌いだから一緒に寝ることを拒んでいるのではなかった。いつか離れて寝なくてはいけない時がくるのだから、リヴァイには一人寝に慣れてほしいだけだ。
 それに、とエレンは今日の(本当はもう昨日の)ことを思い出す。この年でまだ兄弟が同じベッドで寝ていることを学友にからかわれた。自我が育ち多感な時期に、同じ年の奴らから「一人で寝れないなんて、まだまだガキだな」と鼻で笑われるあの屈辱。パンチの一発でもお見舞いしてしまうというもの。そのせいで教師からも母親からもこっぴどく叱られてしまったが、エレンはいけ好かない友人の鼻っ柱に拳をいれてやったことに罪悪感など持っていない。ただやはり、悔しかった。
 リヴァイを可愛く思っているからこそ同じような思いはさせたくないというのに、この弟は全く兄心を分かっていない。あまつさえ寒い思いをしてもエレンと共にいようとするのだから、エレンはほとほと困ってしまう。エレンはもちろん、リヴァイが風邪をひいて苦しい思いをすることを望んでいるわけじゃななかった。
「リヴァイ」
 言い聞かせるように名前を呼んでも、うんともすんとも答えない弟。リヴァイのこの頑なさは、いったい誰に似たのだろう。
 頭の痛い思いでリヴァイを見ていると、無言を貫いていた弟が小さくくしゃみをした。ふるりと震える小さな頭。
 エレンが盛大に溜息を吐くと、その肩は僅かに反応する。膝を抱えているリヴァイはエレンに目も合わせようとしない。我が儘だと、理解はしているのだろう。エレンを困らせていると分かっている。
 それでも一人寝は耐えられないのか。
 それとも、寒くても体が痛くても、エレンと一緒に寝られなくたって、そのそばを離れたくないとでもいうのだろうか。
 エレンにはてんで理解できなかったけれど、今まで一緒に寝るのは当然と言わんばかりだったリヴァイが、こうしてここにいたいのが当たり前のことなのではなくて我が儘なことなのだと自覚できたのなら、それで今は良いじゃないか。小さいながらも確実な一歩だ。
 エレンはそう自分に言い聞かせて、リヴァイには及第点を与えることにした。本当にリヴァイに甘いのはエレンだという自覚はこの時にはまだなかった。ついでに言えば学習能力がないのは自分こそで、いつまでも同じことを繰り返すことになるのだとは、今のエレンには知る由もないことだ。
 エレンは下に巻き込んでいたブランケットの裾を持ち上げる。外気が入り込んで温もったエレンの体には少々肌寒いほどだった。
「今日だけだからな」
 むっつりとしたエレンの声を聞いて、リヴァイは顔を上げる。その呆気にとられた表情に、弟がこのまま夜を明かすことを許容できるような薄情な兄だとでも思っているのかと、エレンは呆れと憤りでひくりと口元をひくつかせた。
「さっさと入ってこいよ。寒いだろ」
 のっそりとした動きで、おそるおそるリヴァイがベッドに潜り込んでくる。普段は傲岸不遜が服を着て歩いているかのようなのに、随分殊勝な様子に首を傾げた。冷えた体を抱きしめながらさすってやると、弟の体からほっと強張りが抜けていく。
 リヴァイなりに、思うところがあったのかもしれない。  思えば部屋から閉め出されて、ベッドから蹴りだされて、それから床放置だ。
 リヴァイがエレンに拒絶されたと考えるのは想像するに容易いし、もしかしたら嫌われたとでも思ったのかも。なるほど、だからこその目線も合わせぬ体育座りだったのか。リヴァイにも可愛いところがあるものだ。例えばいつにも似つかわしくなく落ち込んでいるさまだとか。その原因が勘違いだとか。兄である自分にどう思われたのかを気にして一喜一憂するリヴァイに、嬉しいようなこそばゆいような、逆にひしひしと追い詰められているかのような気分になる。弟の気持ちがエレンに向けられていることは喜ばしいが、その一途さが度を越していると思えて不安でならない。これは依存というものではないのだろうか。
「いつになったら、お前の甘えんぼは治るんだろうな」
 今は、まだ今は良くても。
 その先はどうだろう。エレンには暗闇しか見えない。目を凝らそうとすると、ごうごうと唸る風音がそれ以上エレンの目を開けさせないのだった。
「……ずっとだ」
 その小さな声は後のことを考えれば確かにエレンをゾッとさせるには十分だったが、この時はまだ子どもの戯れ言だと思っていた。
 ずっとじゃ困るな。そう言いたいのに、二人分の体温と二人分の鼓動が一緒になって、エレンを眠りの淵に誘い込んでいく。
 エレンの呼吸が次第に深くなっていくことに、密着していたリヴァイは当然気付いているのだろう。秘めやかな声だった。
「おやすみ……兄さん」

 弟から兄と呼ばれたことなど、それからあと何回あっただろう。














2014/10/6
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