inserted by FC2 system








隠された太陽





あの時は清々しい晴れ間だった。恐らく半年前のことだろう。
エレンは屋敷に備えられたホールでミカサと対峙している。ミカサがこの屋敷を(少々強引に)訪ねてくるのはこれで八度目であった。その度に手痛いしっぺ返しを食らうのに、ミカサは一向に諦めたりしない。エレンを、リヴァイの下から離すことに。
エレンは切なくなる。エレンを思っての行動だろうが、エレンを思うなら自分をリヴァイから引き離すことなどしないでほしかった。しかしそれは言葉にしなければ伝わるはずもない。
リヴァイは「追い払え」と言った。エレンのなけなしの武力を行使してもという意味だが、それ以外をリヴァイは許していない。ミカサにエレンの思いを伝えることも。
「どうして?」
目の前にいるミカサは静かな、しかし激情を無理に押さえつけたような声で問いかける。どうしてエレンはここから逃げ出さないのかと。その疑問に答えることはできない。
ミカサが一歩踏み出し、足元からジャラリと音がする。ミカサはホールの窓を突き破ってきたので、その破片が散らばっているのだ。ミカサ突入に大きな音がしたが、エレンに下されている命令を知っている優秀な使用人たちがこの場に駆けつけることはない。決して狭くはないホールの中で、いるのはエレンとミカサの二人だけだ。
エレンは訓練兵時代、対人格闘術で優秀な成績を修めていたが、ミカサに敵うかどうかは五分五分だった、そしてそれは過去の話で、戦線を離脱して久しい今のエレンには、ミカサを追い出すだけの力はない。
だからそのガラスの破片を手に取った。
ミカサに突き立てるためではない、その鋭い断面を己の首筋に当てるためだ。
「!?」
ミカサが驚きで一歩踏み出した体制のまま固まる。
ミカサも分かっているはずだ、ミカサが動けば、エレンも動く。
自分の身を傷つけることを、エレンはリヴァイから許されていなかったが。それでも。
「どうして…!?」
ミカサの声に悲痛なものが混ざる。エレンの行動の意味を、エレンの意志を確かめたいのだ。
ミカサは涙した。
エレンはリヴァイのためを思って、自分が傷つくことにも躊躇いはない。エレンを救い出したいのに、エレンを追いつめているのはミカサだった。エレンの意志は強く、そこまではっきりとした意志があるのなら、何故リヴァイの所有物でいることに甘んじているのか。分からないことだらけだった。エレンを助けたいというミカサの思いを、どうしてエレンは拒絶する? 混乱と現実の不条理さが、ミカサの頬を濡らした。エレンの言葉が欲しい。そんな卑怯な手は使わないで。
エレンもまた、ミカサの涙に追い込まれていた。リヴァイはたった一人のエレンのかつての恋人だけれど、ミカサはエレンの唯一の家族なのだ。彼女を悲しませたくなどなかった。でも悲しませてしまった。いつもそうだ。後悔しない方を選んでも、後悔は避けられず、そして後悔してももう遅い。
咽喉が震える。世界の残酷さがエレンの息を詰まらせる。し辛い呼吸を整えるように息を吐き出したはずが、言葉も知らずに零れ出ていた。エレンの意志に反して。
「泣くなよ」
エレンがリヴァイの所有物になってから、初めてミカサに向けられた言葉だった。ミカサも驚いたが、エレンも驚いていた。
「泣くな」
しかしエレンの驚きは一瞬で、吐き出した言葉はなかったことになどできない、エレンは覚悟を決め、このままその胸の内を語ることを自分に許した。リヴァイが許すはずもなかったが、リヴァイはこの場にいないのだ。
ミカサがエレンの言葉に納得して、二度とエレンとリヴァイの前に現れなければ、エレンが真実さえ言わなければ、リヴァイが今これから起こることを知ることはできない。
エレンは賭けた。その禁忌を犯すことを。
ガラス片を放り投げ、ミカサの身体を正面から抱きしめる。その黒い髪を撫でてやった。エレンがリヴァイ以外の者に触れるなど、リヴァイが知ったら怒り狂うだろう。
エレンは息を吸って、ミカサにだけ内緒の秘密を打ち明ける。
エレンの隠された本心を。
今この時ばかりは白日の下に晒す。
「決めたんだ。あの人と共に生きるって」
エレンが自分の意志で決められることは極端に少ない。かつては運命が、今はリヴァイが、その意志と行動を制限している。だからエレンは自分の決めたことには、できうる限り真摯に尽くそうと誓っていた。昔はそれが「仲間を守る」ということだった。それはもう達成されたし、もはや意味のないことだった。
巨人は根絶やしにされたのだ。エレンを除いて、一匹残らず。
エレンはその事実がどういうことなのか理解している。その事実を叶えた一端が誰にあるのかということも。
それでもエレンは構わなかった。例えその一瞬でも長く、仲間の命を繋ぐことができるのならと、そう望んだのはエレンだった。その願いは果たされたと言って良い。なら何の後悔もない。ないことにした。もはや仲間が誰一人生き残っていないとしても。
「なんであの人なの…?」
震える声でミカサが尋ねる。答えるエレンの声も震えていた。
この抱擁が、この会話が、恐らくミカサとは今生で最後のものとなるだろう。過去、鬼神の如く巨人を狩っていた彼女の身体は、こんなにも頼りないものだっただろうか。こんなに震えて。
震えているのはどちらだったのか、二人には分からなかったけれど。
「俺が傷つけてしまった人だから」
かつては恋人だった。その関係は身体から始まったものだったが、人が次々に死んでいく日々の中で、肌を重ねて、その温もりに安堵して、一時的とは言え安寧をもたらす存在に、情が湧いてしまうのは止めようもないことだった。あの人もそうだったはずだ。口付けはいつだって優しく、ただエレンを求めるものばかりだったから。あの人はいつも、エレンの温もりを求めていた。そして求めていたのはリヴァイだけではない、エレンだって確かにリヴァイを思っていた。それは今も変わらない。
しかし運命に従ったエレンは、人類最強という重荷を背負った男の、脆く柔らかい心の部分を慈しみ守る資格を失った。なら代わりに仲間を守ろうと決意した。
エレンがした行動に、リヴァイの心に刃を突き立てたことに、後悔はしない。しないように生きるのだと、エレンは心の痛みを切り捨てた。あの人が感じたものに比べれば、なんてことないはずだった。
しかしエレンに無情を強いた戦いが終わりいざその蓋を開けてみると、残されたのは傷ついて血を流すリヴァイと、リヴァイの所有物となったエレン、二人だけだった。
なら今度こそ、リヴァイをその心ごと守ろうとエレンは誓った。
虫の良い話だと自分でも思った、運命に抗えなかったからリヴァイを捨て仲間を守ろうとし、リヴァイしかいなくなったからリヴァイを次の誓いの相手にする。だが自由を手に入れた人類とは反対に、不自由を強いられリヴァイの家畜となったエレンが、自分の意志のままに誓い、その誓いのままに行動することは、エレンに許された唯一の人間的な行為だったのだ。リヴァイを守り、優しくすることができないのなら、エレンはもう人間でもない。生きる価値もない。
リヴァイに添い遂げる意志こそが、その誓いこそが、むざむざ一人生き延びてしまったエレンを生かした。
「俺が傍にいなくちゃいけないのは、あの人だけだから」
エレンが愛した、かつての恋人。
現在のリヴァイはエレンの所有者で、エレンはリヴァイの家畜だった。
エレンはもはや、リヴァイへ与えるべき言葉を持たない。彼に対してなんて言えば良いのか分からないのだ。リヴァイの心の柔らかな部分に触れることは、今のエレンにとって恐ろしいことだった。恋人同士の時は簡単にできた他愛ない慰め合いも、もうエレンにはできない。言葉を持たないから、エレンはリヴァイに望まれない限りは口を閉ざしている。エレンの本心を、リヴァイに告げることはしない。そんなの無意味なことだと、エレンは肌で知っていた。
せめてもと、エレンにはリヴァイの言葉に従うことしかできない。自分のせいで傷つけてしまった、今もエレンが自分の傍から離れていかないか不安に思っていることだろう、どうしようもない人。
「私じゃ、駄目なのね」
エレンが傷つけたと言うのなら、決して少なくない多くの者が、エレンの裏切りによって傷ついただろう。信じてくれた上司、先輩、同期、仲間、親友、そして家族。
それでも。
「ああ」
エレンが選んだのはたった一人の男だけなのだ。
生涯を懸けて、償いたいのは。
「分かった」
ミカサはエレンの肩に顔をうずめた。最後にその温もりを身体に分け与えるように。
「もう会わない」
ミカサはエレンが何よりも大事だった。その身体も、その意志も。自分の存在がエレンの邪魔になることを良しとはしない。
でも、だからと言って。この身が引き裂かれるように辛いことは変わらない。
「ごめんな。ありがとう」
エレンの声も涙交じりだった。
雲一つもない、何ものにも隠されることのない太陽がらんらんと輝くその陽光を、壊れた窓越しに感じながら。交わされた家族との最後の会話だった。

ミカサが屋敷を出てから数時間で散乱したガラス片は片付けられ、呼ばれた業者によって、窓ガラスは迅速に元通りに。日暮れと同時に帰ってきたリヴァイを待っていたのは、二、三の簡素な報告と、エレン一人だけだった。














2013/6/29
inserted by FC2 system