inserted by FC2 system








曇天の中で誓いが君を待っている





エレンがリヴァイの手を放れて一週間後、エレンは再び調査兵団からその姿を消した。内通者がいたのではと憶測されたが、その真偽は定かではない。「それ見たことか」と怒りに怒り狂ったのはリヴァイだ。エレン監視の任を外されてから不機嫌の一途を辿っていたリヴァイは、もはや誰にも手が付けられないほどだった。
何度か行われる壁外調査でも調査兵団は大した功績を上げられず、一度敵の手に渡ったエレンは警戒してか、なかなかその姿をリヴァイたちの前に現さなかった。そうして無為に一年が流れる。

突如現れた女型の巨人に、兵団の被害は甚大だった。それでも団長エルヴィンの立てた緻密な作戦と百四期生のアルミン・アルレルトの大胆な機転が功を奏し、女型の巨人を追いつめることができた。
その項を削ぐ前に、力尽きた巨体が崩れ落ち、中核を晒す。蒸気が辺りを覆う中、人影が現れる。まだ少女だ。だが敵であることは変わらない。
「アニ!」
少女確保に動き出す団員を止めるような、突き刺すような声だった。聞き覚えのありすぎる、少年の声だ。
どこに隠れていたのか、リヴァイの切望するその存在が、十メートル先の木陰で挑むように仁王立ちしている。
エレンだった。
敵地に単身乗り込むほど馬鹿ではなかったのか、その後ろには二人の男がいる。無駄に背の高い男と、妙にガタイの良い男だ。しかしリヴァイはそんな男どものことなど、眼中になかった。
「エレン、」
リヴァイが名前を呼んでも、エレンはこちらを一瞥することもしない。単純に声が届かないだけとも思ったが、エレンのらんらんと輝くその眼差しは一心に少女へと注がれている。エレンは当の昔に選んでいるのだ。リヴァイでなく少女―――巨人の仲間、を。
リヴァイの胸は焼け付くように痛んだが、リヴァイは冷静な頭でそれを無視した。感傷に浸っている場合ではない。これはチャンスだった。
リヴァイは音もなく倒れている女の前に近寄った。
この女は、飛び入る夏の虫の、その火だ。
リヴァイは直感した。本来ならこの女も、情報を得るために生かして捕えるべきだったが、己の直感を信じたリヴァイに躊躇はなかった。
腰に下げた半刃刀身を抜き、誰の静止の声も聞かず、一気に振り下ろす。あちこちから悲鳴があがった。
エレンは。
エレンには確かに、この身一つを犠牲にしても構わない宿命があった。
身の内に潜む憎悪を断ち切り、念願の巨人せん滅を諦め、運命から抗うことを放棄したエレンは、人類を裏切り、上司で恋人であったリヴァイと敵対し、リヴァイの懇願に頷くことができなかった。
しかし今。
エレンのこの身体一つが、かけがえのない仲間一人の命を救うことができるのならば。
自分の意志で選択することが制限されてしまったエレンの、数少ないエレンの意志、「守りたい」とエレンが望んだ仲間を。
たった一人だけでも。
例え一瞬でも長く、生きながらえさせることができるのなら。
その刹那を、この身に代えて。
果たしてエレンがそこまで思考を働かせたのかは定かではない。それでもエレンは瞬きもしないうちに決意していた。
エレンの咽喉から搾り出た声は悲鳴のようで、怒号の響く戦場に立つ多くの戦士の意識を切り裂いた。
「誓います!」
恐らく誰もが、その言葉の意味を正確には理解できなかっただろう。その五文字を痛烈なほど求めていたリヴァイと、求められていたエレン以外には。
エレンが叫んだ瞬間、刃の動きがピタリと止まった。アニとその凶器の距離は、まさに首の皮一枚というところだった。
「ほう?」
痛いほどエレンに見つめられて、リヴァイの目元が愉悦に歪む。だが依然その手には半刃刀身が握られていて、いつその手元が狂ってしまってもおかしくはなかった。
二人の間には緊迫感が満ちていた。
エレンが何を言ったのか、その意味するところとはなんなのか、全く把握していない、しかし嫌な予感だけは拭いきれないエレンの仲間、ライナー・ブラウンが「エレン!」と咎めるようにその名を呼んだ。緊張感に支配されたその肩が、びくりと揺れる。「あ、」と声が漏れる。エレン本人も己の仕出かした行為への理解が、やっとその身に追いついてきたというようだった。
しかしその隙をリヴァイが許すはずもない。
「エレン」
「!」
低い声と共に、リヴァイの手中に納められた凶器がカチャリと音をたてる。その刃の矛先は、アニ。いつでも振り下ろせるのだと言うようだった。
エレンに考える時間を与えず、自分へと意識を向けさせることに成功したリヴァイは、少し吹いてきた風にも負けぬよう、はっきりと告げた。エレンは己の言葉を聞かなければならない。自分の言葉だけを。
「分かってると思うが、俺はそう気がなげぇほうじゃない」
今、求められているのだ。今すぐに。
リヴァイの言うところを正しく理解したエレンは、一歩を踏み出した。早急すぎることもなく、ゆっくりすぎることもなく、だが確実にまっすぐリヴァイの下へと歩いていく。
誰もがここは戦場だということを忘れて、二人の距離が縮まっていくのを固唾を飲んで見守っていた。
曇り空が風を運んでくる。その髪を揺らし、身体を弄んだ。
エレンはリヴァイの正面二歩前で立ち止り、跪いた。
求められているのは心臓だけじゃない。使い古された形式をとって、男の機嫌を損ねたくなかった。エレンは身体を投げ出すしかない。
身体だけじゃない、心も、その未来でさえ。
リヴァイへその誓約を立てるため。
エレンの固く閉ざされていた口が、開く。
「俺の全てを、貴方に」
―――捧げます。

エレンの全身全霊をかけた誓いに、リヴァイは無表情に一つ頷き「来い」と一言命令した。 「何があっても俺から離れるな」
“もう、”という一言は飲み込んだ。
「はい」
リヴァイにはその一言で十分だった。
リヴァイは足元にいたアニの背を力いっぱい蹴飛ばした。狙いは違わず、エレンを追ってきた仲間の方へ転がっていく。男は慌てて女の身体を抱きかかえた。手負いの女一人抱えたまま、敵勢の中でエレンを奪い返すことは不可能に近いだろう。敵は巨人の仲間なのだ、エレン同様巨人化する可能性もあったが、立体起動に適した森林の中、強者揃いの戦士たちが彼らを包囲している。逃げ出すことはできてもエレンを奪い返すことは至難だろう。エレンに逃亡の意志があればその可能性もあったが、既にエレンはリヴァイから離れないことを誓った。リヴァイもエレン奪還を許しはしない。状況は明らかにあちら側が不利だ。
「ハンジ、俺はこいつを連れて離脱する」
「リヴァイ!?」
戦線から離れると言う、リヴァイの勝手な取り決めにハンジは声を荒げる。ハンジだってこの状況に追いついていけてない一人なのだ。エレンとリヴァイの関係が決定的に変わってしまったことなど、勿論ハンジが知るはずもない。
「チッ、貴重な情報源は手に入れたんだ。もうこれ以上ここにいる意味もねぇだろ」
エルヴィンにはお前が伝えておけと、リヴァイは吐き出すように付け足した。
最もな言い分だったが、ハンジの意見を聞くつもりはないようで、リヴァイは言うだけ言って立体起動に移ろうとした。だがエレンは立体起動装置を身につけていない。悠長なことであったが、リヴァイは歩いて自分の馬が待つ場所へと向かう。当然のように、そんなリヴァイの後をエレンもついていく。
リヴァイの言う情報源とは、エレンのことだ。エレンは一度捕えられている。その時頑なに口を割らなかったのだから、情報源として十分な役割を果たすかどうかは、疑問なものだった。しかしリヴァイは今度こそエレンが自分の言うことに従うと信じているのだろう。
「エレン!」
エレンの仲間―――ベルトルトだ―――がエレンを引き留めるように名前を呼んだ。エレンも一瞬振り返りそうになる。しかし静かな声がエレンの行動を遮る。
「エレン、俺は許可していない」
その声に振り向くことも。その声に応えることも。
「俺は良いから」と目で訴えることも、実際に声に出して叫ぶことも、エレンはリヴァイに許されていない。エレンはリヴァイの意向に従った。
見つめるものはリヴァイだけ、この声が向かう先もリヴァイへだけ。
この身体、その心も全部、エレンはリヴァイに捧げたのだから。
他を見向きもせずリヴァイの後ろをついてくるエレンに、リヴァイは「それで良い」と一声かけて、エレンの行動を肯定した。
吹きすさぶ風はだんだん勢いを増し、身体に強く吹きつける。凍てつく風に雨の気配がしたが、結局その日雨が降ることはなかった。ただ灰色に濁る雲が太陽を覆い隠していた。














2013/6/29
inserted by FC2 system