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沈黙





 ねぇアニキ。アニキならこんなときどうする?
 迷ったとき、自分に自信がなくなったとき、自分を奮い立たせたいとき、俺は胸の中のアニキに問いかける。俺の中で生き続けるアニキ。アニキの声のおかげで、俺はいつもギリギリのところで踏ん張ってこれた。
「大丈夫だ、シモン!」
「上を向いて歩け、シモン!」
「お前ならやれるよ」
 アニキが信じる俺は負けない。俺はアニキの声を頼りにロージェノムの戦いにも勝ったし、自分の柄じゃないってわかっているのに新政府の総司令という役職にも就いた。
 俺が信じる俺は、俺の信じるアニキの声と、ずっとともに生きていくんだと、なんの疑いもなく思っていた。
 その声が途絶えて、俺がアニキの声を聞こえなくなってしまうそのときまでは。
 シモンの守るべき市民によって倒されたカミナ像。それを目にしたときの自分が、なにを考えたのか、俺はもう思い出せない。頭が真っ白になって、なにもわからない。俺がやってきたことって、俺の七年間ってなんだったんだろう。俺が信じた、アニキが信じてくれた、俺たちのかけがえのない時間が、一瞬で無残に踏みつぶされてしまった。俺たちのあの戦いが、無駄だったって、誰がなんの権利があって言えるんだ。
 気付いたら拘束されていた。凍りついた表情の友人、いや補佐官、いや……ロシウ・アダイが、コアドリルを手にしている。
 アニキが死んで、良かったと言うのか。アニキが死んで良かったと言える人間のために、俺は俺を信じてきたんじゃない。アニキを信じてきたんじゃない。
 暗い部屋の中で、かつてアニキが俺に手渡したコアドリルも、ともにジーハ村を出たブータもいない。ニアはアンチスパイラルとなって月を地球に落とすという。かつての友人はシモンをここに閉じ込めた。
 ひとりだ。だがひとりじゃない。
 法廷の場に立つまで、俺は胸の中にぽっかり穴の空いた虚無感を、ただ怒りと憤りで満たしていた。だが死刑を申し渡されてすぐに、いままで胸を、腹腔を体を魂を温かく包み込んでいたものが、すっかり冷えてしまったことに気付いて愕然とした。
 アニキの声が、聞こえないのだ。
 何度呼びかけても、何度問いかけても、いらえが返ってくることはない。
 アニキ。俺のアニキ。アニキは俺の胸から、この背中から、消えてしまったのか。どうして。ひとつになって生き続けるはずの魂が、なぜシモンをひとり置いていってしまったのか。
 俺はアニキに、見捨てられたのだろうか。俺は間違ったのか。俺たちの七年間は。
 刑務所に入れられて、俺は自問自答した。アニキの声はいまだ聞こえず、とうとう本当にひとりになってしまったのだという恐怖が四肢の末端まで俺を追いつめた。
 どん底で死期を待つばかりの俺に発破をかけたのは敵であったヴィラルだし、俺を再び立ち上がらせたのはニアの、声なき声だった。助けてくれと俺に叫んでいる。
 ひとりじゃない。シモンはひとりになりたいわけじゃない。もし本当にアニキが俺を見捨てたのだとしても、俺はここで終われるはずがない。それは意地だった。アニキの声を失った俺に、ニアがヴィラルが、ヨーコが、大グレン団のみんなが、俺の名前を呼んでくれる。俺を誰だと思ってる。そうだ、俺はシモンだ。俺を穴掘りシモンだと言ってほしかったいちばんの人の声はもう聞こえないけれど、俺は俺のために戦いにいく。宇宙へ!

 宇宙は広く、深遠で、真っ暗だった。俺の戦いのために、誰が傷つき、誰が死んでいったか、俺は覚えている。忘却は許されず、自分の力不足を呪って、ただ力を奮い立たせた。
 胸腔にごうごうと吹き付ける冷たい風は、絶えずシモンに問いかける。
 その弱気な心をシモンは押さえつけて戦場に立っていた。
 シモンを呼ぶ声が、ひとつ、またひとつと減っていく。俺は誰だった? 何者だったろう? すぐに出る答えは、腹の底から唸る「どうして?」という悲痛な叫びにかき消されていってしまう。
 どうしてアニキは俺の名前を呼んでくれない?
 どうしてアニキは俺の声に応えてくれない?
 どうしてアニキは、俺を見捨てたのか。
 仲間を失って、自分を見失って、広大な宇宙空間にひとり。アンチスパイラルの猛攻がすぐ目の前まで迫っていた。最後の最後で力が出ないのは、やはり信じるべきものを信じることができなくなってしまったからだろう。
 どんなにニアが、ヴィラルが、ヨーコが、大グレン団のみんなが、地球に残したロシウたちが、俺を信じてくれても、足らない。たったひとりの声がないだけで、俺は自分を心底信じることができなくなる。心の隙を突くように、アンチスパイラルは俺に語りかけた。この宇宙の終焉を。

 真っ暗な穴の中だった。細く、縦に長い穴ぐらに、俺はひとり拘束されてゴザの上に正座させられている。地下水が沸きでているのか、穴の中は湿っていて、壁を這う虫たち――ムカデだろうか――が、俺を地面と勘違いしてカサコソと体の上を移動していた。口を開けると餌でも求めて入って来るので、俺は決して口を開けなかったし、目も固く閉じていた。だがどんなに穴の中の自分へ意識を傾けたところで、四方から響く陰鬱な呻き声を無視することはできない。
 それは苦悶に喘ぐ、仲間たちの声だった。シモンに助けを求めながら、次第次第に声はか細くなっていく。唯一の扉は重く閉ざされているが、時折その向こうからアンチスパイラルの声がする。シモンの答えを聞きに来るのだ。
「お前が負けを認めれば、お前たちの仲間がこれ以上苦しむことはない」
 仲間たちは、天井から逆さに吊り下げられて、更には耳の裏を切りつけられ、血を流しているのだという。耳に傷をつけるのは、頭に血が上って気を失うのを防ぐためだ。彼らは意識を暗闇に落とすこともできないまま、今も、一分一秒続く苦しみに耐えている。……シモンを信じて。当の自分は仲間たちと同じ苦しみを味わうことも許されず、ただひとり座っているだけだ。食事も三度出されるから、そこから時間の経過を把握しようとして、シモンはすぐに諦めた。次元と次元の狭間に拠点を置き、確率すら変動させる敵が、時間など捻じ曲げるのは容易いことだし、よしんばその時間経過が正しかったとしても、シモンが仲間たちに苦しみを強いている時間は正確に計れるというだけだ。食事を拒否しても、シモンが答えない限り、仲間の苦しみは続き、自分はその声をのうのうと暗い穴ぐらで聞くばかり。「諦める」とひとこと言うことも、仲間を苦しみから救い出してやることもできない。湿気の多い地下穴で虫に体を跋扈される以外は、とくに苦痛のないこの状況が、シモンにとっては地獄のような空間だった。だって、仲間たちの声が聞こえるのだ。
 シモン。シモン。と。
 アンチスパイラルに屈することが、仲間を救うことだろうか。いまもシモンを信じる仲間たち。彼らを救いたいと思う。しかしいま苦痛に耐えている彼らこそが、シモンが屈することを望むだろうか。地球で待つ人々は。シモンのために散っていったいのちたちは。シモンを信じるかれらはいま、シモンの何を信じるだろう。ここで仲間を見殺しにしてもアンチスパイラルに屈しないことか、仲間を守るために自らが敵に膝を折ることか。
 そんなことではない。諦めないし、仲間も守る。それがシモンの信じる自分の戦い方だ。だがどうして力が出ない。このまま時に身を任せようとする。
 誘惑があるのだ。このままではいけないと頭でわかっているのに、体は動かない。シモンは待っている。腹の奥深くの甘美な誘惑に、己が屈して跪く瞬間を。それは確かに、仲間を裏切る行為ではなかったか。それでも。
 もう、何も考えず終わりにしたい。アニキのもとに行きたい。アニキに置いていかれて孤独に泣く幼いシモンが、腹の下からせり上がって来るのを、シモンは止められそうになかった。
 さみしい。さみしい。どうしてアニキはおれを見捨てたの。
 俺が間違ったら殴りに来てくれるって言ったじゃないか。
 傷ついたシモンが泣いている。アニキを求めて。仲間を見殺しにしても、俺を信じて名前を呼んでくれた声に裏切っても、俺が求めるのはアニキなんだ。アニキだけなんだ。
「アニキ……。アニキなら、こんなとき、どうする……?」
 四方から漏れ出る呻き声は次第に次第に細くか弱くなっていき、やがて途切れた。

 シモンは今にも降り出しそうな曇り空の下、泥の上で倒れこんでいた。その体は、何度も何度も警棒で叩かれて無残に傷つけられている。地上の警備隊が、シモンをひどくぶったのだ。幼いシモンはカミナに連れられて故郷の穴ぐらを出て、王都の地下で窃盗業をしながらひっそりと暮らしている。今日もシモンが掘って、カミナが盗る。首尾は上々に思えたが、現場から逃げるところでカミナがドジを踏んで、地上の獣人に見つかったのだ。必死で逃げるうちにカミナともはぐれて、シモンはひとりで警備隊に追いつめられ、折檻された。シモンは幸か不幸か、盗んだ宝石を一個も所持していなかった。証拠不十分で死罪を免れたが、そもそも地上に人間が出ることは禁じられている。うっぷん晴らしのような暴行を受け、意識を失う寸前のありさまだ。きっと彼らの気が済んだら、地下に強制送還されるのだろう。ゴミのように投げ捨てられる自分を想像して、シモンは目を閉じた。
 カミナ。カミナはどこだろう。無事に、逃げられたのかな。窃盗の証拠となる宝石類をたんまり持っているカミナが警備隊に見つかれば、その場で射殺されるだろう。カミナがそんなことにならなくて良かった。暴力を受けるのが、自分だけで良かった。シモンは口元をクッと歪めた。
 ……本当に?
 カミナなんて、アニキと呼べというくせに、てんでアニキらしいことをしたことがないではないか。作戦の要となる重労働はシモン任せだし、盗って帰るだけなのにカミナはそれすらまともにできない。それなのに取り分はカミナがほとんど持っていってしまうし。そもそもシモンは、ジーハ村の生活に特に不満など持っていなかった。それをむりやり引っ張ってきたのもカミナだし、地下街でなんとか暮らしていけるのはカミナのおかげでもなんでもない。そうだ、シモンが差し出すものに対して、カミナが与えるものは、極端に少ない。カミナがくれるのは僅かな取り分と、言葉だけ。
「シモン」
「頼りにしてるぜ、シモン」
 それだけだ。
 それなのに十分だと満たされる、この胸の内はなんだろう。そうしてこの虚無感は。ああ。カミナはどこにいったのだろう。弟分がこんなに傷ついて倒れていると言うのに、こんなにカミナを、カミナの言葉を求めているというのに。どうしていま与えられない。
「……、キ」
 噛みきれた唇が震えた。
「……ニ、き……」
 肺が握りつぶされそうにぎゅうぎゅう締め付けられて苦しい。それでも呼んだ。
「ア、ニキ……っ、アニキ……!」
 ひとことだけでいいんだ。俺を呼んで。
 ああ、アニキ。どうしてアニキは、俺を見捨てたのか。
 泥にまみれたシモンのこぶしを、ソッと触れる手があった。突然の温もりに、びっくりして目を見開く。雲間から覗いた陽光が、シモンの手を照らし出していた。そして、皮の擦り切れた手に重なるように、大きな手。
 アニキの手だった。
 だがシモンの知るカミナとは少し違う。軽薄そうなピンクのハートのシャツは着ておらず、薄い暗がりで見る紫色の瞳と違って、日のもとで見るその色は赤い。燃え立つような赤いマントを羽織って、ジッとシモンを見つめている。
「アニキ……?」
 返事はない。ただシモンを穏やかに見つめているアニキの顔が、その体が、シモンと同じように泥まみれで傷ついているのを確かめて、シモンは目を瞠った。
「どうして、なんでアニキが」
 ここにいるのか。
 こんなにぼろぼろの姿なのか。まるでさっきまでシモンと同じように暴行を受けていたみたいだ。
 訊きたいことは判然としない。ただ唇を震わせるばかりだ。そんなシモンを、アニキは切れて血の滲む唇を緩やかに上げて見守る。
「ずっと、一緒だったのか」
 アニキはシモンを置いていったのではなく、変わらず傍にあり続けていたのだろうか。目に見えない形でも、声のない声でシモンを呼び、ずっと、シモンと共にあってくれていたのか。
 カミナはシモンの質問には答えず、ただ静かに微笑みかけた。それだけでシモンには十分だった。
 アニキの赤く燃え盛っていた瞳は今は凪いで、ただシモンと同じだけの悲しみを湛えていた。シモンの苦悩を、憤りを、果てのない絶望をそっくり写しこんで、アニキはシモンに笑いかける。その目を見て理解した。
 そうだ、こんなにアニキが傷ついているのも、アニキは俺の傍にいて、俺の苦しみを分かち合っていたからだ。ままならない政治への焦りも、友人との不和も、ニアをアンチスパイラルにされた嘆きも、カミナ像を壊された怒りも、俺たちの時間を否定された虚無感も。まるでシモンの思いを等分するように、アニキは分け合った。俺と同じだけの苦しみに、俺のそばで、ずっと耐えてきたのだ。
 アニキは俺を見捨ててなんかいなかった。
 アニキはずっと俺のそばに、俺と共にいて、俺の苦しみも喜びも分かち合っていたのだ。
 アニキは俺の胸にいた。
 改めて知る。このひとの偉大さを。その愛の深さを。
 その声が聞こえないと、アニキを信じることができなかったのは俺の弱さだ。俺の弱さが、俺を信じてくれたひとたちを裏切った。どうして俺は、何度も同じ間違いを繰り返すのだろうか。
 ああ、でも。アニキ。いまだからこそ確信をもってあなたに言える。
 もしアニキがこんな俺を見限ってくれてもいいんだ。
 もしかしたらあのときアニキは生き延びて、そのあとつまんないところで死んでしまったかもしれない、どんなに惨めな姿でも生き延びてくれたかもしれない、だがもはやそんなの関係ない。どっちでもいい。
 あの穴ぐらで、俺の名前を呼んでくれた、俺を上に向かせてくれた、その記憶だけでもう十分だったんだ。そのことを、やっと俺は分かったんだよ。
 あなたが名前を呼んでくれた、俺を信じてくれた、その記憶があるかぎり、あなたが俺を見捨てるようなことがあったとしても。
 たとえこのさき一生、あなたの口からどんな言葉も、私の名前すらも紡がれなくても。
 それでも。
 アニキ、俺はあなたを愛している。
 どんなことがあったとしても、これからどんなことがあろうとも、いままでも、このさきも、変わらず、ずっと、俺はあなたを信じつづける。
 雲が晴れて、朝焼けの空が輝きだした。
 手の中には、コアドリルが明滅している。泥の中から起き上がると、アニキの姿も、警備隊も、王都や地下街、穴ぐらもすべてが消えていた。アニキの手の温もりは、地に上った太陽の日差しの錯覚だったのかもしれない。いまもアニキの声は聞こえない。それでもいい。アニキの声がなくたって、シモンはもうアニキの存在を疑わなかった。見えなくても、あのひとはいる。俺の胸に、その愛しい記憶とともに。
 シモンはコアドリルを翳すと、呼応するようにグレンラガンが現れる。行こう。この戦いを終わらせよう。たとえひとりでも。シモンはもう迷わない。
 誰ももうその名を呼ばなくても。胸を叩き続ける。この胸を満たす。たったひとりの声はシモンに届いている。














遠藤周作の同名小説から。



2016/7/9
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