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シモン化計画





 我々の惑星は、中心星地球から遠く離れた辺境の星だった。かろうじて地上に生命体が生きていけるだけの貧しい土地。長い歴史があるわけでもなく、誇れるような文明もない。母星に固有の特色を持たない我々の先祖は、それを恥とした。
 きっかけは地球ロシウ大統領の開いた、銀河系のあらゆる螺旋族を集めた会議の場であった。それもアンチスパイラルという存在が宇宙を支配していることすら知らなかった我々の先祖が、その会議に参加することが叶ったのは第三回目からである。
 そこで我々の先祖は、我々の星がいかに発展・発達の中途にあることを思い知らされることとなる。アンチスパイラルの抑圧から解放されて花開いた多くの諸文明惑星。それに比べて、宇宙に我々と同じ人間がいることも、我々が気付いたのは最近のことだ。それも自らが発見したのではなく、他の星の螺旋族が我々の星に黒い宇宙船とともにやってきて分かったことだった。
 先祖は死に物狂いで、他の惑星たちの、その発達した技術、文化、文明を真似し始めた。特に技術の面ではそれを貪欲に獲得していったおかげで、格段に進歩した我々母星はその生活を着実に豊かなものにしていった。
 しかし突然その目をこじ開けられた我々先祖のコンプレックスは、いくら生活水準が上がっても晴らされることはない。
 模倣ばかりの母星に、あってしかるべき歴史はなかった。
 だから我々の先祖は分かりやすく歴史の表看板になる英雄を求めた。
 ――偉大なる中心惑星、地球。
 宇宙を救った伝説的英雄シモン。彼のような存在を、我々は求めたのだ。
 そうして発足したのが「シモン化計画」である。無作為に選ばれた男児を地下施設に預け、英雄シモンの人生になぞらえるようなカリキュラムを施す。英雄を人工的に作り出すのが目的である。
 カリキュラムは、第四段階にまで分けられる。だがこの計画が発足して以来、第二段階をクリアできた者は、誰もいない。


「シモン。初めまして、だな」
「うん。初めまして、カミナ」


 シモン――正確にはシモンPN1903――は、シモン化計画の選別システムにより七歳で地下へ送られた子どもの一人である。計画に選ばれた時点で、地上の名前は剥奪される。みなが「シモン」の名を与えられる。PN1903は識別番号に過ぎない。同じ番号を持つ個体は二人だけ。二人以外の英雄シモンに関わる人物は全て仮想プログラムで処理される。だが唯一無二のその二人にも、識別番号で呼ぶことは許されていない。識別番号はあくまでプロジェクトチームが他の二人と区別するために用いられるものだからだ。地下で暮らす二人には、「シモン」と「カミナ」……その名前だけで十分だからである。


「地上に帰りたい。母さんに会いたい」
「地上はこれから目指すところだろ、シモン。それに俺たち、……お互い孤児じゃねえか」
 夜――地下にも昼夜があるのだ――に眠れず忍び込んだカミナの寝床で、シモンはぐずついた。計画が始まったばかりの頃だった。親元と引き離され、これまでの、地上の生活を奪われた。名前を剥奪され、もう誰も彼の本名を呼んでくれることはない。誰も……それどころか、彼に許されたのはたった一人だけなのだ。弱音を吐けるのもまた、一人だけ。
「カミナ」
「アニキって呼べよ、シモン」
 それなのに、彼の唯一はプログラムされた通りのことしか話さない。
 この青年のことを「アニキ」と呼べるときが来るだろうか。それは自分にとって敗北の証ではないか。本名を捨て、地上の生活を忘れ、このカリキュラムに従属したことを自らに認める……カミナを「アニキ」と呼ばないのは、齢七歳の少年に残された最後のプライドであったのかもしれない。


 地下にはたくさんの「シモン」と「カミナ」がいる。
 しかし地下穴の壁は厚く作られ、厳重に管理された「シモン」と「カミナ」が他の二人に出会うことは不可能である。地下穴は培養漕だ。Aの実験データとBの実験データが混ざり合うことは許されない。個別のデータ採取ができなくなるからだ。
 カミナPN1903は、「シモン」のように選ばれた地上の人間ではない。
 彼(ら)は他の惑星から技術獲得に成功した半クローン半アンドロイド体である。
 カミナ以外の「シモン」と関わり合いのある人間が全て仮想プログラムで処理されているのは、ひとえに「カミナ」の存在が「英雄シモン」に与えた影響が甚大だからであり、コスト面の問題でもある。この計画にとって、「カミナ」だけが特別なのだ。


「また泣いてんのか、シモン」
 五年目のある夜のことだった。シモンPN1903のカリキュラムは遅々として進んでいなかった。楽天的・豪放磊落をプログラムされているカミナも、この進捗具合には焦っているようだ。
「おれっ、英雄になんかなれないよっ!」
 泣き虫で気弱な性根をしていると自覚があった。身近にいるのが半分ロボットのカミナしかいないこと、太陽光のない地下に閉じ込められていること、一年耐えても途中リタイアが許されないこと、彼は悟って気鬱に陥っていた。
「大丈夫。お前ならできるよ」
「あんたはプログラムされてるから、そんなことが言えるんだ!」
 限界などとうに来ていた。カミナが呪いのようにシモンに言うのだ。「お前ならできる」と。根拠も何もないくせに。ただそう言うように設定されているだけのロボットのくせに。
 カミナがシモンを追いつめているのだ。カミナが「シモン」を望むから、自分はこうして苦しまねばならない。ならカミナを壊してでも、自分は地上に行きたかった。
「シモン……」
「シモンじゃない! おれはっ、おれは……? おれのなまえは……っ」
 かつて自分はなんて呼ばれていただろう。カミナに出会う前は。俺の名前は。
 もう思い出せない。失くしてしまった。
「忘れちまったのか、お前の名前」
 カミナはシモンを抱きしめた。発育途中の体は、容易に大きな腕に囲い込まれる。しかしその手を、受け入れることがどうしてできよう? 彼はその手を払い落とした。
「うるさいうるさい! あんたのせいだろ!? あんたが俺のことをシモンシモンシモンシモンシモンシモンって呼んだから!」
 体は自然に飛び上がっていた。体当たりするようにカミナの体を押し倒し、その首を両手で力いっぱい締める。汗で滑ってうまくできない。
「そう、だ、シ……モン」
 気道の狭まった隙間から、カミナはこの期に及んで「シモン」を呼ぶ。彼の口元に緩く広がっていった微笑みを見て、シモンは反射的に手を放していた。
「うぅっ」
 涙がぼたぼたち零れて、馬乗りになったカミナの腹の上に散らばった。カミナは紫水晶の瞳でじっと見ている。首元には指の痕が赤くついていた。
「お前ならやれる。お前ならシモンになれる。英雄のシモンなんかじゃなく、お前だけのシモンだ。『シモン』をお前自身の名前にすることが、お前にならできるさ」
「どうして……!?」
 そんなことが言えるのか。いったい何の理由があって、そんなに自分を買い被るのだろう。
「できるさ。だってお前は一度も俺のことを『アニキ』となんか呼んだりしなかった。それをしたら、本当の自分が死んじまうって思ったんだろう? たとえ本当の名前を忘れちまっても。誰に、……俺になんて言われようと、お前は自分の意志を曲げなかった。お前なら『英雄シモン』の亡霊に頭から食われちまうことにはならずに、お前だけの『シモン』になれるよ」
「か、カミナ……?」
「そうして終わりにしてくれ。さっきはごめんな。俺が最初に諦めたんだ」
 呼吸もままならないまま微笑んだカミナ。「そうだ、シモン」あのとき確かに彼が言った言葉だ。
「カミナはただのロボットじゃないの……?」
 泣き腫らした顔で聞いたら、カミナは破顔した。カミナの素体は十七歳のまま変化しない。
「なんだロボットって。俺は半クローン半アンドロイド体だ。知ってんだろ?」


 カミナのわき腹には、マイクロチップが埋め込まれている。これが彼(ら)を個別する唯一であり、そのチップの番号がPN1903なのである。
 計画開始時に、「シモン」にはそれぞれに必ず「カミナ」が割り振られる。そのカミナの識別番号でもって、ようやくシモンも識別されるのである。
 最初にカミナがあった。カミナこそ英雄シモンの揺籃なのだ。


「地上に出たら何をしたい?」
「そうだな。どうせ地上も仮想プログラムのものなんだろ」
「ああ、当時の地球を再現した地上だな」
「地上に出て母さんや父さんのところに行けるわけじゃないんだ。ならカミナと地上を旅するよ。きっと知らないところがいっぱいあるんだろうね」
「地上プログラムの内容は俺にも分からないんだ。“ここ”では地上なんかないことになってるし」
「どこでもいいよ。どうせカリキュラムが終わるまでは本当の地上に出られるわけじゃないんだ。それまではカミナといるよ」
「楽しみだな。シモン」
「うん、そうだね。カミナ」


 カミナの素体に組み込まれた基本プログラムは共通のものだ。そこに個性というものはない。しかし「シモン」それぞれに相違があるように、「シモン」との長い共同生活を送る「カミナ」にも差異が生じてくるようになる。それらの情報はすべてチップに記録されていく。シモンPN1903のカミナがカミナたる個同一性は、識別番号さえなければこのチップ一枚なのである。


「カミナ」
「よお、シモン。今日は何しようか」
「あっちの穴に落盤のあとがあったよ」
「じゃあそこ片付けるか。危ないしな」
「そうだね、カミナ」
 その日、穴倉の片隅が落盤していた。二人はその土砂を片付けているうちに、その穴が地上に続いているのを知った。
「地上へ行ける……?」
「どうやら、地下暮らしの段階は済んだみたいだ。行くか? シモン」
 シモンは一瞬躊躇った。穴の奥から、冷たい空気が流れ込んできて、シモンの頬に容赦なくぶつかっていく。カミナは穏やかに微笑んで、シモンの答えを待っていた。
 シモンは頷いた。
「行こう。英雄もいつか見たんだろう。地上へ」
 カミナは目を眇めて頷いた。この人を一緒なら、どんなところに行っても怖くないだろう。いや違う。カミナと一緒なら、シモンはどこへだって行けるのだ。


 シモンPN1903が、カリキュラムの第一段階をクリアしたのは先月のことである。
 第一段階とは、初めて対面したカミナと十分な信頼関係を築くことだ。目指すべき(プログラミングされた仮想の)地上、カミナを慕い、カミナからの期待に応え、お互いが唯一無上のものと認識する。
 来るべきときに穴倉の天井が落ち、二人は地上に出る。地上での旅。理由もなく襲いかかる敵。彼らの敵を倒し、また敵からカミナを守りながら、二人の関係はより密着に、強固なものになっていく。


「怖い。怖くて仕方がないけど、俺にとってカミナを失うことがいちばんに怖い」
 敵に囲まれたシモンが、震える声で言った。カミナは穏やかに返す。
「……大丈夫。大丈夫だよ、シモン」
 不思議なことに、カミナがそう言うと、本当に大丈夫なように思えてくるのだった。シモンの恐れることは何もないような。カミナのためになら何でもできる。シモンは信じて疑わなかった。
 その声の優しさは、ずっとシモンの胸を叩き、背中を押してくれるのだと。
 シモンはどうしようもなく子どもだった。
 初めてカミナと出会ってから七年、シモンは十四歳になっていた。


 そして来るべき日。シモンの自我がプロジェクトチームの綿密なチェックを全てクリアすれば、第一段階を終えるためのテストが用意される。
 そこでシモンに渡されるのは、ナイフである。


「カミナ……?」
「大丈夫。大丈夫だよ、シモン。それで俺の腹を刺せば、お前は合格だ。何も不安がることはねえ」
 優しく穏やかな声で、カミナはシモンにナイフを握らせた。ぴたりと刃先を自らのわき腹に合わせるから、シモンは恐ろしさのあまり手を震わせることもできない。
「課題なんだ。俺を殺さないと、お前は次のカリキュラムを受けられない。すべてのカリキュラムを終えないと、お前は地上に戻れないだろ」
 シモンとカミナが立っているところから、今にも噴火しそうな火山が赤々と燃えていた。地下に火山はない。ここは遥か昔の地球の光景だ。山々は青ざめて、木々の根には光を発する摩訶不思議な植物がある。夜明け前だった。シモンとカミナ以外、全て作られた世界で、シモンの手首を握るカミナの手の熱さだけが真実だ。
「嫌だ。カミナを殺すぐらいなら、ずっと二人で地下にいるよ!」
 どんなに火山が噴火しても、山が植物を咲かせても、夜が明けて朝が来ても、ここが地下深くの実験施設であることに変わらない。シモンがどれだけ「英雄シモン」にはなれないと分かっていても、また彼の相棒であるカミナでさえそれを望んでいないとしても、シモンが本当の地上に帰ることは許されなかった。シモンはとうに地上を諦めていた。「お前にしかなれないシモンになれる」と言ってくれたカミナと二人きり、覚めない悪夢の中でせめて彼と二人きりの穏やかな生活をのみ彼は望んだ。カリキュラムに従順になったのも、落ちこぼれの烙印でも押されたら、シモンからカミナを取り上げられてしまうかもと恐れたに過ぎない。それなのにそのカリキュラムが、今度はシモンからカミナを奪おうとする!
「できない。できなんいだ、カミナ……!」
「大丈夫、シモンにならできるよ」
 シモンは力なく突っ立っていた。もしこの刃を、自分に向けてみたらどうなるのだろうか。鈍い刀身がシモンの顔を逆さまに映す。
「なあ、ここだけの話。俺はお前を魂の兄弟だとか、弟分だとか思ったことはなかったよ。プログラム通りにそう言ってただけだ。俺はさ、お前を友人だと思っている。こんなところで、一緒にいてくれてありがとう。もしお前が“ここ”を卒業できたら、どうか俺たちのこと、弔ってくれないか。もう何度、『シモン』に俺を殺させてきただろう。チップがなくなったから、そいつらのことは知らねえんだけど、どんなに初期化しても、素体にもほんのちょっとは記憶が宿っているんだ。なあ、何度こんなことを繰り返させればいいんだ。俺は一度だって、シモンに俺を殺させたくなんかなかった。可愛そうなシモン。俺の友よ。きっと俺はお前を忘れるが、お前だけは覚えてくれ。そして、お前の手で俺を、俺達を終わらせてくれ」

 ――このループから。

 仮想世界で火山が爆発した。シモンは慟哭する。
 カミナ。カミナカミナカミナカミナ。シモンは心の中だけで、友の名前を叫んでいた。
 手のひらの感触を覚えている。友人の体温を、一生シモンは忘れないだろう。
 あぁ、カミナ……。
 やがて雨が降り、世界のあらゆる温もりを押し流していった。

 カミナから渡されたナイフで、半分クローンの体を突き刺し、体内のマイクロチップを破壊する。
 出血多量でクローン体の生命活動は一時停止され、チップの破壊によりアンドロイド体のカミナの人格は抹消された。
 カミナの“死”である。
 回収されたクローン体は傷を癒され修復し、アンドロイド人格には新たなチップが付与される。そうしてまた新たに選ばれたどこかの「シモン」の元へカミナは生まれ変わる。何度も生まれ変わり、何度も「シモン」に殺される。彼が「ループ」と言ったのはこういうわけだったのだ。
 生まれ変わり、がシモンにとって何の慰みになるだろう。
 シモンのカミナは死んだのだ。
 シモンが友を殺したのだ。


 シモンPN1903の第一段階は、今回のテスト完了をもって終了する。カリキュラムは速やかに第二段階へ移行される。


「こんにちは、シモン」
 たおやかな少女だった。だがシモンにはカミナじゃなければ何の意味もなかった。意味は失われたのだ。
「……誰もカミナの代わりになれないのに、プログラム風情が俺を『シモン』と呼ぶのはやめてくれ!」


 すなわち仮想花嫁の登場であり、カミナの死の克服である。
 いまだどの「シモン」もクリアできないこの段階を、PN1903も同じく達成できていない。
 現場責任者からの報告は以上である。




「惨い」
 ロシウ元大統領が告げたのは一言だけだった。
 政界を十年前に引退したロシウ元大統領は御年七十歳だ。老いてもなお宇宙の中心的役割を担っていただけに、その立ち居振る舞いはかくしゃくとしている。
 初回の螺旋族会議から三十余年の月日が経っている。
  この星を内包する次元では、ロシウの三十年の歳月と彼らの月日は同じように流れるものではないらしく、第三回の会議にこの星の人間が出席してから何代もの世代交代が行われたようだ。
 星固有の資源は乏しく、螺旋族との交流によって目覚ましく文明を発展させた。螺旋族の宿命ともいえる繁栄は、遠い昔に地球がアンチスパイラルに攻撃されたように、彼らは知らず知らずのうちに自身の手で母星を滅ぼしつつある。急激な成長に、まどろみからようやく目覚めつつあった彼らの意識は追いつかなかったのだろう。無理に他の発展著しい惑星の文明と同じものになろうとした結果、彼らはひどく歪んでしまった。
 そうして計画されたのが、故意に英雄を作り出そうとする、おぞましい実験である。

「パーソナルナンバー?」
「はい」
 部下からの報告に、ロシウは眉を顰めた。
「個人と名指すからには、当然子どもたちの人権は守られているんだろうか」
 部下の男は力なく首を振る。自分から聞いたというのに、ロシウにもそうだろうという予想はあった。だが老体は追い打ちをかけられたように深くソファに沈み込む。
「人権、人格、そのような言葉は彼らの言葉にもあります。ただ、……あるだけです。形骸化され、彼らがその意味を失って久しい記号だけの言葉です」
「そうか」
 ロシウは的確に指示を出し、それから自身もその星へ行くことを決意した。いかに宇宙空間の移動が容易になったからといって、年が年である。ロシウ元大統領の視察は大いに反対されるものであったが、ロシウは地球に骨を埋めることが叶わなくても構わなかった。それだけの覚悟をもって、その計画の全容を直にこの目に見なければならない必要性を感じていた。辺境とも言われる地球から遥かに離れた星で、その地下深くで、今も犠牲になり続けている少年たちがいるのだ。何もせずにじっとしていられることなんてできなかった。
 やっとのことでロシウがその星の地を踏むことができたのは、政界を退いて久しい身で、あらゆるコネを使いその実験施設を抑えた後だった。強引に他の惑星に干渉するには、それに見合うほどの確証がなければできず、それらを揃えたのは老体のロシウ本人ではない。ロシウはこの星の地下に埋まった秘密が明かるみに出される頃にようやく、この星に到着した。これからより一層の事実解明と、今後の対策が取られるだろう。今のロシウにはその舵を仕切るだけの権限はないが、自身の発言に大きな影響力があるのも知っている。
 ロシウはこの地で、懐かしい名前を何度も聞いた。しかしその誰一人として、知己の面影を見ることはできなかった。みなそれぞれ、子どもらしい少年達だ。
 だからやるせないのだ。
「報告書にもあった通り、この部屋の少年の症状はとりわけ酷いですね。彼は先月、問題の“第一テスト”をクリアしたばかりです」
「あの、」
 ロシウは言い淀み、それから先の言葉を口に出すことはしなかった。今は感傷に浸っている場合ではない。自身に言いきかせた。
「その少年と面会はできるだろうか」
 部下は頷いた。もう手配はしてあるのだろう。
「三十分までと条件付きで許可を取ってあります」
「行こう」
 ロシウはすぐさま踵を返す。重い足取りは、何も老体のせいだけではない。
 この年で、こんな形で、あの頃を思い出すことになろうとは。
 ロシウは懸命にも、溜め息を飲み込んだ。

「こんにちは」
 部屋の隅で蹲る少年にロシウは声をかけた。努めて優しく取り繕った挨拶も、少年を喚起させるには不十分のようだ。
「君が、……アレックス?」
「? 何を言っているんだ。俺はシモンだ」

 シモンPN1903は顔を上げた。
 部屋と通路を繋ぐ扉が開け放たれて、薄暗い部屋に光が差している。シモンは眩しさに顔を歪めた。
 その目元にはどす黒い隈が浮かんでいて、ロシウは息を飲む。記憶の中の友人と、似ても似つかないはずなのに、この荒みようは何だろう。既視感を覚えるにもほどがある。
 彼もかつては目元を真っ黒にして、部屋に閉じこもっていたことがあった。
 しかし、今ここに少年は一人だ。傍らに相棒のブタモグラがいるわけでも、戦闘中に発見した正体不明の女の子が寄り添っているわけでもない。ドリルでその悲しみを表すこともしない。この子は本来の名前を取り上げられ、「英雄シモン」になることを強制された被害者なのだ。
 シモンさんじゃない。
 報告書に記されていた。この子の本当の名前は「アレックス」だ。
 ロシウは自分の手を見た。皺くちゃの手のひら。しかし皮膚は厚い。耐え忍んだ年月が過ぎ、その関節は節くれだっていた。
 老人の手を、少年の薄い肩の上に置く。奇妙な感覚だった。
 この子よりいくらか幼い頃のロシウは、ずっと昔にこうやって触れたかった少年がいた。声をかけようとして、それすら第三者に止められた。
 あの頃は他人にかけられる余裕なんてみんな持っていなかったから、彼女は厳しいことを言ったけれど間違ってはいなかった。いや、彼女に気遣われたのは、自分だったんだろう。彼の深い悲しみに当てられて、ロシウもまた傷つかずにはいられないことを、聡明な彼女が予想できなかったはずがない。それにもし、彼女に制止されず自分が彼の柔らかい心に触れたとして、かけるべき言葉など思いつくはずがなかった。何故ならロシウは、今もまだあの頃のシモンに言うべき言葉が見つかっていないからだ。今もできていないのに、年若く未熟だったかつての自分に分かるわけない。
 彼女に引き留められたのは、幸運だったのだと思う。
 どれだけのことを成し遂げて、どれだけの年月を費やした今でも、ロシウの言葉は見つからない。もう誰一人として、あの頃のロシウの言葉を必要としている者はいないというのに。ロシウだけが求めていた。時折ロシウは、咽喉につっかえた小骨を吐きだそうとするみたいに、その言葉を探さずにはいられなかった。

「君が『シモン』にならなくちゃいけない義務は終わったんだよ、アレックス。今日から君を無理やり英雄に祭り上げようとする大人たちはいない。君は君のままでいいんだ」
「おじいさんはさっきから何を言ってるんだ。俺はシモンだ。穴掘りシモンなんだ」
 ロシウは痛む胸を抑えるよりも早く、この子の手を握ってあげなくてはならないという焦燥感に駆られた。厚くかさついたロシウ老人の手は、小さくほっそりとした子どもの手の上に置かれた。
「だが君は、穴なんか掘りたくないんだろう」
 その手は白かった。日の光を浴びないので、青白いほどだ。重たいドリルを操作したために、傷つき土埃で汚れていた友人の手とは違う。
 何度も何度も水で洗ったのか、子どもの手はしっとり濡れていて冷たい。
 手のことを指摘すれば、アレックスはジッとロシウの手の下で握られた自分の両手を見ていた。その瞳に虚ろな影がよぎる。
「カミナが俺のことを『穴掘りシモン』って言ったんだ」
 そうか。この子も。
「カミナを殺したこの手に、今もまだカミナの血がついている。洗っても洗っても洗っても洗っても、この血が消えることはない。俺がカミナを殺したから」
 この子も呪われたのだ。
 ロシウは目を伏せた。
 ――アニキが死んで、良かったと言うのか!?
 あのときのロシウは彼の言葉を肯定した。あの人の死がなければ、その悲しみを乗り越えなければ、その先の辛く厳しい戦いに勝利することなどできなかっただろう。
 みなあの人の墓標の前でだったからこそ、足を踏ん張れたのだ。
「アレックス。君は君だよ。君にしかなれない」
「嘘だ。俺はシモンにならなくちゃいけないんだ」
 カミナと約束したんだ。
 カミナと。
「英雄シモンになって、カリキュラムを終えて、自由になって、自由になったらこの計画をぶっ潰してやる。そしてカミナをちゃんと埋葬してあげるんだ。それが俺とカミナの約束だから」
 吐き気がした。この子は知っているのだろうか。いちばん地下の深いところで、おびただしい数の半クローン半アンドロイド体が、培養液に浸かって眠っていることを。「シモン」に刺された傷を塞がれ、まっさらなチップを埋め込まれて、新たな「シモン」が来れば起動させられる。あの地下施設の存在を。門外不出の、特に被検体とされた子どもには決して明かされることのない情報のはずなのに。
 ロシウが直接見た培養液で眠る青年の姿。その存在を知っている「シモン」の復讐に燃えた瞳。体の内臓全てがひっくり返るような不快感に襲われる。半分といっても、アンドロイドは自らの出生に感付いていたのか。それをシモンに教え、託したのか。彼らの希望を。
 カミナを模して造られたのだという歪な生命体の望みが「ちゃんと埋葬されたい」などと言うのなら、今初めてロシウは螺旋族のスパイラルネメシスの恐ろしさを実感する心地だった。
 そんなことはさせない。そのためにロシウは尽力してきたのではないか。

「……昔の話だ。昔、シモンさんは確かにカミナさんを亡くした。誰にとってもショックなことでね、とりわけシモンさんは深く傷つき、自責の念に襲われていた。カミナさんは私たちの中でとても大きな存在で、シモンさんは彼のようにならなくてはと、随分自分を追い込んだんだよ。だがシモンさんはカミナさんになれなかった。誰であっても、たとえクローンやアンドロイドで作り上げようとしても、カミナさんになることはできないんだ。私も、かつてシモンさんのように人類を導かなければならないと追いつめられたときがあった。だが私がシモンさんのようにはできなかった。シモンさんはシモンさんで、私は私だった。そうやって成し遂げてきたんだ。みな、誰も他人の代わりになれないんだ」

 ロシウは微笑んだ。もはや復讐すら叶わなくなった哀れな子どもに。
 地下生活を強いられ、シモンの人生をなぞるようなカリキュラムの中、外環の情報を制限された子どもに、元地球大統領ロシウの顔を知っていろと言う方が無理な話だ。ましてや今ここで長い昔話を語る老人が、その人などと。忌むべき計画に祭り上げられた英雄の、古い友人こそ目の前の老いぼれなのだと、きっと想像もつかないに違いない。
 この子には、ロシウが何者かは知らないだろう。ロシウやその周りの者が、既にこの計画を取りやめさせたことも知らないはずだ。復讐を取り上げられた子どもは幸運だろうか? その答えをロシウは持たなかった。
 ロシウは苦く思い出していた。友人に殴られた痛みのことを。

「シモンさんは、あの人は、確かに偉大な人だった。あの人がしたことは、決して誰にもできることではなかった。だがね、彼がしたことを私ができないように、私ができることを、彼はできないのだ。私にできないやり方であの人は宇宙を救ったし、あの人のできないやり方で、私はこの宇宙を守ってきた。君にも。君にしかできないことがあるだろう。もうこの計画は私が“ぶっ潰し”てしまったが、君の大切な人を弔うことが君にはできる。今はまだ難しいかもしれないが、そうして自分にしかできないことを探しなさい。アレックスよ、君は君を誇りなさい。穴掘りシモンなどではない、君は君だ。ただのアレックスである、自分を信じなさい」

「だめだ!」

 アレックスはロシウの手を叩いた。
「俺が、僕がアレックスなら、どうして僕は友人を殺さなくちゃいけなかったんだ! シモンになれないなら、ただのアレックスならどうして!? 理由もない友人殺しのアレックスを、どうやったら誇りになんかできるんだよ!?」

 この子どもに、自分は「カミナ」が死んで良かったなんて言えるだろうか。
 ――言えるわけがない。
 ロシウの老体はぎしぎしと軋みはじめていた。だがそんなことは関係ないのだ。油の切れたブリキのようなぎこちなさで、ロシウは両手を広げ子どもの体をかき抱いた。
 あぁ、この抱擁が、いったい何の慰めになるだろうか。自ら友人を殺したと泣く少年の、どれほどの助けになるだろう。
 たとえこれがなんの意味のない行為だとしても、ロシウはアレックスを抱きしめることをやめなかっただろう。ロシウは、願わずにはいられなかった。

 かつてのロシウが十四歳のシモンに触れることはできなかった。だがこの触れ合いこそが、他人から与えられるこの温もりこそが、いつか少年が自力で立ち上がらなければならないときの、その第一歩の後押しになってほしいと。

 言えるわけない。そうだ。言えるわけがなかったのだ。ロシウの言葉など、何十年探しても見つかるわけがなかった。その言葉を、シモンに対して言うべきだったその言葉を、ロシウは言わないまま死ぬだろう。永遠に、友人のシモンには伝えることのできない言葉。胸に抱いて、口には出さずに、その言葉とともにロシウは墓に入るときが必ずくる。

「この非人道的な計画は、私が責任を持って最後までぶっ潰そう。君たちも、またこの計画のために作り出された命も、これ以上損なわせることはしないと約束する。だから君は、どんなに時間がかかってもいい。君たちは『英雄シモン』の亡霊を忘れ、自分たちのために生きるんだ。君の友人の分も。それが償いというなら……、君がそれを望むなら、友人の死を償ってからでも」

 ロシウは苦い心情をこの少年にだけは吐露した。

「そうしていつか、君の友人の死を乗り越えなさい。大丈夫、アレックス。君にはシモンさんにできなかったことも、きっとできるよ」














作中のいくつかの単語が適しているかどうか、疑問の余地が残ります。



2016/3/21
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