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エレンくん、おねしょをするの巻





 リヴァイさんは嬉々として俺と同棲を始めようとした。思えば大学卒業後の俺の誕生日、長年の思いはやっと結実し、晴れてパートナーとなりえた。心も体もっていうやつ。そして俺は社会人の仲間入りをし、お互い自立した大人、恋人同士。俺より何年も社会人先輩であるリヴァイさんが、そろそろ身を固めたいと考えるのも自然な流れだ。残念ながらこの国に同性婚は認められていないので、まあ同棲から始めて事実婚にしてしまおうという魂胆なのだろう。
 彼と共に暮らすこと、将来を共にすること。俺だってそれを望んでいる。だから彼に「俺もあなたと同じ思いです」と伝えたし、ふたりの時間を作って引越しの準備を進めようと約束した。それから早くも半年経っている。いや、経ってしまった。まだ新居とするべく物件も満足に見に行けていないままに。なぜ六か月の時間の甲斐なく、なんの成果もあげられていないのか。ひと月およそ三十日だとして、半年なら百八十日ちょっとある。それだけの日数を、ふたりはどうしていたのか。それだけの時間があったのに。
 だが、ふたりの時間などまったく存在しなかったのだ!
 百八十日がほぼお互いの仕事に消えた。もちろん休日はあった。同性婚のないこの国にも労働基準法はある。しかしお互いの休みが重なる日など無いに等しかった。エレンは新社会人。研修で瞬く間に時間と体力と根気が奪われていった。リヴァイはこれまでの実績を認められプロジェクトのチームリーダー補佐に。責任のある雑用が一気に増えた。残業を終え泥のように眠る日々。精も根も尽き果てれば、不動産のサイトを見ることも叶わない。それ以前に、お互い近況報告の連絡メールを送るぐらいしか恋人間のスキンシップもなかったぐらいだ。これにはエレンもリヴァイもブチ切れ寸前だった。なにが悪いというわけではない。だがもう少し余裕のある生活ができないものなのか。恋人との逢瀬くらい、もっと気軽にできないものか。エレンとリヴァイはまさしく社会の荒波に揉まれていた。
「あ〜!」
 布団に倒れこみ溜め息をつく。思っていたよりも大きい、腹の奥底から捻りだしたような低い声にエレン自身がびっくりして、そのあとに続くはずだった「疲れた……」のひとことを飲みこんでしまったほどだ。辛うじてシャワーを済ませてきた体は、今日の汗をすっかり洗い流して疲労感だけがはびこっている。朝晩肌寒くなってきたので冬用の布団に変えたばかりのベッドは、そんなエレンの重い体を優しく受け止めてくれた。じわじわと熱が布団に移っていくのが心地良い。
「ふぁ……」
 あくびをひとつ。もう良い。このまま寝てしまおう。昼休みの電話で、年上の恋人と少し口論になってしまった。次の週末こそお互い時間を取ろうと調整していたにも関わらず、あっちの仕事の関係であえなくおじゃんだ。一か月前から彼に会うために人知れぬ努力をしていたのだが、それもまったくの徒労になってしまった。当然エレンは面白くない。彼だって、自分との時間を蔑ろにしたいわけではないだろう。エレンが彼の知らないところで週末の時間確保のために奮闘していたように、彼だってエレンの関知しないところで最善を尽くしたのだろう。あの眉間にたっぷりの皺をこさえながら。それでもあの瞬間、カチンときてしまったのはエレンにはもうどうしようもないことだった。どうしようもないって言ってしまうのがまだガキな証拠かもしれない。瞬間的な怒りだって、抑え込まねばならないときは実際いくらでもある。それでも自分の感情を優先して彼の神経を逆なでするようなことを反射的に言ってしまった。これを彼に対する甘えだとはどうしても認めたくない。エレンは自分が感情的になったことを後悔している。反省もだ。彼は咄嗟に口汚くエレンを罵ったが、それでも最後にはうら若き恋人を労わる言葉をスピーカー越しに伝えてくれた。それを満足に受け止めきれないまま通話を切ったのはエレンだ。謝らねぇと。俺こそ、すみませんでしたって。ガキは嫌だと駄々をこねるまえに、自分が馬鹿なガキだったことを認めないと。だから、今日は終業したら彼に電話をする予定だった。週末にすら予定を空けられなかった彼だ。いきなり家に押し込むのは非常識だろう。彼はまだ家に帰ってきてもいないかもしれない。エレンもリヴァイも、お互いがそれぞれの家の鍵を持っているけれども、それを使ったことなんて片手で数えるよりもずっと少ない。だめだ……、だから、電話しねぇと……。それなのに意識はどんどん薄らいでいく。お腹のあたりが温かいのは、エレンが布団のうわかけにうつぶせで横たわっているからだ。ふとんをかけることすらできない。瞼が重力にそって閉じていく。もう閉じているのだ。指先に力が入らず、布団に皺を作ることも、ましてや携帯を手繰り寄せることもできないのであった。束の間の静寂はあっというまにエレンの寝息で塗り替えられる。時計はまだ天頂を差していなかった。
 夢を見ていた。夢というのはたいてい奇妙奇天烈なものだ。なのに夢の中の自分はそれを不思議だとは思わない。その事象を受け入れて、また自分もその奇怪の一員であるかのように振る舞う。それが自然だと疑いもせずに。
 夢の中のエレンは幼かった。低学年ぐらいの身なりをして、その小さな手のひらにはおもちゃの注射器が握られている。中に水あめが入っているのだ。色付けされたそれは薄い青で、海の色とも空の色とも違った。およそ食べものの色ではない。だがお菓子売り場に行けば、そのような色は子どもの目線のところに必ずあった。小さなエレンはその水あめが舐めたくて、押子の部分に力を込める。だが玩具の中に薄い膜でも取り付けられているのか、一向に挿入はなされず、したがって甘い蜜をエレンが味わうこともできない。ぐ、ぐ、と指に痛いほど力を入れても、それ以上の頑なさで反発される。幼いエレンの目に涙がじわりと浮かんだ。ひりひりと親指が痛む。腕が引き攣れて重たくなってきた。それなのにエレンは水あめの入った注射器のおもちゃを投げ出そうとしないのだ。恐るべき執念だった。ずっと力んでいるのも疲れてきて、エレンはドアをノックするように小刻みに押子を押し上げる。トントントン。戯れのような動きでは中に入っている水あめを揺らすこともできないようだ。ほんの少しでも、あのかぐわしい蜜を舐めとることはできないかと、エレンは注射口を口に含んで、その隙間に舌を這わせる。舐めても舐めても、唾液が溢れるばかりでいっこうに飴の味はしなかった。諦めて口を離すと、注射器の筒の部分はエレンのよだれで汚れていた。よだれ濡れにするのは良くない。怒られてしまう……。(誰に?) エレンは手のひらで己の唾液を拭った。上下に。何度も。べたべたとなった注射器を見おろす。中には美味しいものが入っているのに、エレンはその味を知っているのに、それを享受することができない。とても理不尽なことのように思える。なにが足らないのだろうか? 力か? 強引さか? この押子を注射器の中に入れるだけで、蜜は押し出されて出てくるというのに。
「い、入れたい……!」
 エレンが嗚咽を堪えながら叫ぶと、今までにない力が、エレンの手に伝わった。
「えっ?」
 慌ててその手のひらを見ると、それはもうエレンのものではない。大きくて、ごつごつしていて、かさついた、大人の手だ。
「にいちゃん?」
 それは隣の家に住んでいて、よく遊んでくれる年上の幼馴染のものだった。幼馴染といっても年が大分離れているので、兄弟のように慕っている。リヴァイお兄ちゃん。
 しかしよく見ると六歳の年の差があったはずのリヴァイさんは、エレンよりも遥かに大人の顔をしている。父親みたいにスーツを着ていて、顔はとてもくたびれていて、しかしはだけられたシャツの隙間から見える肉体は逞しい。エレンが低学年ぐらいだとすれば、リヴァイもまだ中等部ぐらいの年のはずだ。だが目の前でエレンを見おろす男は、父親よりかは若干若いくらいに見えた。
「え?」
 リヴァイは見せ付けるようにエレンの手にあったはずの注射器を掲げる。そしてぐっと、手といわず腕全体に力を込めた。彼の太い二の腕の筋肉が盛りあがる。
「あっ、あ! だめっ……!」
 そんなに強く押し込んだら、水あめが飛び出てしまう。いまや蜜を塞ぎとめている薄い膜は崩壊寸前だ。パンパンパン! どこかで耳鳴りのような音がした。
「やら! でちゃうぅぅぅ!!!」
 一気に押子が注射口近くまで押し込まれるのを、エレンは見た。中に詰められていたブルーの水あめが、弾けて……。

「あ……?」
「……寝ションベン垂れてやっと起きたか。エレン、おはよう」
 重い瞼を開くと疲れた顔をしたリヴァイさんのドアップが飛び込んできた。目元にはくっきりと隈が浮かんでいるのに、頬は紅潮し、額は汗に濡れ、生暖かい息がエレンの顔にかかる。
「え、なに。これ……」
 夢現の状態から徐々に覚醒した意識は、現状の把握に悲鳴をあげる。おなかがあたたかい。
「あっ! リヴァイさ、やん!」
 シャツを羽織っただけのリヴァイのたくましい腹筋が見える。その先まで。
「、え、なに、なんで」
 エレンは揺さぶられていた。リヴァイの勃起したペニスで体の奥を擦られながら。ちがう。エレンはさっきまで寝ていたはずだ。リヴァイさんに昼のことを謝らないと。電話しなくちゃと思っていて。だってリヴァイさんの家まで行って、まだ彼が帰ってなかったら迷惑だし、寂しいから、電話でって。幼稚なこと言ってごめんなさいって。でも寝てしまって、だって布団が温かったから。それで夢を見て。夢。注射器の。水あめが。
「うそ、おれ、漏らしてる……?」
 角度を変えたためリヴァイの腹筋にエレンのペニスもろとも扱かれる。その隙間に濡れた感触がしてエレンは青ざめた。
「あぁ。おねしょなんて何年ぶりだ……? エレン」
 どうしてこの人はこんなに楽しそうに俺を見るのか。あ、そうか。この人は俺が漏らしたりするの大好きなんだったな……。いやだからちがう。そもそもどうしてこの人ここにいて俺のこと抱いてるんだ?
「あん! ああっ」
 太ももを持ち上げられて、限界まで広げられて、切羽詰まったように腰を振られると、エレンも快感を受け取るだけで精一杯になってしまう。疑問や不満や驚きが、渦になってベッドの下へ落ちていく。思えば肌と肌を重ねぶつかり合うのは、およそ何か月ぶりだろうか。百と……何十日ぶりの肉欲だ。エレンの抗う気持ちはすっかり流されてしまった。覆いかぶさるリヴァイの体が重く、暖かいのだ。それだけで堪らない。中が疼いてしまって仕方ない。リヴァイはそんなエレンの気持ちを見透かすように耳元で小さく笑うと、エレンの感じるところばかりことさら攻めたてた。
「あぅ、ん、んー!」
 やがてエレンが達し、リヴァイも果てると、シャワーを浴びなくちゃと思う間もなく思考が急速に微睡んでいく。さっき起きた、いや起こされたばかりなのに……。
 時計は深夜をまわって久しく。次にエレンが目覚めたのは早朝だった。

 訊けば、リヴァイさんにも昼休みの電話で思うところがあったのだという。これはどうしても直接会わねばと残業でくたくたになったていで電話をかければ繋がらず、半ばヤケになって家まで押しかければ当の恋人はベッドですやすやと夢の中だ。しかも掛布団もかけられず寒さで縮こまっていたのだという。それからなにがどう間違って寝入っている人間を襲うことになったのかは、リヴァイさんの言葉足らずな説明では分からなかったけれど。というよりあの人の複雑怪奇な思考回路を理解できる日なんてきっと来ないと思うけれど、自分も疲れているのにエレンの後始末をしてくれたことには感謝しているし、会いたいと思って、実際に会いにきてくれたのは嬉しい。素直にそう伝えると、リヴァイさんは分かりづらくはにかんで笑った。しかし朝の時間は短く、お互いそれからはバタバタと支度をして慌てて出勤することとなった。一緒に出勤は照れくさいけど、やっぱり心を満たすものがあったので、なんにしても同棲の準備は早く進めちまいてぇな。
 なんて考えていたのも忘れるくらい、それからも怒涛の日々だった。だが死に物狂いで手にしたリヴァイさんの誕生日とクリスマス休暇に、まさか新居の鍵を渡されることになろうとは。俺との時間を合わすのも惜しんで、ごり押しで自分で全部決めてしまったらしい。「プレゼントはお前が『はい』と言うことだ」なんて言ったけれど、俺はちゃんと誕生日の分もクリスマスの分もリヴァイさんにプレゼント用意してたんだけどなぁ。














2015/10/21
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