inserted by FC2 system








すてきな一人ぐみ





 ざっざっざっ。鉄の刃が土を削っていた。アニキに渡したスコップが固い地面を掘っている音だ。スコップは手のひらサイズの小さいもので、柄の部分が赤かった。アニキが握ると、おもちゃみたいだ。
 ざっざっざっざっ。どうしてアニキが夜明け前の薄暗い丘で、軽石混じりの土くれをほじくりかえしているのかというと、墓を掘っているからだった。アニキは自分が埋まるための穴を掘っている。俺がやれないからアニキが代わりにやってくれているのだ。
「ねぇ、アニキ」
「なんだ、シモン」
 スコップを地面に突き刺しながら、アニキは答える。月の光が汗に濡れたアニキの項をきらきらと照らしていた。
「どうしてあの時、オレンジをくれたの?」
 シモンはアニキの背中を見つめる。頭のてっぺんから足の爪先まで、刺青の位置、髪の色、目の虹彩、全てが記憶のままのアニキの姿だった。
「……俺には、分かんねぇよ」
 声だってシモンのアニキと同じなのに、このアニキは出来損ないだ。だから自分の墓を掘らされている。
「そうだよね。あの時アニキはオレンジを渡したんだ。だけどあんたが俺にくれたのはリンゴだった。お前には分かるわけがない。お前はアニキじゃないんだから」

 グレン団で旅をしていた、いつかの日だった。小高い丘の上に色の濃い緑の葉を茂った木が立っていた。アニキははしゃいでその木によじ登り、たわわに成った果実をもいでは下から見上げる俺たちに投げて寄越した。太陽みたいな見た目の果物の匂いは爽やかで、まっぷたつに割ると大量の汁がぼとぼとと落ちた。肘まで垂れたその果汁を舐めとる。甘酸っぱくてとても美味しかった。リーロンは果汁を絞ってジュースにしてくれたけど、俺とアニキは二つに割った果肉にむしゃぶりつくのが性に合っていたようで、ぷちぷちした果肉の瑞々しさを楽しんだ。そんな日があった。
 のちにその果実の名を「オレンジ」だと俺は知るに至ったが、その時にはもうアニキはいなかった。アニキはあの時食べた果物の名前も知らずに死んでしまったのだ。
 それから月日は七年流れて、俺は自分の力がどこからどこまでできるのかをなんとなく理解できるようになっていた。
 出来心だったのだろうか。魔が差して? それとも確信犯だったかもしれない。
 その時(というよりは前後暫く)の記憶はあまりに曖昧だった。ずっと自分の名前を書きとる作業ばかりしていた気がする。「シ」と「モ」と「ン」を形作る合間に、「もし」とか「たら」とか「れば」を考えて、気付いたら目の前に「アニキ」がいたんだ。
 それが本物のアニキではないってことを、俺にはすぐに分かった。だってアニキはもう死んでしまっていて、今は冷たい土の中で眠っている。
 アニキが死んだ直後、あまりのショックで俺は埋葬に立ち会えなかった。ラガンに閉じこもって、ずっと膝を抱えて泣いていた。でもあの丘の、アニキのマントと刀が墓標となっているその盛り上がった土の下に、遺体が埋葬されていることは知っているのだ。
 だから目の前の、温かい肉を持ち、温かい血潮の流れる生きたアニキが、土の下に埋められている冷たいアニキとは違うのだとちゃんと俺は分かっていたけれど、それでも動いて喋る彼を見て、どうしようもなく嬉しかったのは、やっぱりちゃんと理解できていないからだったのかな。だけど、これは確かに俺の愛したアニキではなかったけれど、俺の、俺だけのアニキなのだ。冷たいアニキの体は墓の中。俺のアニキは俺の中で一つとなって生き続ける……そのはずだった。俺が何枚も何枚も何枚もの書類に同じ名前を書き写している間に、俺の中のアニキが俺の力で肉体を持った。それが事実だ。
 でも結局、俺とアニキが月へ飛んでいく時は永遠に来なかった。
 世界の終着点は、小さな丘の上でだった。
 そこには、木が植わっていた。アニキはそれを見ると駆け出して、あっというまに枝に足をかけて登ってしまった。俺が木の根元に来ると、アニキは嬉しそうにもいだ果実を手渡したのだった。その時俺はもう身長がだいぶ伸びていて、アニキの手ずからその身を受け取ることができた。それはかつてのあの時とは違うことだった。でもそれは良い。問題は、アニキが俺にくれたのが、オレンジではなくリンゴだったということだ。
 オレンジではない!
 その時の俺の衝撃を、いったい誰が分かってくれるだろう。
 散々これはアニキとは違うのだ違うのだ違うのに……と葛藤していた日々。しかしここまで明白な、決定的な、甚大なアニキとの断絶を見せつけられるとは思わなかった。例え俺のアニキでも、ここで俺にくれるのはオレンジであるはずだ。
 幸福な夢から突然冷や水でもぶっかけられて飛び起きた気分だった。「これはアニキじゃない」アニキじゃないのに、アニキの顔で、声で、その魂で俺に寄り添い、こうして最後に明かすのだ。俺は違うぞ、と。
 それは手ひどい裏切りだった。
 俺は何もかもが許しがたい気分で、差しのべられた果実を受け取らず、その手首を掴んで木の上から引きずりおろした。地面に叩きつけられた体は受けた衝撃で丸まり、俺はマウントを取って、アニキの形をした裏切り者を殴った。一発、二発、三発と。立て続けに。
 何が許せなかったのか。アニキじゃないことか。俺にリンゴを渡したことか。俺に夢だと気付かせたことか。それとも俺を置いて逝ったことだろうか。……俺はアニキ自身を実は憎んでいて、アニキと同じ顔をした何かを殴っているのか。俺の力で生み出したアニキになら、何をしても許されるのか。
 そんなことないはずだと声高に主張したかった。俺はこれがアニキじゃないと知っていた。なら夢もいずれ覚めるものだと理解できていたはずだ。そして俺がアニキを憎むことなんかできるわけがない。俺はアニキを愛していた。
 オレンジは太陽のような色をしていて、太陽のように丸かったけれど、アニキは俺にとって太陽のような人だった。けれどこうしてアニキを殴っていて、俺が興奮しているのも事実だった。殴られ続けているアニキの頬は真っ赤に腫れて、それがあの赤い実によく似ていた。
「バカ! バカ! アニキのバカ! どうして……!?」
 どうして。
 殴りながら泣く俺を、アニキは止めはしなかった。散々ぼこぼこにされたアニキは何も言わず、俺も暴力を謝ることはしなかった。
 俺たちの地球一周旅行が終わって、カミナシティに帰ってきた俺は、いちばんに赤いスコップと青いスコップを買った。園芸用の小さいスコップ。
 俺は赤い方をアニキに差し出して「あの丘に墓を掘ろう」と言った。彼は受け取った。
 久しぶりのカミナシティはところどころビル群が崩れ落ちていたけれど、俺はそれを気にする余裕もなかった。ただ、俺がいちから掘ったカミナ像は撤去されたらしく、それだけは帰ってきたらロシウに抗議しなければと思う。
 足早にカミナシティを去り、寄り道もせずリンゴの丘へ。日の落ちかける頃に着いて、さっそくアニキの埋まる穴を掘ろうとした。
 ざっ。
 だがその一突きの後、なかなか掘り進められなかった。俺にはできない。瞬間的に悟ってしまった。俺に、たとえ紛い物であっても、アニキを埋葬することはできないのだ。
「だめだ……」
 大きく月が浮かぶ夜のしじまに、俺の声が震えていることがよく分かった。
「俺にはできない……」
 俯く俺は、どれだけ望みの絶たれた顔をしていただろう。青いスコップを握って離さない手を、上からアニキの手が抑えた。
「シモン、手をどけろ」
「アニキ……?」
 頬の腫れが赤く痛々しいアニキが笑う。
「俺がやるって言ってんだ」
 アニキは一人で自分の墓を掘るという。ジーハ村にいた頃、満足にドリルも握れやしなかったくせに。
 ざっ、ざっ。
 うまく扱えないのか、時々握り方を変えてアニキは黙々と穴を掘った。時と共に体力が尽きていき、汗に濡れた手のせいで何度もスコップがすっぽ抜けたが、その度に強く握りなおしてアニキは穴を深くしていく。
 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。
 アニキ自身、どうして俺にリンゴを渡したのか分からないと言う。俺に何度も殴られた後なのに、俺に何度も詰られても、アニキはその手を止めなかった。そうして穴は、人ひとり楽に埋まってしまうぐらいに広く深くなった。
 もう夜明けが迫ってきていた。
 底が見えない穴の底から、アニキの声が聞こえる。
「シモン、お前はできないって言ったがな、俺はお前ならやれると信じてる」
 アニキの言葉だ。
「俺が信じるお前なら、俺の墓を掘ることだってできるさ。シモン、俺と別れるのが、そんなに怖いか?」
 ジーハ村にいた頃も、地上に出た後も、穴を掘るのは何の苦もなかった。穴掘りシモン。それはアニキが俺につけてくれた名だ。
 なのに何故、アニキの墓だけは掘れなかったのだろう。それは確かに、アニキの言う通り、俺は怖がっていたからなのかもしれない。アニキを埋めてしまうことが、アニキとの永遠の断絶に思えてしまって。
「怖いよ。俺には無理なんだ、アニキ」
「無理じゃねぇ。俺がやったんだ。今度はお前がやれよ、シモン」
 確かに林檎は、俺のガラじゃなかったかもな。最後にアニキはそう言った。
 白々とした朝日がシモンの足元にまで迫ってきていた。穴の底は太陽からの光も届かぬほど深い。何も見えなかった。世界は静まり返って、シモンしかいないような錯覚すらさせる。
 ゾッとした。
「アニキ? アニキ! ねぇアニキ!!」
 何度も穴の底に向かって呼んでも答えはない。シモンの力は途切れ、肉体は失われてしまったのだ。底には、赤いスコップだけが転がっているのだろう。
「嫌だよ、アニキ! もういっかいで良い! アニキがくれるものなら何でも良いから! どうしていつもいつもそうやって言いたいことだけ言って先にいなくなっちゃうんだ! ずるいだろ! ねぇ! アニキ!」
 穴の淵に縋りついて、声が枯れるほど叫んだ。
「もういっかい、俺の名前を呼んで」
 その掠れた声を、朝焼けだけが知っている。






「シモン」
 はずだった。
「アニキ!」
 声は、シモンの背後からした。林檎の木の幹に体を預けたカミナは、真っ白な頬を釣り上げてニッと笑うと、ゆっくりシモンの方へ歩みよってくる。
 途中で青いスコップを拾ったカミナが、その先を天へと掲げた。
「今度はお前の番だ」
 もしお前がまだ怖いなら、俺も手伝ってやる。
 青い空を塗り潰すほどの大きな月が浮かんでいた。いや浮かんでいるのではない。落ちてきているのだ。
「俺と一緒に、人類の墓を掘ろうぜ」














2014/11/16
inserted by FC2 system