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ナルトの嫁入り





 濡れた森の中をナルトを抱えて走っていた。傷だらけのナルトに意識はない。驚異的な回復力で表面上の傷はふさがりつつあるが、内面のほうはどうだろう。ぬかるんだ泥土を踏みながらカカシはとりとめもなく考える。
 雨は止んでいた。
 サスケが里を抜け、サスケを連れ戻しに追ったナルトは重傷。内政の混乱で一歩も二歩も遅れてカカシが終末の谷にたどり着いた頃にはもう、勝敗は決していた。自らの至らなさを噛みしめる。腕に抱いたナルトの体は、雨水に濡れて衣服がぐっしょりと重たくなっているにもかかわらず、軽い。いや、頼りない重さだ。七班の時間や、そこで得た見聞、人のつながり、自来也との修業、そして中忍試験。数々の経験はナルトを成長させ、それは大勢の目を瞠るものにまでなった。ナルトは強い忍になる。それは技量的なものではなく、自分を、そして他人を、運命を変えていける強さだ。だがナルトがまだ発展途上にあるのは明らかで、この試験の後も、カカシはその成長を促し見守ってやることを楽しみにしていた。
 だが状況は悪化の一途を辿り、カカシはサスケの闇をどうにかしてやることができなかった。自身の託した術は、サスケにとって憎しみへの抑止力にはならず、その力でサスケはナルトを傷つけたかもしれない。いや確実に。
 ナルトは。追いすがっても届かず、友情はサスケによって踏みにじられた。サスケに痛めつけられたナルトは、どうするだろう。彼にとっていっとう大切なもの「人とのつながり」――それを無残にも引き裂かれたことに怒り、「もうサスケなんて知らない」などとは、……ならないだろう。自分の言葉はまっすぐ曲げない。それがナルトの忍道なら、きっと。いや必ず。ナルトはサスケを諦めない。どんなことがあっても。たとえ自身が九尾の人柱力ゆえに暁に狙われていようとも、取り戻したいサスケに何度も傷つけられようとも。
 ナルトを抱く手に力がこもる。
 この小さな体に、傷ばかり抱えた子どもに、背負わせたものはあまりにも大きい。それでもきっとお前は歯を食いしばって、涙も見せずに……。
 そうだ。ナルトはもう現状を悲嘆するばかりの涙には意味を見いだしていない。彼は泣くぐらいなら強くなろうと猛進する。かつて任務先で幼子に言った。「ナルトは泣き飽きているんだろう」と。きっとナルトは泣かないだろう。サスケを連れ戻すことができなくて、その力不足を嘆いて泣くようなことは絶対にしない。その青空のような美しい目を爛々と輝かせて、乾いたまなこでカカシを見上げるのだ。そこに湿った気配などかけらもない。ただ前を見据えて。サスケへ! サスケへ! と。
「先生、オレはエロ仙人についていく」
 カカシの予感した通り、雨の日にナルトを連れ帰ってから数日後に、ナルトは決意の秘めたまなざしを向けた。
「そう」
 その瞳は晴れ渡る空。けっしてけぶらず、雨に濡れないそのまなこを、カカシは寂寞の思いで見た。
 ナルトが自来也との修業の旅に出てしばらく、「あぁ自分はナルトに泣いてほしかったのだ」とやっと気付いた。泣いて、縋ってほしかった。なによりも自分に。それは確かに、自らが担当する生徒へ抱く思いとはかけ離れていた。




「せんせー! 見て! 虹!」
 白い包帯に包まれた手がホースを握る。その噴射口から水が勢いよく飛びだし、きらきらと光を反射して火影塔の中庭に降り注いでいく。声変わりを終えた低い声が高らかに告げたように、晴れ渡った空の下で局所的な虹が出来上がっていた。
「水やり好きだねぇ」
 火影執務の僅かな休憩中。カカシはベンチに座ってナルトが作り上げた虹を見上げた。うっすら光り輝くスペクトル。
「おう! 昔さ、先生がオレにジョウロくれたこと覚えてる?」
 ナルトが振り返り、その思い出を回顧するように青いまなこがたわむ。
「あぁ……、お前がコップで水やりしていたのを見兼ねて、買ってやったっけ」
 当時満足に買い物もできず、自分の身の回りのあるものでなんとか生活を彩っていたナルトに、その明るい色彩の足しになってほしいと買い与えたのは緑色のジョウロだった。あのとき、ナルトのまなこがその色彩をグッと増やして喜んでくれたものだから、いまでもカカシの胸をあたためる思い出だ。
(お前はもう、そんなこととっくに忘れてしまっていると思ったのに)
 ナルトも自分と同じようにそのぬくい記憶を持ち続けてくれているのなら、いまのカカシの胸にもまたぽかぽかと熱がともる。
「あのときは知らなかったけど、虹の根元には宝物があるんだって。でもさ、カカシ先生がジョウロくれただろ、それがオレにとって宝物なんだ」
 照れくさそうに笑うナルトの頬は、丸みもすっかりとれて精悍だ。あの小さかったナルトが、いまは誰よりも頼れる忍者となっている。
 虹の放つ光彩のなか、ナルトはまっすぐカカシを見ていた。その瞳の色を美しいと思う。
「オレにも、宝物があるよ。ナルト」
 ――それはお前だ。
「へぇ。どんなもの?」
 水を十分に行きわたらせたナルトはホースをしまい、カカシの横に腰かける。下から覗き込むようなまなざしは、好奇心に溢れている。
「なぁナルト、そうやってずっとオレのこと見ててよ」
 カカシが告げると、ナルトは首を傾げた。
「お前がそうやってオレのことを見ててくれたから、オレはここまでこれたんだ。何度も道を踏み外しそうになった。でもお前がいつも『カカシ先生』ってひっついてオレを見てくれたから、まるでオレを世界でいちばん格好いい、尊敬できる忍だって目で見てくれたから、オレもそうなりたいって、そうあろうと、踏みとどまることができたんだよ」
 お前の目が好きだった。青天のように美しく透き通った青。どんなにオレが、その辛く困難な道からお前に泣いてほしいと願っていても、お前は決して人前で、オレの前では涙を見せてくれなかった。その強さを誇りに思うと同時に、オレはいつも自分の無力に堪らない思いをしたよ。この空を守りたい、曇らせたくないと決意しながら、内心でオレの前でだけは、オレを頼って泣いてほしいんだなんて考えていた。オレの思惑なんて知らずに、変わらず向けられる親愛のまなざしに、オレがなんど救われたことか。お前はきっと知らないだろうから。
「だからさ、ずっとオレのこと、このまま見ててほしいんだ。お前が見ててくれたらさ、オレは目を凝らさずとも分かる気がする」
 希望の道だ。お前が繋いでくれた。
「せんせ……」
 そのとき、ナルトの青いまなこから涙が零れ落ちて、カカシはびっくりしてしまった。
「それってプロポーズ?」
 頬を伝う幾筋もの雨。ナルトは震える唇でそう言った。
「えっ……、そう、だな。そうだ。ナルト、オレと一緒に生きてほしいんだ」
 青天の中庭で、カカシの指先を雨が濡らした。ナルトは顔をくちゃくちゃに濡らして「嬉しい」と言った。
 ずっと先生が好きだったから、嬉しい。
 ずっとナルトに泣いてほしかった。オレだけを頼って、その張りつめた心の内を晒してくれたらと。そうだ。ナルトはかつて言ったじゃないか。男は泣くものじゃない。だが、「嬉し涙は別だ」と。ナルトに泣いてほしいと願ったあのときから、オレにとってナルトは特別だった。ナルトもそうなのか。
「いつも先生は自分なんかって、オレらのためにいつでも死ぬ覚悟はあるみたいな感じで、オレはずっとそれが嫌だったんだ。でもオレが先生を見てることで、先生が生きていけるって言うなら、先生が先生のためにオレが必要だって言うなら、オレは嬉しい」
 オレはお前が必要だよ。そう言って口付けると、しょっぱい味がした。ナルトは涙に濡れたまなこで笑って「これからよろしくな、カカシ先生」と言う。
 初夏を思わせる燦々とした晴れ間。火影塔の中庭、カカシの腕の中だけで雨が降っていた。ふと、晴れた空に雨が降ることを「狐の嫁入り」というのだとカカシは思い出して、ナルトはきっと知らないだろうからあとで教えてやろうと、その愛し子に再度口付けながらほくそ笑んだ。













2017/6/3(初出)
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