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魔の口





「虫歯を防ぐのにはみがきはとっても大事! ごはんを食べたあとと夜寝るまえはしっかり歯をみがこう!」

 保険の先生や教育テレビ、両親から何度も何度も歯みがきの重要性を伝えられてきた。
 エレンは頭ごなしに命令されればその者に牙を剥けて反抗するぐらいやんちゃで生意気な子どもだったが、何が大事でどうして必要なのかを理解できたなら、おおむね大人たちの言うことには従順な少年である。根は素直なのだ。
 耳にタコができるほど繰り返された言葉は理に適っているもの、道理のものとしてエレンには認識されていた。たまに面倒くさいなと思うことはあっても、律儀に歯をみがく日々。       子どものエレンの舌には辛味が強すぎるからと言って、母がエレン専用に買い与えた歯みがき粉はイチゴ味だった。正直なところ、ガキっぽくてエレンは好きにはなれない。それにイチゴ味は女子っぽくて、だったらメロン味が良いと思っているエレンである。大人用の歯みがき粉は、確かに幼い舌には涙が出るほど刺激的だった。
 その日、エレンは学校の小テストで百点を取って帰ってきた。ものの数を足したり引いたり、簡単な計算式の問題。エレンの他にも満点を取った者は四人いたが、それでも満点花丸マークがついた答案用紙の魅力は衰えないものだ。早く両親に誇らしげに胸を張りたい気持ちで、エレンは急ぎ足で帰路についた。
 夜、父親であるグリシャが帰宅した時、エレンは待ってましたと言わんばかりに花丸マークのテストを見せた。
「がんばったな、エレン」
 母のカルラにはすごいわねと頭を撫でられたが、エレンの陰ながらの努力を労う言葉がエレンには特別嬉しかった。
 照れくさそうに笑う息子をグリシャも微笑ましそうに見つめ、ふと思い出したように仕事用の鞄を漁り始める。すぐに目的のものを見つけたのだろう、その手の中には金色の包み紙に入れられた一口大のチョコレート。エレンの小さな掌の上で転がすと、それはぴかぴかと光った。
「母さんには内緒だよ」
 双眸を悪戯気に細める父親に、エレンも秘密の話をするみたいに父親の耳と己の口元を手で隠して、小さな声で「ありがとう」と言った。
 その後母親に夕飯の支度ができたと呼ばれ、しかも今日の献立はエレンの大好物なチーズを乗せたハンバーグだったので、その甘いお菓子のことについてはすっかり忘れてしまっていた。
 夕食、歯みがき、風呂も済ませてもう寝ようとベッドに潜り込もうとした寸前で、やっとエレンは父親から貰った甘い誘惑を思い出した。その金色の秘密は勉強机の上、辞書の影に隠すように置かれていた。
 もう歯みがきをしてしまったのだから、寝る前なのだから、このお菓子は今食べない方が良い。しかしエレンの口の中は既に、甘くとろけるチョコレートの、その滑らかな舌触りまでが思い出されてしまっていた。
 ごくりと唾を飲み込む。
 ひとくち。たった一口ぐらいなら。
 今日貰ったご褒美なんだから、今日のうちに食べなくちゃ意味がない。
 子どもの理論だったが、幼いエレンには正論にしか思えなかった。
 そろりと忍び足で勉強机にまで向かい、そっと小さな包みに手を伸ばす。呼吸を殺して、爪で慎重に紙の端を引っ掻けると、ペリッとささやかな音がした。露出したチョコレートは艶々と黒く輝いて、カカオの香ばしく甘い匂いを漂わせる。
 大丈夫。もうおやすみは言ってあるのだから、あとは寝るだけなんだから、誰にもばれない。
 こっそりと口の中に入れたチョコは、背徳感と混ざっていつもより甘美な味がした。
 うっとりと目を閉じて舌の上で転がすように、その塊を舐り味わうと、熱を持った粘膜にどろりと溶けていくのが分かる。
 父の大きな逞しい手の、指先ほどの大きさしかなかったチョコレートはあっという間にエレンの喉を焼いて胃の腑に落ちていく。奥歯についた甘さの余韻を舌で器用に舐めとってから、いけないことをしてしまったとどきどき高鳴る胸を押さえて、エレンはベッドとドアを交互に見た。
 今から階下に降りて、もう一度歯みがきすることは可能だろうか。両親はまだ起きているか。物音に気付いて問われるかもしれない。「どうしてまた歯をみがいているの」父親との内緒だ。母親に気付かれるのは拙い。しかもこんな時間にと知れたら、父も眉を顰めるかも。このまま寝てしまうのがいちばん良い。どうせ朝起きたらまたみがくのだから。一晩くらい。
 エレンは暫し迷っていたが、やがて面倒くさくなり、その日初めてはみがきをサボった。



「よぉ、クソガキ」
 眠りに落ちたエレンが目を開けると、ぶかぶかの黒い背広を着た大人の男性がエレンを見下ろしていた。
 エレンの頭上では煌々とライトが灯されていて、あまりの眩しさに顔がくしゃりと歪む。無意識に手で光を遮ろうとするも、何故だか両手が動かない。不審に思って体を起こそうとするが、上半身はぴくりともせず、足すら意のままに動かせなかった。
「な、んだよコレ!? 誰だよアンタ!」
 椅子の背もたれを倒すようにして、少し角度をつけるようにエレンは寝かされていた。いかついベルトでがっちり四肢を拘束されている。
 意味の分からない状況と、正体不明な男。
 混乱と苛立ちがエレンの焦燥を掻きたてた。
「随分と躾のなってねぇガキだな」
 男が低い声で言い放つ。しかしそれはエレンの求める答えではない。
「クソッ! これ外せよおっさん!」
 がむしゃらに手足をばたつかせるエレンに、男は無慈悲にも拳骨を振り下ろす。漫画やアニメに出てくるように、視界の隅で火花が散った。
「ってぇ!」
 痛みにもんどりうつエレンの頭上で男がすごむ。逆光でほとんど男の顔のつくりは分からなかったが、眇められた目だけがいやにギラギラ輝いていてものすごい怖かった。
「口の利き方には気を付けろよ、クソガキ。目上の者には敬語を使うもんだ」
 それから、男は殊更強調するようにひとことひとこと区切って言った。
「誰がおっさんだ」
 エレンは子どもながらに、大人げない男の怒りのほどを正確に理解した。怒りの度合いは分かったが、その理由がエレンには腑に落ちなかった。おっさんをおっさんと呼んで何が悪いのか。エレンは人の心の機微に疎い子どもだった。なのでその主張を理不尽に思ったが、懸命にもエレンは歯を食いしばるに留めた。頭が痛かったのだ。口を開くと悲鳴をあげてしまいそうで、エレンは男の前で無様を晒すことを良しとしなかった。男のことは確かに怖かったが、黙って男を睨み上げたのはエレンの高すぎるプライド故だ。痛みで不規則になっている呼吸を整えてから、エレンは反撃に出る。
「おじさんが嫌なら名前ぐらい言ってみろよ!」
 生理的に浮かんだ涙が眦を濡らしたまま敵意を剥き出しに吠える子どもに、男の口元は引き攣れたように痙攣する。子どもと侮っていれば稀有な強さを目の当たりにさせられて、興奮で久しく死んでいた表情筋が震えたのだ。
 男は屈みこんで、子どもの滑らかな頬を舌でねっとりと舐めあげた。性的な触れ合いなど知らないだろうに、子どもの肩が震える。
「人の名を尋ねる時はまず自分からって、ママに教わらなかったか?」
 頤に手を這わせて親指の腹で肌を擦ると、意味の分からないまま、本能的な羞恥と嫌悪感で少年の顔が歪んだ。
「エレン! エレン・イェーガー!」
 唯一自由になる顔を振って男の手を払うと、エレンは自分の名を大きく叫んだ。気位の高い様子に、男の背筋にゾクゾクと欲が駆け上がる。エレンと名乗る子どもは、随分負けん気が強く、向う見ずな性格をしているらしい。が、そんな子どもも自分の手にかかれば可愛いものだ。
「ではエレンよ。知らない大人に安易に個人情報を教えては駄目だとパパに教わらなかったか?」
 大人のずる賢い発言に、エレンは顔を青ざめさせたが、すぐに怒りで顔を真っ赤にした。
「ふ……ざけんな! なんなんだよお前!」
 抗おうとするエレンの手足から、ガチャガチャと革のベルトと金属が擦れる音がする。なめして固くなった皮が幼子の柔らかい肌を赤く腫れあがらせる。男は興味深げに擦り切れた手首の傷を指で追ったあと、徐にエレンの唇に親指を食いこませた。ぷっくりとした赤い唇を歯茎が見えるように下へ押し込める。小さな歯が並ぶさまを観察した男が笑う。
「エレン。悪い子だな」
 初めエレンは何を言われているのか分からなかった。悪い子? 悪いことなんて……。
 男の言葉を反芻して沈黙するエレンを余所に、男はそのままエレンの口をこじ開け中を覗き込む。
「寝る前にチョコなんか食うから、歯にべったりくっついてんじゃねぇか」
 誰も知らないはずのエレンの秘密を言い当てられて、ぎくりと体を強張らせた。嘘を吐けない子どもを男は鼻で笑う。エレンの顔からは「なんでばれたのだろう」という疑問がありありと浮かんでいた。男はとびきりの悪戯が成功したみたいに、目元に皺を作って喜びを表現する。
「お前のことなら、なんでも知ってるぞ」
 ぞくりとした。なんでもお見通しなんて、神様みたいだ。母親がエレンを叱りつける時に話す、閻魔様や雷様と男は同じ存在なのかもしれない。母はよく言っていた。悪いことをしたら、必ずバチが当たるのだ、と。
「エレンは悪い子なんだから、ちゃんと罰を受けなきゃいけねぇな」
 この男こそ、エレンにそのバチとやらを当てに来たのだ。
「やっ、やだ……! 離せよぉ!」
 拒絶のために大きく開いた口から、男の無骨な指が押し入ってくる。そのまま良いようにされるつもりなど微塵もなく、噛み千切ってやろうと歯を立てたが、ろくに力も込めないうちに男の片方の手がエレンの顎を掴んで固定した。
「うっ……、ぐっ」
 長い指が戯れるように喉奥を突いてきて、エレンはくぐもった悲鳴をあげる。
「お前はチョコひとつも我慢できねぇのか。食ったら歯みがきしねぇと汚ぇだろうが」
 自身の怠惰さを指摘するような断罪と呆れを滲ませた軽蔑の責め苦に、エレンは悔しさで涙が滲んでくる。
 男の言っていることは確かに正しくて、エレンもちゃんと悪いことだと認識していた。それなのに誘惑に負けてしまった過去の自分の弱さが、今のエレンを酷く苛む。
 だからといってエレンは自分を罰する男に屈したくはなかった。涙一滴、この男の前で流してなるものか。エレンは目を見開いて、潤む視界を堪えようとする。
 エレンの気概を察した男は、面白がるように口内を蹂躙していた指の数を増やし、唾液を撹拌し、上顎や頬の裏肉を引っ掻き回す。
「んん、ふぅっ……、あっ、」
 舌を引っ張られ擦られ、不快感と圧迫感で呼吸が苦しい。自衛のための反射でか、分泌された唾液が溢れかえって顎までしとどに濡らす。くちゅくちゅと音をたてるのを男は嘲って「ビショビショじゃねぇか」とわざとエレンを言葉でなぶった。
「ふぁ、んぅ……、ん、んっ」
 息がし辛いので鼻で空気を吸い込もうとすると、自分の声とは思えないぐらい高い声が出てしまう。鼻に抜ける音は頼りなく、子猫が餌をねだってくる時の鳴き声みたいだ。
「ハッ! ガキのくせにエロい声出しやがって」
 そんな声、出したくて出しているわけではない。侮辱の言葉にエレンは上気した頬を惜しげもなく晒しながら、男を睨み上げた。男は涼しい顔でエレンを見下ろして、歯の裏側をなぞる。
「ちっせぇ歯だな」
 こしこしと拭うような動作をされて、エレンはむずがるような吐息を漏らすことしかできない。
「お前の歯が俺のを甘噛みして、うっすいこの舌でペロペロ舐めて、小さい口いっぱいに頬張りゃあ、さぞかし“キモチイイ”んだろうな」
 夢見るように嘯く男の“キモチイイ”ことがどんなことだが幼いエレンの知る由ではないが、どうせろくでもないことなのだろう。変なものを口の中に入れてきたらその時は噛み切ってやる。
「お前だって俺のに吸い付いたり、ごくごく飲み込んだりする時に、虫歯で歯が痛いのは嫌だろう?」
 俺はお前が痛がろうが構わないけどな。さらっと低い声で付け加えられた言葉に、もしかしなくても男は危ない奴なんじゃないかとエレンは背筋の凍る思いがした。
「歯みがきは大事だ。菌だらけの口の中になんて、俺も突っ込みたくねぇからな」
 随分自分勝手な言い方をする男に、エレンは怒りを感じるより先に呆れてしまった。誰がお前のためなんかに歯みがきするか。
「エレン、今度は隅々までみがいてこい。そしたら存分に可愛がってやる」
 秘めやかな声のあと影が落ちてきて、あっという間に男の肉厚な唇がエレンのものと重なった。軽く食まれた唇が、ちゅっという軽い音ともに離れていく。エレンは全身に鳥肌が立った。
 涎まみれの口元を拭われても、あまりのショックにエレンは何も反応することができなかった。
「ひぅ」
 代わりに嗚咽が。
 我慢し続けた悲鳴が小さく零れて、やっと恐怖がエレンの全身に回り始めた。歯の根が噛みあわないくらい、エレンは男のことを怖がっていた。
「そんなに怯えんな」
 男が優しい手つきでエレンのふわふわとした頭を撫でる。
「……リヴァイだ。覚えておけ。いずれまた会う」
 最後に名前を明かした男は、白い光に塗りつぶされるように消えていく。
 羞恥と憤怒と恐怖で、男の名前など記憶に留められなかった。だがあの眼光やその声の低さ、指の太さは一生忘れられそうにない。屈辱とともにいつでも思い出されるだろう。
 エレンは暫く嗚咽を落ち着かせるために呼吸を繰り返すばかりだったが、ほっと人心地つけるほどの余裕を取り戻すと、途端に自分自身に対する失望で腹が立ってきた。屈したくないとあれほど気概を持って挑んだのに、なんだあの無様な醜態は。あんな声を出して、しまいには泣き出してしまった。エレンは己の弱さを恥じた。これがバチというのなら、自分は十分に反省したと思う。
(これからは、歯みがきちゃんとしよう)
 決意を新たにすると、次第にエレンの体自身も眩い光に包みこまれていった。いや、意識が遠のいているのだ。夢の終わりを悟ったエレンが、そういえばあの男も自分のためにエレンに歯みがきをするように言っていたなと思い出した。そしたらエレンの新たな抱負は、あの男の意に沿うものになってしまう。それは癪に障るどころの話ではない。絶対に嫌だ。
(でもまぁ……夢だしな)
 夢うつつをさまよいながら、エレンの瞼は朝の到来を感じ始めていた。「また会う」なんて男は言ったけれど、エレンとしてはもう二度と会いたくなかった。それに夢なのだ。いったいどうやって「また会う」つもりなのか。万が一にも再びエレンを罰しに来るとしても、エレン自身が悪いことさえしなければ無いバチは当てようもないはずだ。
 だから、きっと、大丈夫……。
 朝がくる僅かな時間。やっとエレンは穏やかな微睡に身を任せることができた。

 翌日からエレンは心を入れ替えて歯みがきをきちんとするようになり、虫歯もなく学校の定期検査はいつもパスした。虫歯知らずが自慢だったエレンが、歯科医院に訪れなくてはならなくなったのは親知らずのせいだったのは流石に想定外だ。酷ければ抜歯しなくてはならない。内心びくつきながら近所で評判の歯科クリニックに行けば、あの夜夢見た男そっくりの先生がエレンに通院を言い渡した。
「よろしくお願いしますね、リヴァイ先生」
「あぁ」
「ほら、エレン。エレンもちゃんと先生にご挨拶して」
 付添いの母に急かされて、エレンは真っ白になった頭のまま「よろしくお願いします……」と消え入るような声で言った。
 担当医のリヴァイ先生は、鋭い眼光をエレンに向け、低い声でエレンに「よろしく」と答え、その無骨な指先でエレンの唇を辿った。
「歯みがきはちゃんとしてきたな、エレンよ」














2014/11/16
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