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俺のかわいい旦那エレンくん





エレンに宝物が増えた。
その日のことを、エレンはしっかり覚えている。
母の胆力はエレンの想像以上に凄かった。長い陣痛にも、出産の苦しみにも屈することなく、待望の赤子を産み落としたリヴァイは、流石にその額に汗を浮かべていたものの、苦痛や疲れなど感じさせない顔でケロリとしていた。
ありがたいことに、母子ともにすこぶる健康だった。
そんな二人の生命の力強さを前にして、エレンは我慢できず大泣きした。新たな命の誕生、その神秘さ、畏敬の念、尊さ、幸福感、いろんなものがないまぜになる。目の前に命が存在するのだということに感動して、大粒の涙を零した。
文字通り命を懸けて頑張って産んでくれたリヴァイにも、生まれてきてくれた我が子にも、その懸命さを労うように、二人の身体を掻き抱いた。
エレンはリヴァイの手を握り、見守り、最後は子どもの誕生を待つことしかできなかった。女に比べて、男はなんて無力なのだろうかと、待合椅子に腰かけながら痛感した。しかしエレンが頑張るのはこれからだ。決意とともに涙は止めようもなく溢れてくる。赤子がまだ目を開けられないことが救いだった。こんなみっともない姿は見せられない。かっこいいパパでいたい。
今だけはその涙を零すことを許すように、リヴァイはまだ助産師が残っているにも関わらず、エレンの貴い涙を自分の唇で拭ってやった。

涙なしでは語れない、感動の出産から五年。愛おしい幼子はすくすくと成長した。日に日にリヴァイに似てくる、エレン大好きな女の子だ。
「パパー、おフロはいろー」
そして今日も、母と娘の仁義なきエレン争奪戦が幕を開ける。
「てめぇは昨日エレンと一緒に風呂入ったろうが。エレンは今日は俺とだ」
お風呂セット(アヒル)を抱える娘に、同じくお風呂セット(パジャマ)を抱えてリヴァイが言う。両者は鋭く見つめ合い、お互い一歩も引かない。子ども相手に眦を釣り上げるリヴァイもリヴァイだが、その眼光に臆するところのない娘の姿は驚嘆に値する。娘のあの頑固さは一体どちらに似たのやら。
エレンにしてみれば、まだ幼い我が子を一人で風呂に放り込むことなんてできない。しかし毎日娘と風呂に入っていては、リヴァイのフラストレーションは溜まる一方だ。リヴァイ爆発の被害を考えれば、これ以上リヴァイの機嫌を損ねさせたくない。前門のかわいい仔虎、後門の可憐な狼の攻防に、エレンはほとほと困ってしまう。
理想は三人で入浴することだ。しかし三人一緒に入るには、家の風呂は狭すぎる。
エレンが大学時代から同棲という形で住んでいたマンションだったが、そろそろマイホーム購入時期を考える頃だろうか。
エレンの現実逃避は長くは続かない。そんなことをしても無駄だと、学んでいるのだ。
妥協案。エレンは唸る。エレンだって娘と妻とお風呂に入りたい。しかしエレンが犠牲になるしかないだろう。妥協案はたった一つだ。
エレンは娘と目線を合わせた。
「今日はママと一緒にお風呂入ろうぜ」
エレンの案に不服なのは二人とも同じようだった。唇を突きだした母子の姿は、そっくりだった。これは納得していない証だ。リヴァイがまず文句を言う。リヴァイはエレンのことになると大人げとか常識とかをかなぐり捨てる。悪い癖だった。
「嫌だ、こんなクソガキ」
「やだー、こんなクソアマ」
続けられた子どもの文句に、エレンは言葉を失う。今、子どもが口にするべきでない単語を耳にした。
エレンが衝撃で放心している間に、リヴァイは容赦なく行動した。リヴァイ曰く“なってない言葉遣い”に母は我が子に鉄拳制裁を振り下ろしたのだ。あのリヴァイでさえその口の悪さには我慢ならないものがあったらしい。
途端に火がついたように泣き出した子どもを慌てて抱きかかえながら、エレンは非難の声をあげる。
「リヴァイさん!?」
エレンはリヴァイが子ども相手に手を上げたことを怒っているのではない。教育上よろしくない発言をどこで聞いて覚えてきたのか。肝心なのはその言葉の出所だ。当然、エレンがそんな言葉を教えるはずがないし、保育園だってそうだろう、園児だってまだそんな言葉は知らないはずだ。疑いの眼差しは当然、子どもができてもその口の悪さを直す努力をしてこなかったリヴァイへかかる。
「俺じゃねぇよ」
リヴァイの横柄な弁解の言葉にエレンは追及するように胡乱な眼差しを投げかけたが、リヴァイは素知らぬ顔だ。ひとまずその言葉の出所を確認することは後回しにした。後で、本人に聞くなりなんなりすれば良い。
エレンは泣きじゃくる我が子を宥めるように背を撫でた。ついでにその言葉はもう二度と使ってはいけないことを諭す。覚えてしまったものはしょうがない。それを使わないように理性を育むことが大事だ。
エレンが親の務めを果たしているというのに、そんなエレンの肩に、リヴァイは甘えるように額を擦りつけてくる。大方、仲間外れにされたように感じて温もりを求めにきたのだろう。構って構って、お願い、と言うようにじゃれつかれて、エレンは呆れる。これはリヴァイなりのSOSのサインだった。
子どもが泣いている。泣いてエレンに縋っている。
リヴァイは自分では抑えられない独占欲を発揮中だ。そんな方法でしかエレンに己の気の弱さを訴えることができないから。
伸し掛かる子ども一人と女一人の体重をエレンは耐える。子どももリヴァイもエレンの優しさを求めている。自分たちじゃどうにもできない状況を打破できるのはエレンだけだと頼っている。頼りにされているのだ、期待に応えたい、こんなことはなんてことないはずだとエレンは自分に言い聞かせる。エレンは父親で、夫だ。だから。
エレンは天を仰ぐ。
ああ、もう、この人たちは。
本当にしょうのない。
だけど、どうしようもなくかわいい。
「俺のかわいい泣き虫さんとー、俺の可憐な甘えんぼさんはー、仲良しー」
エレンは歌うように言った。
片腕で娘を抱いて、片手で嫁の腰を引き寄せる。三人の身体は仲良くくっつく。母と子も例外ではない。
「仲直りできますよねー?」
強情な二人は、自分から謝ることができない。だからそのきっかけをエレンに求めた。エレンの言葉に勇気づけられて、こう着状態だった母子は、おずおずと顔を上げる。
子どもは泣きはらした目で挑むようにその小さなこぶしを差し出した。リヴァイもまた、その鋭い三白眼を遺憾なく発揮しながら、同じようにこぶしを向ける。こぶしとこぶしがごっつんご。
似た者同士で不器用な家族の、仲直りの印だ。
「偉いですよー」
二人の精いっぱいの頑張りに、エレンも顔を綻ばせ労う。
子どもと大人は、仲直りを促してくれたエレンへの感謝の意を好意で返してくれる。
「パパ、だいすきー」
娘がそのもみじのような手をエレンに向ける。
「ふっ、俺は愛している」
リヴァイはその唇を差し出す。子どもの前だと言うのに。
妊娠が分かった直後、リヴァイはエレンしか愛すことができないと白状した。だが、リヴァイが子どもを愛していないかと言えば、そんなことはないとエレンは確信している。リヴァイは何事も、分かりづらいだけなのだ。愛情の受け取り方も、与え方も。恐らく自分が我が子をちゃんと慈しんでいるということも、自分自身で分かっていないのかもしれなかった。
ちゃんと分からせてあげたいなと思った。
リヴァイは愛されているし、愛している。
この人となら大丈夫だ。きっとしあわせになれる。現に今、エレンの身体は幸福感で満ちていた。
決して完全に分かり合うことができない二人にできること。
想い合い、熱を分け合い、愛情を与え合う。そして連綿と命が繋がっていく。
エレンたちが生きている世界は。
所詮一人と一人が分かり合うことはできないのだと、残酷な真実が時に二人を苛んでも。
奇跡のように美しい世界だ。
奇跡のように美しい世界だった。














2013/6/29
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