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ジャン・キルシュタインに鉄槌を!





リヴァイは飲み屋が嫌いなので必要以上にその場所に寄りつくことはないが、必要があればどんな飲み屋にでも赴く。飲食店なのだから清潔であるべきことは当然だが、それでも雑多な印象が拭えない全国チェーンの居酒屋に現在リヴァイがいるのにも理由がある。
リヴァイは物心つく頃から自分でも制御しづらい潔癖症を抱えていた。しかし不思議なことに、自らでは抑えられない神経質な性分を宥めることができる人物がたった一人だけいる。
リヴァイの恋人、エレン・イェーガーだ。
リヴァイが夜分遅くに仕事終わりの疲れた身体を引きずって、煩わしさしか感じない居酒屋にいるのも、ひとえに今夜飲み会に出席したエレンのことが心配で迎えに来てしまったからにほかならない。過保護なことは認めるが、酔いのあまりにエレンが誰かに“お持ち帰り”などされては堪ったものではない。今日の飲み会のメンバーは気心知れたエレンの旧友だとエレン自らが言っていたが、それでも気がかりなのはどうしようもない。というより、エレンと付き合いが(恐らく自分よりも)長い以上、ぽっと出の女よりも警戒するべきだった。まあ女のメンバーなんて、エレンが頑なに幼馴染に過ぎないと主張するミカサ・アッカーマン一人しかいなかったが。
リヴァイはそれでも、もしくはそれこそ、不安だった。
リヴァイを不安にして仕方がない原因である当のエレンは、今リヴァイの目の届くところにはいない。幹事のアルミン・アルレルトと会計を代表して支払いに行っているのだ。リヴァイより五歩ほど離れたところに、残された飲み会のメンバーである二人の男女が会話している。一人は勿論ミカサで、男の方にはリヴァイと面識はない。今日は中学生の時分の数少ない友人同士で同窓会だと言っていたから、元同級生なのだろう。
談笑、とはミカサの無愛想な表情からそうは見えなかったが、二、三の会話は決して遠くない距離で大人しく佇むリヴァイの耳にも届く。
「だからさ、今度二人きりで映画にでも…」
どうやら男はミカサを(あの、ミカサを、だ)デートに誘っているようだ。とんだ趣味なことだなとリヴァイは鼻で笑う。盲目的にエレン一筋のミカサを。
いっそのことミカサとその男がくっついてしまえば、エレンへの脅威も自分の心配も少しはなくなるのに、と考えていたリヴァイは、ミカサのにべもない答えに沈思を引きずりあげられる。
「しつこい、ジャン。私は断っている」
(…ジャン?)
ミカサの一言がリヴァイの意識に引っかかった。どこかで聞いた名前だ。はてどこだったか、とその記憶力の良い頭に検索をかければ、瞬きをする間にその答えが出る。
「ジャン? ジャン・キルシュタイン?」
名前とともに辛酸を舐めた数々の記憶が蘇ってきて、リヴァイの声は知らず低くなる。
突然見ず知らずのエレンの恋人に名前を呼ばれて、ジャンは驚いた。
「は? そっすけど、」
言葉遣いが全くなっていないが、今はそれどころではない。
リヴァイは感じた不愉快を片眉を上げて表現するに留めた。
ジャン・キルシュタイン。
リヴァイにとって、因縁の相手である。
エレンが後にセックスに対してトラウマを持った、その原因のDVDを見せたのがジャン・キルシュタインという名前の男だ。
リヴァイはエレンに説明を受けた時、忘れないようにその名前を記憶中枢に刻み込んでいた。その男に会った時に、いつか来たその時に、男に復讐を果たすためだ。
リヴァイとジャンが邂逅したのはこれが初めてであったが(もっともリヴァイはエレンとのメールのやりとりでジャンの性格の一端を一方的に知ってはいたが)、リヴァイにしてみれば“ここであったが百年目”の心情である。
「お前がジャン・キルシュタインか」
エレンに間違った知識を詰め込んだ、あの。
名前と男が合致しているのか再度確認するような言葉だったが、リヴァイはもうその存在を確信していて、その証拠に発言と同時にジャンの胸倉を掴んでいた。
リヴァイの奇行の理由など到底分からないジャンは目を白黒させている。
確かにエレンにエロDVDを見せて、エレンの心に深い痛手を負わせたのはジャンに違いなかったが、勿論ジャンだってエレンを傷つけたくてそんなことをしたのではなかった。
思春期特有の好奇心。に対する僅かばかりの脅え。を認めたくない自尊心。この三つが重なって、ジャンは友人であるエレンを共犯者に仕立て上げた。
まさかそのせいでエレンの性知識が偏ることになるなど、ジャンは思ってもみなかった。だってどんなにリアリティがあったとしても、エロDVDは完全なるフィクションだし、それで現実の行為と混同するようなのは馬鹿のすることだと、中学生ながらジャンはよく理解していた。予想外だったのはエレンの馬鹿さ加減とその頑固さだ。後に事の顛末を偶然知ることとなったアルミンからやんわりと(しかしその言葉の切っ先は鋭くジャンの胸を抉った)責められ、責任を感じたジャンはアルミンとともに何度も、それとなく、エレンの誤解を解こうとした。
何も凌辱することがセックスなのではないのだ、本来抜くことが目的なので愛情や好意を念頭に置いた作品は少なかったが、ジャンはそれでも少ないなりにDVDなどを探し出して、エレンに無償で貸し出した。押し付けたと言っても良い。その効果がなしのつぶてであったことは、大変に遺憾なことであったが。
ジャンの涙ぐましい努力もリヴァイは知らないし、ジャンとてエレンがその誤解を野放しにしていたために、リヴァイの身に降りかかった悲劇など知る由もない。
ジャンには及びもつかないことだったが、リヴァイの怒りの発露は要は八つ当たりなのであった。それを分かっていてなおリヴァイは己の激情を我慢しない。
「お前のせいで俺はなぁ、買わなくても良い下着を買って、やらなくても良いバストアップエクササイズとダイエットまでやったんだ。分かるか?」
リヴァイは脅すようにそう言って、こぶしを固めた。
小柄な身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、容赦のない力で締めあげられ、またその悪鬼のような形相で睨みつけられジャンは頬を引き攣らせる。
リヴァイの言っていることは、ジャンにとって意味不明な言いがかりだ。
「分かりません!」
恐怖で身体が縮み上がっても、理不尽な暴力を振るわれる覚えがないことははっきり主張すべきだ。ジャンには正当な回答であった。
「だろうな」
リヴァイは頷きながら鼻を鳴らす。一見納得したように見せて、だがそのこぶしが緩まることはない。リヴァイは端からジャンの言い分を聞くつもりがない。
横暴にもその固く握ったこぶしを振り下ろそうとしてくる。
細腕だが(ジャンはエレンの恋人が人類最強の元ヤンだとは知らない)、平手ではなくこぶしで与えられる衝撃に備えて、ジャンは歯を食いしばった。その時、
「リヴァイさん!?」
救世主現る。
会計を済ませたのだろうエレンが、リヴァイのこぶしを止めた。
ジャンはこの時、柄にもなくエレンの存在に感謝したが、そもそもこの理不尽な状況を作り出したのが当のエレンなのだと後に知ることになる。
それはまぁともかく。
エレンがリヴァイの暴力を止めたのは事実だ。
「何してるんですか!?」
エレンはリヴァイの手首を掴んで、エレンの正面にリヴァイを振り向かせる。対してリヴァイはぶっきら棒に「こいつが悪い」とのたまった。
エレンはあのリヴァイに対して失礼を働いたらしいジャンに、怒りが湧くよりも先に呆れてしまった。
「お前、何したんだ?」
本来リヴァイが理由もなく暴力に訴えることはしないと知っているエレンは訝しげにジャンに尋ねたが、ジャンはリヴァイのそんな性根のことを知らないし、ジャンにしてみればまさにリヴァイの暴力は理由のない暴挙であった。
「何もしてねーよ! 名前聞かれたから、答えただけだ!」
脅威から解放されてもなお身に降りかかろうとする汚名を返上するように、ジャンは声を張り上げた。エレンは一部始終を見ていたはずのミカサに目配せした。(本当か?)付き合いの長い相手はすぐにその意を察し、頷いた。肯定だ。
エレンは目を丸くする。名前? なんで? それだけで?
エレンの戸惑いを正確に感じ取ったリヴァイは「…こいつがジャン・キルシュタインなんだろ」と低い声でエレンに言う。あの、ジャン・キルシュタイン。
リヴァイは、決定的な言葉が足らない。しかしエレンとリヴァイの付き合いは長く、誰よりもその関係は深い。リヴァイの言わんとしているところを暫く思案して、思い当たることが一つあった。
あー、うん、そう。それだ。あれだな。
リヴァイの怒れる理由が分かって、エレンは脱力する。
一体何年前の話をしているのだ。
「お怒りはごもっともですが、…いや、そもそも俺が悪かったことですし、…そうじゃなくて、やっぱり暴力は駄目ですよ、リヴァイさん」
宥め諭すエレンに、リヴァイは納得いかないというようだった。
「別に、減るもんでもないだろ」
減る。突然、何も知らず暴力を振るわれたジャンの精神力は確実に削りとられる。
リヴァイの何も分かっていない言葉に、エレンは溜息を吐きたくなったが、逆に声を張り上げた。リヴァイの言葉に納得していないのはエレンも同じだ。
「減りますよ! リヴァイさんのこぶし一つだって俺のものなんですよ!」
瞬間、周囲が静まり返る。
「…あ?」
「…あっ!」
この時、エレン・イェーガーが二十数年で築き上げた彼の死に急ぐ性格は、その真髄を見せた。














2013/6/29
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