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モモ





 所用で内地にまで赴き、帰りに人々で賑わう通りを歩いていると、一軒の青果店が目に入った。
 流石内地と言ったところか、土地が制限されている壁内で果物を栽培する余裕はいくばくもないはずだが、王族貴族に献上するには見劣りのするものが市場に流れてくるようだ。粗悪品のレッテルが貼られて、傷が細かについていたり、形が僅かに歪であるものの、食す分には何の申し分もない。一般市民には手が出せないような高価なものも、比較的裕福なこの土地では少し贅沢をする程度なのだろう。
 また熟れすぎて痛む寸前なものには値引きがされており、これなら自身の小遣いからでも出せそうだった。
 リヴァイは柔らかな桃を一個手に取ってから、ハッとして僅かに身じろぎした。
 果物など買ってどうするつもりなのか。
 思い起されるのは一回りも年下の、幼い子どもの顔。やんちゃな眉毛の下に眦の吊り上った真ん丸な目。恐れを知らぬように前ばかりを見つめている。大義名分だけはご立派な、リヴァイからしたらそこらの洟垂れ小僧と大差ない、ただの生意気なクソガキだ。
 上司で監視役であるリヴァイの前でこそ立場を弁え、精一杯の敬語と謙虚な態度を心掛けているようだが(無論あの子がそのように振る舞わざるをえない理由の大方はリヴァイにあるのだが)、その瞳が輝く度に、その口元がひくつく度に、握りこんだ拳がぶるぶると震える度に、薄い背中を丸めこんでひたすら耐える姿を見る度に、本人の奥底に潜む正真正銘の化け物の存在をリヴァイは感じるのであった。そこらのジャリん子と決定的に違う点を挙げるとすれば、アレには本物の怪物がいる、それだけだ。
 リヴァイは子どもの苛烈なエネルギーに静かに感動していた。その在り様は大変好ましく思っていたし、かねてよりリヴァイはそんな少年の憧憬を自分が独り占めできたらと思っていたところである。
 憧憬? 憧憬なら十分に向けられているはずだ。だがリヴァイにとってそれだけでは物足りないのも事実だった。審議場でのリンチのせいだろうか、本人は納得済みであると語っていたが、不本意な暴力を加えたことは被害者以上に加害者であるリヴァイに遺恨を残していた。子どもがいつまで経っても己への態度に怯えが混じっているのは、あの時の恐怖がこびりついているせいではないかとリヴァイは推察している。
 つまり、リヴァイはあともう少しだけでも年下の部下と親しくなりたいのだった。
 ふむ、と暫し露店の前で考え込む。
 古今東西囁かれる、飴と鞭と言う名の懐柔策。餌付けというのは、特に子どもにとっては、大きな影響力があるのではないか。
 あの子どもが、甘い果肉にむしゃぶりついて、あのひくつきがちな口元をべたべたと果汁で汚し、その薄い頬をまるく膨らませているところまでリヴァイは想像して、悪くないやり方だと満足げに頷いた。
 顎にまで滴る汁を「汚ぇ」と言いつつ拭ってやれば、それだけで上司と部下の白々しい距離もグッと縮まるような気がする。
 気まずげに視線を逸らすことがよくある少年が、リヴァイに対して顔を綻ばせて礼の一つでも言ってくれたら!
「おい、この桃を一つくれ」
 その声と目つきからは想像もつかないが(実際店主の親父は大きく身を震わせた)、リヴァイの胸は期待に膨らみ、浮かれた頭のまま、大人げない欲望に金を出した。

 内地から古城へ帰り、しかるべき雑務を終わらせると夕飯の時間になった。食事の席でエレンに入浴を済ませた後自室に来るように告げれば、その場に居合わせた幾人かの敏い人間は露骨に顔色を変えた。下世話な勘ぐりを巡らす古参の兵士たちには一瞥をくれて黙らせるが、リヴァイは胸中で苦く舌打った。今のは確かに自分が悪い。いくら浮かれていたからと言え、早くエレンにと気が急いていたとは言え、時と場所には配慮するべきだった。言い方も悪かった。プライベートなことだから自由な時間に誰の目のないところでと思っただけのはずが、「入浴後自室に」なんて、勘違いされても文句は言えない。……文句は言わなかったが。睨んだだけで。
 大人の思惑を知らない子どもはその目をぱちくりと瞬かせて、不審げに了承した。無知な子どもと無知でない故に誤解を与えてしまった大人たちのために、リヴァイは言い訳まがいになってしまうのも承知で言葉を付け足した。
「内地で聞いてきた件について、エレンの耳にも入れておきてぇことがあるんだよ」
 我ながら実に胡散臭いことを言ったものだ。リヴァイは鼻を鳴らしたが、さいわいなことに、上官を盲目的に信頼している部下たちはそれ以上リヴァイに不信の目を向けることはしなかった。

 夜が深まり就寝時間を控え、立体起動を外してラフな格好で来たエレンは、差し出された桃を見て怪訝な顔をして見せた。
「てめぇにやる。痛む直前だから、この場で食っていけ」
 照れくささを必死に抑えたせいでぶっきらぼうな言い方しかできない。エレンは恐縮するよりも先に、不可解が勝ったのだろう、眉尻を下げて、じっとリヴァイの手元の桃を見ている。
「いえ、えーと、……これは?」
 リヴァイの前で不躾に断ることはできない。そんな考えが滲み出てくるような問いかけだった。エレンの愚直さを噛み締めながら、答える声にはにべもない。
「桃だ」
「はぁ……。桃ですね」
 要領の悪い会話。一向に伸ばされない手。リヴァイはエレンを急かすようにその顔を睨み上げたが、エレンには脅されているようにしか感じられなかっただろう。
「食えっつってんだろ」
 意味の分からない上司の行動と、意味が分からないまま強要される行為に、エレンの肩が震える。それはリヴァイへの恐れのためか、それとも高圧的な態度を取り続けるリヴァイへの怒りのためなのか。
「な、なんでですか……?」
 どうやら理不尽な要求にも答えや理由を提示されないと納得できず、納得できないと動けない性分らしい。厄介な性格だなと思うし、戦場でいちいち理由を求めていてはとてもじゃないが生き残れないだろう。
「人の好意には水を差さず受け取るもんだ」
 有無を言わさず拳ほどの塊を唇に押し付けると、エレンはそれ以上追及せず(できないのだが)おずおずとピンク色の果物を受け取った。
 望む答えが得られず不承不承という体でリヴァイの好意を受けたエレンは、高価な食べ物にいまいち嬉しそうな表情を見せない。望んだ結果が得られず落胆したリヴァイは、桃を持ったまま手持無沙汰な様子のエレンを見ていた。その実頭の中ではもっとうまくやれば良かったと後悔でいっぱいだ。
 暫くしてからようやく踏ん切りがついたのか、意を決したようにエレンは袖で桃の表皮を擦り始める。それから徐に果肉を包んだ薄い皮ごと口に含もうとするので、見てもいられなくなったリヴァイがすかさず止めた
「待て」
「はい?」
 驚きはしていないだろうが、でかいまなこをくりくりと強調させて、エレンは小首を傾げる。
 リヴァイは溜息を吐きながら日頃から肌身離さず服の下に隠し持っている愛用のナイフをエレンに差し出した。「皮を剥け」と命令する。言いながら自分が剥いてやっても良かったんだと気付いたが、後の祭りだ。
 ゴロついていた頃、腐りかけの果物を拾ったり盗んだりしては皮ごと齧りついていたリヴァイだったが、口の中に残る残骸が実は苦手であった。別に自分の食べ方を彼にまで従わせる必要はないはずなのだが、縮れた皮がその口の中にいつまでも残っているのかと思うと、リヴァイはエレンが哀れに思えてくるのだった。ただの自己満足でしかない。
 エレンは掌の上で果実を弄んでから、言いにくそうな表情をした。が、彼がそれで発言を差し控えるということはしない。
「果肉が柔らかいので、ナイフで剥くと悲惨なことになるかもしれません」
 ナイフの扱いの未熟さを申告しているようなものだ。リヴァイは新兵の不出来さとエレンの裏表のなさに頭痛がしてから、明日からこの少年兵を鍛えなおす口実ができたようで少し嬉しくなった。今はとりあえず子どもを甘やかすことが先決だが。リヴァイは無表情の下で十分今の状況を楽しんでいた。
「なら手で剥くんだな。できないなら俺が剥いてやろうか?」
 からかわれたと思ったのだろう(実際は先ほどの後悔を先に立たせただけだが)、エレンは頬を紅潮させて「できます!」と声をあげた。
 ナイフの代わりに書き損じの紙を手渡して、この上に皮を捨てるように言う。エレンは一言断ってから応接用のローテーブルにその紙を置き、ソファに腰かけて果物の皮を剥くことに専念し始めた。
 エレンの深爪気味なつま先が、何度も赤く熟れた表面を引っ掻いていく。
 皮が剥ぎ取られた肉は汁を零し、その指先を濡らして蝋燭の火を綺麗にきらきらと反射して見せた。
 集中して節目になった瞳を縁取るまつ毛は、青白い頬に影を散らす。
 視線の先では皮を除けられ開かれた果肉が、今にもむしゃぶりつかれたそうに白く濡れて光っていた。
 たかが皮むきに苦心する子どもの姿。蝋燭の明かりのもと光る指先と白い肉。
 時と場所、肩書きと品位を無視して良いのなら、リヴァイがあのゴロつき時代に戻れるのなら、今この場で下品に口笛でも吹きたい気分だった。
 ふわり甘く香るのはまだ瑞々しい果実のもの。食欲を刺激されたのだろう、エレンの細い喉がごくりと上下する。
 なんて生々しいのだろうか。
 ただ甘いものを寄越して無邪気に食べる姿が見たいだけだった。笑った顔が見たい。親しくなるためのきっかけ作り。それがどうしたことだろう。一途な欲望が斜め上を飛行してリヴァイの頭上で爆発した。……ような錯覚だ、あくまで。
 皮を剥き終えたエレンが、甘い汁が滴る指先を口に含む。赤い舌が一瞬見えたことに、リヴァイは心の中だけで唸った。果汁の甘みに目を輝かせたエレンは、そのまんまるい果実本体への期待に頬を薔薇色に染める。手元の果肉を口元に持っていき、恍惚の表情で口を開く段階になると、リヴァイはもうエレンの目が肉体の一部なのか上等な宝石なのか判断がつかなくなってしまっていた。夜空に浮かぶ星々と同じ光彩を放つそのまなざし!
 緩く開かれた口からは白い歯が覗き、柔らかな果肉に突き刺さる。咀嚼し汁を啜り飲み込む一連の動作。ほうっと息を吐くエレンは満足げだ。
「おいしいです」
 その言葉が本心からであることは、一部始終を隈なく観察しているリヴァイには痛いほど分かった。
 うっとりと緩む頬が、エレンの手に持たれた桃よりもよっぽど瑞々しく、甘美で、うまそうなものとしてリヴァイの目には映っていた。
 果肉にがっつくエレンの口元は大いに滴る汁で濡れたが、そのおいしさに夢中なエレンも、だらしなさを嫌うリヴァイにも、些末なことにしか思えなかった。
 だが、半分ほどを衝動的に胃に収めたところで、エレンは突然手を止めた。呆然と手元の桃を見つめるエレンの横顔は、ほんの少しの憂いを秘めている。
「どうした?」
 カラカラに乾いた喉をひた隠しにしながら、リヴァイは低く尋ねた。
「いえ、なんか、ずごくおいしくて、とてもしあわせだったんですけど、アルミンやミカサに食わせたいなって思ったら胸に詰まって……」
 ……ほう?
 リヴァイは大人だったので、片眉をあげただけで僅かに感じた不愉快を表に出すようなことはしなかった。リヴァイが気に入って手をかけた子どもが、自分以外の他人によって気持ちに水を差されたことが気に喰わないのだ。
「あの、俺ばかりおいしい思いをさせてもらって、感謝してます。でも俺だけなんて悪いんで、もし良かったらですけど、俺の食べかけでも良かったら、兵長もいかがですか?」
 半分も食べておいて気付くの遅いんですけど……。エレンは気まずそうに笑う。
 リヴァイは常々、このエレン・イェーガーという人間に優しくしたいと思っていた。
 世界が厳しくあればあるほど、リヴァイはエレンに希望を見出していた。自己満足でも良かった。辛いばかりの現状に、自分という存在が子どもの拠り所となったら。
 だが本当は。こんな自分より、もっと上手にエレンに優しくできる者がいるのだ。
 リヴァイは口下手で、エレンを戸惑わせてばかりだった。
 リヴァイは上官で、エレンに過酷な命令ばかりしていた。
 桃ひとつ与えてやるにもエレンに素直に受け取らせてやれない。
 エレンに対して純粋だと思っていた気持ちも、実はそんなこと決してなかった。
 それに比べればリヴァイは彼の幼馴染の足元にも及ばないだろう。口が回ることの上手い彼と、過保護な彼女。きっと彼らの手からだったら、エレンも気兼ねなく受け取ることができるのだろう。そして仲良く分け合うのだ。
 リヴァイは良い年した大人なので落胆や腹立たしさのままに行動することはしなかったが、それでも悪い大人だという自覚はあったので、みすみす今は手元にいる子どもを無傷で幼馴染の元に返してやるつもりは毛頭なかった。
 もし幼馴染といることがエレンのいちばんの幸福なのだとしても、それがリヴァイのいちばんの幸福にはなりえないのだ。
「そうだな、一口だけ貰おうか」
 リヴァイはエレンの濡れる唇にむしゃぶりつき、甘い汁を啜った。














2014/11/16
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