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「黄金色に燃えよ」





人力車を曳くアニキの姿は美しい。若く、ところどころ未発達な肢体に筋肉をつけた身体は野性的な色香すら漂っている。逞しい上半身は普段は法被で隠されているが、その下には入り組んだ刺青が彫られている。法被の下に秘められた皮膚のことを思うと、堪らない優越感をシモンは感じる。あの法被の下に扇情的とも言える刺青が隠されていることを自分は知っているのだ。刺青が施された腕の筋肉が人力車を曳きながら軋む様を何度もシモンは夢想した。腕だけではない。理知的とは言えないその額に玉の汗が浮かぶのを、やる気に満ち溢れた晴れやかな表情を、咽喉仏を、意外と華奢な肩幅を、わき腹を、太ももを、脛やふくらはぎ、足の甲を、あの身体が快活に動く様を何度も思い、または直接見ていて、そして愛していた。シモンは人力車を曳くアニキのことを愛しているのだ。
シモンは神野カミナのことをアニキと呼んでいるが、この二人が実の兄弟ではないことは周知の事実だ。彼らは最初幼馴染だった。あれは確かシモンが14、カミナが17の頃だったが、カミナが突然兄弟の盃を交わそうと言い出したのだ。二人はまだ未成年だったがそんなことは些末なことでしかなく、シモンとカミナは兄弟の盃を交わしたのだった。そしてその力は甚大で、以来シモンはカミナのことをアニキと慕っているし、カミナもシモンのことを弟分として可愛がっている。二人の兄弟の絆は強いのだ。
そんなカミナも今は二十歳、観光客や舞妓のお得意さんを人力車に乗せて生計を立てている。シモンはまだ学生だったが、観光地として有名なここ京都の中でも有数な老舗旅館の若旦那として、今は勉学に励んでいる。
シモンは人力車を曳くアニキのことが大好きだったが、カミナには夢があった。それはアメリカに渡ることだと、いつか金閣寺を二人で一緒に眺めながらシモンに語ってくれた。
「俺はいつか、アメリカに行くぜ、シモン」
「アメリカ?」
「ああ! アメリカに行って、アメリカンドリームを掴み取ってきてやるぜ!」
「はは、アニキ英語苦手なくせに」
「英語は気合でなんとかなる! シモン、俺がアメリカに行く時は、一緒に来てくれるか?」
「…うん、行けたら良いな」
「…そっか」
シモンはその時、自分の家のことを抜きにして、本当にカミナとアメリカに行けたら良いと思っていた。シモンはアニキと一緒にいられたら何でもできる気がしていたし、アニキとの渡米はとかく魅力的だった。でもそれは所詮夢物語で、もしアニキがアメリカに行けることになっても、自分は一緒にアメリカに行けないだろう。シモンには家を捨てることなどできないからだ。カミナはアメリカに行く資金積みに苦労していて、このままずっと夢を抱いたまま人力車を曳いていてほしい、それがシモンの、誰にも言えない心の奥底にしまいこんだ願いだった。
そんなある日だった。学校の授業が終わったシモンを、カミナは珍しく校門前で待っていた。仕事中ではないのか、カミナはタンクトップにジーンズという出で立ちだ。カミナの刺青を怖がって、なにも知らない生徒たちは彼を避けるようにして下校していく。カミナはそんなこといちいち気にしていないようで、シモンが校舎から出てくるのをいまかいまかと待っていた。やがてその姿が見えると、喜色満面の笑みで手を振る。
「おーい、シモン!」
生徒たちから遠巻きに眺められているカミナは嫌でも目を惹く。シモンもすぐにその存在に気づいて、慌ててカミナのもとに駆け寄った。
「どうしたのアニキ。珍しいね」
「おう! ちょっと話があるから、付き合ってくれ」
「うん」
二人は並んで歩きだした。季節は初夏で、夕方といってもまだ暑さを引きずっている。内地だから余計に熱は籠っているように感じられた。西大路通りを通って、二人は金閣寺に向かう。カミナは金閣寺が好きで、とっておきの話をする時はいつも金閣寺を見ながら話すのだった。拝観料の400円を払って、二人連れ立って金閣寺の前まで歩く。観光客らしき外国人がちらほらいた。金色に輝く仏閣を前にして、カミナが興奮冷めやらぬ様子で話しだした。
「当たったんだよ!」
「何が?」
「宝くじだよ! 100万円! これでアメリカに行けるぜ!」
シモンは目を丸くした。驚きは一瞬のことで、アニキの夢が、アニキとの別離が、俄かに現実味を帯びてきてシモンは青ざめた。アニキがアメリカに行ってしまう。それも自分を置いて。そんなこと耐えられるはずがなかった。シモンはアニキに、ずっと一緒にいてほしいのだ。シモンは、アニキにアメリカに行って欲しくなくて、必死になって言葉を紡いだ。
「100万って無茶だよ、アニキ!」
「無茶?」
「渡米費に合わせてあっちで当面生活するお金が、アニキの貯金と合わせても少なすぎるよ!」
アパートとか借りるんだろ? 言葉を重ねて続けると、カミナは今気づきましたという顔をする。しかし驚きの表情はあっという間になくなり、かわりに根拠のない自信たっぷりの、いつものカミナの表情になった。
「あっちに行けちまえさえすれば、あとは気合でなんとかなる!」
「無謀だよ!」
いつものことだったが、アニキの分からず屋加減にシモンは悲鳴をあげた。ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人を、観光客らが怪訝そうに見つめている。しかし二人は自分たちの世界に入ってしまっていて、彼らの眼差しにも気が付かない。
「無茶で無謀と笑われようと、意地が支えの漢道! だ、シモン!」
大見得を切ったカミナに、観光客は思わず拍手をした。拍手どころではないのがシモンだ。
アニキがアメリカに行ってしまう。では自分は? アニキならシモンも一緒についてこいと言うだろう。実際に彼はかつてシモンを誘ってくれた。あの時は行けたら良いと答えたけれど、本当はそんなこと無理なのは分かっていた。だってシモンは実家で経営している旅館の跡取り息子なのだから。今まで育ててくれた両親に向かって、家を捨ててアメリカに行くなどという暴挙を犯すことはできない。シモンも、家の問題さえなければアニキについて行きたいのはやまやまなのだ。アニキとならアメリカの地でも何だって出来る気がした。お金は心もとない、英語も満足に扱えない、見知らぬ異国の地で全くのノープランであったが、アニキと一緒ならどうにかなると思えるのだ。しかし所詮夢物語は夢物語だ。だってシモンは、アニキと一緒にアメリカには行けない。アニキはアメリカで成功するかもしれないし、最悪野垂れ死ぬかもしれない。しかしその隣にシモンがいないことは、どうあっても事実でしかない。ぞっとした。今までずっと一緒だった。これからもずっと一緒にいたいと思っていた。なのにアニキは自分の元から離れて行って、シモンのいないところで生きていくのだ。そんなこと認められるはずがなかった。認めたくない。でもアニキは、例えシモンと一緒にアメリカに行けなくても、シモンが必死にアメリカ行きを止めても、一人でアメリカに行ってしまうのだろう。アニキはそういう男だった。
「絶対なんだね」
「おお! 俺は絶対にアメリカに行くぞ、シモン」
お前も来ないかと次に続く言葉を聞きたくなくて、シモンはカミナの胸をどんと押した。
「俺は行けないよ、アニキ…! だって俺には継がなくちゃいけない家がある!」
血反吐を吐くように苦しかった。でもこう言うしかなかった。アニキは俺の肩に腕を回した。抱擁は暖かく、優しかった。シモンは自分の頬が濡れているのを感じた。
「ああ。そうだな。お前は…。わかってる。俺は一人で行くぜ」
ひくっ。嗚咽で肩が揺れた。家のことなんか関係ない。お前は俺と一緒に来い! とアニキがそう言ってくれれば良かった。そう言わないアニキの胸中を思って、シモンは更に泣けてくるのだった。
「あばよ、ダチ公」
そう言ってシモンから離れていくカミナの後姿を、シモンは泣きながら見送った。本当にカミナと離れたくなんかない。しかし二人の道は決定的に分かたれてしまった。シモンは悲しかった。カミナの一生に、もうシモンが関わることがないのだと思うと、シモンとは関係のない全く知らない誰かがこれからカミナの隣にいるのだと思うと、悔しくて堪らなかった。どうしてこうなってしまったのだろう。どうして二人は、兄弟の盃まで交わした二人が、離れ離れにならなくてはいけないのだろう。シモンは理不尽さを感じた。それは全くの見当違いも甚だしかったが、シモンはそれから数十分、苛立ちのままに金閣寺を睨みつけていた。
その知らせが届いたのは、カミナとの別離から三日も経っていなかったと思う。なにより突然だったのだ。
カミナが死んだ。交通事故だった。































その知らせを聞いて、頭が真っ白になって、意味が分からなかった。アニキが、死ぬ? そんなことがあって良いのか。アニキには夢があった。シモンは心の奥底では応援しきれなかった夢だったが、アニキには生きる理由があったのだ。それが何故、二十歳の身空で死ななければならない? 自分が死ぬのならまだ分かる。俺は弱く小さい存在だ。いくらアニキに自分を信じろと言われても信じきれなかった。俺が信じられるのはアニキだけだった。本当は怖かったのだ。アニキと一緒とは言え、アメリカに行くことが。確かにアニキといれば何でもできる気がした。それでも怖かった。心もとない金銭、恐ろしいアメリカの治安。アニキをみすみす野垂れ死にさせるんじゃないかと思うと、怖くて堪らなかった。だから逃げ出したのだ、アニキから。アニキの夢から。結局自分は、アニキが信じる俺も、俺が信じるアニキも、信じられなくなってしまったというわけだ。そんな自分が恥ずかしくて、アニキには家がどうとか両親がどうとか言ってしまったが、自分はアニキの夢が潰えるところを見たくなかったのだ。アニキが自分のいないところで成功するところも見たくなかった。こんなどうしようもない俺を、アニキは信じていてくれたのに。きっと最期まで。どうしてアニキは死んでしまったんだろう。これならアニキが遠い異国の地に行って、離れ離れになってしまった方がまだましだった。それでもアニキが存在することには変わりないのだから。自分の狭量で浅ましい願いを抱き続けても、アニキが生きていてまたいつかどこかで会えるかもしれない、そんなささやかな願いも一緒に持てるのだから、まだ良かった。アニキが死んでしまったら、もう何もないのだ。そこで終わりなのだ。自分のこれからの一生は、ずっとアニキなしで歩まなくてはいけない。それはなによりも残酷なことだった。だってシモンは、カミナのことが好きだったのだから。
シモンは涙した。今までカミナに寄せる思慕は、崇拝の念を出ないものだとずっと思っていた。しかし違うのだ。自分はずっと、アニキに恋をしていた。ずっとアニキのことが好きだった。だからアニキと離れたくなかった。自分が傍にいないのなら、例えアニキがアメリカで大成したとしても素直に喜ぶことができないのも、自分の代わりに誰かがアニキの隣にいるのかもしれないと想像して身を焦がしたのも、シモンがカミナを好きだからだった。こんなのってない。シモンは思った。好きだと気付いたのが、よりによってアニキの死がきっかけだったなんて。
悲しみの次に湧いてきた感情は怒りだった。何故アニキは死ななくては行けなかったのか。何故アニキの死んだ後にアニキへの恋心を自覚しなくてはいけないのか。耐えようのない怒りは、シモンの深すぎる悲しみを慰めた。怒り狂っている間は、もうアニキはいないのだという辛さから目を背けることができる。シモンは怒っていた。この怒りをどこにぶつけようかとシモンは真っ白な頭で考えた。思い浮かぶのは、金色に輝く寺ばかりだ。アニキと懇意になった場所、アニキが夢を語った場所、アニキとの別離になった場所。思い出がフラッシュバックすると、その思い出の濃密さから、シモンはその場所が憎くて憎くて堪らなくなった。何故あんなものがある。あそこさえなければ、シモンはアニキと打ち解けることはなかっただろうし、アニキはアメリカに行く夢をシモンに語らなかっただろう、二人は別れるということもなく、シモンがアニキへの恋慕に気付くこともなかった。アニキだって、死ななかったかもしれない。この時のシモンは正気の沙汰ではなかった。いや、アニキが死んだと知ってから、もうシモンには狂気に取りつかれていたのかもしれない。
金閣寺を焼かねばならぬ。金閣寺は燃えねばならぬ。シモンは思った。
金閣寺はアニキとの思い出の場所だった。アニキと仲良くなった場所もここだった。アニキの無茶ぶりにまだうまくついていけなかったシモンが、この人と一緒にいたら面白いことができると確信したのもこの場所だ。逆に、金閣寺さえなければシモンがここまでカミナと打ち解けることもなかったのかもしれない。罪深い場所だ。また、ここはアニキがその夢を初めてシモンに打ち明けた場所でもあった。アニキの、もう叶わない夢。アニキの潰えた夢。アニキが死んでその夢は断たれたのに、アニキが好きだった金閣寺がのうのうと建っているのはおかしいと思った。ここはアニキが好きだった場所だ。そしてそのアニキはもういないのに、なんで金閣寺だけは存在しているのだ。アニキと道が分かれてしまったのもここ金閣寺でだった。別れは血を吐くみたいに辛いことだった。シモンとカミナが離れ離れになる! それは悲劇でしかなく、その悲劇を演出したのも金閣寺だ。シモンは自分でももう何を考えてるのかよく分からなくなってきたが、それでも金閣寺が憎いということはよく分かった。そして金閣寺をせめてものはなむけにしようと思った。アニキへの。一人ぼっちで死んだアニキのために、アニキの好きだった金閣寺を送ろう。金閣寺は燃えて、その金色の灰を降らせれば良い。金閣寺が焼失すればみんなが悲しむだろうし、そうしたら自分の悲しみも少しは癒えるだろう。身勝手なことかもしれなかったがそれでも構わなかった。アニキを失った深い深い悲しみが和らぐのなら、憎き金閣寺一つ燃やしてしまうことは、訳ないことだと思えた。逆に言えば、金閣寺さえ燃やしてしまえば、自分はその辛さから少しでも救われることができるのだ。もうアニキはいないのだという、この辛苦がほんの僅かでもましになるのなら、なんでもできるような気がした。シモンはもう誰も、自分すらも信じられなくなってしまったが、金閣寺を燃やす自分はリアルに想像できたし、そんな自分の未来の姿をいとも簡単に信じることができた。自分ならやれる。根拠も何もない自信が、シモンに不可思議な力をみなぎらせた。その力を以てすれば、金閣寺を燃やすことは実に容易だった。シモンは高らかに叫ぶ。
金閣寺を焼かねばならぬ!







黄金色に燃えよ






2013/1/27
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