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極楽浄土に兵長なし





 リヴァイ・アッカーマン。
 それが俺の名前だ。
 調査兵団、兵士長。
 人類最強。
 俺を表す言葉だ。
 俺には力があった。過酷な戦場において、人よりもすこしだけ生き残る力が。人類の天敵である巨人を、他よりも一体でも多く殺せる力が。
 人類最強。調査兵団の兵士長。リヴァイ・アッカーマン。
 人は俺をそう呼ぶけれど、俺はその呼び名を正確に認識しているけれど、いったいこれらの呼び名になんの意味があっただろう。
 仰々しい名前が、まったくの無意味であったのだと思い知った瞬間、俺は死んだ。
 巨人に囲まれて、ガスも刃も尽き、その手に握り潰されて、その歯で噛み砕かれ、最後には胃の腑へ落ちていった。
 もし死体が残ったのなら、それは巨人から吐き出され、同じように食べられた人間と一緒に、胃液で溶けかかって渾然一体となった惨めな姿で路上にでもころがっているはずだ。
 御大層な肩書も形無し。とんだ死に恥を晒したものだろう。
 だが死者にどんな感情が残るというのだ。羞恥心すら、死んだら抱くはずの胸もない。そのはずだった。
 リヴァイは目を開けた。
 五体満足の体で立っている。
 俺はいったいどうなってしまったのか。
 兵団服には汚れひとつなく、自由の翼を掲げたマントを羽織っている。常時の姿である。
 そして彼の目の前には、エレン・イェーガーがこちらに背を向けて突っ立っていた。
「エレン」
 その肩を掴み振り向かせようとした手が空を切る。
「ア?」
 リヴァイは茫然とおのが手を見つめた。たとえ腐っても調査兵団兵士長、アッカーマンのリヴァイである。酔っ払いじゃあるまいし、狙いが外れるなんてことはありえない。それもその通りで、狙いが外れたわけでは断じてなかった。
 本来ならその硬い骨に薄い筋肉と柔らかい皮膚を乗せた華奢な肩は、ただしくリヴァイの手に収まるはずだった。
 その手が透けてエレンの体を通過してしまうなんて、誰が予測できようか。
 しかし何度試してみても、リヴァイはエレンに触れることは叶わず、空しく手は上下に振れるのみだ。
 先ほどまでは五体満足だと思っていた体が、実はそうでもないらしい。
 リヴァイは、巨人の手によって自らの内臓が破裂し、骨が砕け、血が噴き出る音を確かに聞いた。その硬質な、岩みたいにでかい歯がおのが体をふたつに分ける痛みを感じた。薄れいく意識のなかで、暗い食道を通り落ちていくのを、リヴァイは見たのだ。
 ならここに立っている俺は誰だ。
「兵長」
 ちっとも背後に立つ男の存在に気付かないエレンが、その名を小さく呼ぶ。
 それはきっと、俺のことだったはずだ。
 しかしエレンはこちらにちらとも目を向けないで、ジッとなにもない道端を見つめていた。微かな吐息のようなエレンの呼び声が、しだいに熱を持っていく。
「兵長、どうして……!」
 ――死んじまったんですか。
 そうか。その激情の声を聞いて、リヴァイは静かに理解した。
 そうか、ここが。恐らくここがリヴァイが死に恥を晒した路上だったのだろう。巨人に吐瀉された死体。俺の死体がここにあって、いまはどこかに運ばれて、路地もきれいに消毒されて、なんの変哲もない道に戻っている。ここに。それをエレンは知っているのだ。実際見たのか、人から伝え聞いたのかまでは定かじゃないが。
「すまんな」
 その背中にリヴァイは謝した。先ほど名を呼んだときの反応から、エレンがリヴァイの声を聞くことはないと分かっているのに。
 死人に口なし。死者の声は生者には届かないのだ。でもならなんで。意識だけはここにあるのか。
 背を向けて顔も見えないエレンが、リヴァイの疑問に答えてくれるわけもない。
 だがエレンは、こぶしをギュッと握りしめて、リヴァイの触れられなかった肩をぶるぶると震わせて、血反吐でも吐くように叫んだ。
「まだ巨人を、殺しきっていないじゃねぇか!」
 あぁ、そうか。こいつは。
 俺が死んだ感傷よりも、巨人を滅ぼす怒りに傾くのか。
 そうだな。そんなお前だから、俺は――



 長く急な階段を下りると、地下室がある。薄暗く、膨大な本や紙がうず高く積まれた部屋は、狭いわけでもないのに人に圧迫感を覚えさせる。
 その部屋の中心で、おびただしい血にまみれたエレンが虫の息で倒れている。
 嗅覚なんぞは死者のリヴァイにとって失ったはずのものだが、生きていた頃の記憶が錯覚させるのだろうか、部屋のかび臭さと鉄臭い血腥さにリヴァイは眉を顰めた。
 エレンのまわりには肉の塊と化した死体が三つ。か細い呼吸を繰り返すエレンももうすぐそれらと同じように動かなくなるだろう。リヴァイはエレンを殺そうと凶刃を振るった内乱者三名を呪い殺し、いまはエレンが死ぬのを待っている。
 ずっと考えていた。なぜ死した自分が、意識だけでもいまだこの世にとどまり続けるのか。死んだリヴァイには巨人根絶も世界の謎も興味の及ぶ範囲ではなく、ひたすらエレンの背中に付き添いながら、自分のことだけを考え続けた。生きていた頃とは訳が違う。死んだリヴァイは、もうこの世の責任を負う必要がないのだ。驚くべきほど簡単に、水が低いところを流れるように、リヴァイは他者を顧みずに己のいまの問題にだけ思考を巡らせた。
 やがて、リヴァイは生きていた時分には見えなかったものが見えるようになったことに気付く。エレンの背後から世界を見れば、リヴァイの死後も変わらずに人はあっけなく死んでいく。その場で捨て置かれた死体は、ジッと目を凝らすとその体から影のようなものが浮かび出てくる。あれはきっとリヴァイと同じものだと直感した。しかしリヴァイと違うのは、その影は天へ彼方へ上っていくと、光と同化して消えてしまうことだ。なるほど、これが完全なる死ということなのだろう。それならリヴァイは、肉体が朽ちても意識だけが地上に縛り付けられたままのリヴァイは、不完全な死なのだ。
 なぜだろう。いったいなにが、この身を重く引き止めるのか。
 リヴァイは目を向けた。死んでから、片時も離れずそばにいる少年。生きていた当時でさえも、なるべく目を離さぬように心を砕いていた。
 エレン・イェーガー。
 リヴァイが死者として目覚めたときにも、エレンはリヴァイの前にいた。
 それが答えなのではないか? お前が俺を完全に死なせてくれるのではないかと、リヴァイの胸中に淡い期待を芽生えさせた。その可能性に思い至れば、もうそうとしか思えなかった。
 巨人一掃の作戦で、なんとか地下室にたどり着いたエレン。しかし悲願を達成する前に、内乱者に致命傷を負わせられる。そのときリヴァイは、伸ばした手は触れず、呼んだ声は届かない死者の、その憎しみだけが唯一現世に影響を与えることができるのを知った。知ったときには反乱者を呪い殺していた。
 エレン。エレン。もうすぐお前は死ぬだろう。苛烈な生き方をしたくせに、あっけない終わりだったな。悲願も、夢も、叶えることなく死んでいく。お前もその他大勢と同じだ。夢半ばで、もっと生きたかったという切望も、復讐を遂げたかったという未練も、すべて抱えて死んでいく。だがお前は死してなお俺の希望だ。お前が、俺を死なせてくれるだろう。俺が不完全に死んだままこの世に留まり続けたのは、きっと俺はお前と共に死にたかったからなんだ。さあ、俺と一緒に逝く時間だ。
 やがて弱弱しかった呼吸も止まり、エレンの肉体の活動が制止した。美しい死に顔だった。透徹した薄い瞼に覆われて、もうあの激しく輝くまなこは見られないのだと思うと、少し残念だ。血の気の失せた唇に、少し前まで温かな呼気が触れていた。いまは湿った口元も、やがては乾いて干からびるだろう。
 そのつま先から這い出るように、くせ毛の前髪から露わになった額からにじみ出るように、傷つき倒れた身体から匂い立つように、影はぞろりぞろりと現れた。
 リヴァイははやる気持ちでその影の一端を、今度こそ捕まえようと手を伸ばす。
「あァ?」
 しかし、思うように手が動かせない。慌てて視線を自らの手に移すと、そこには黒い頑丈な鎖が幾重にもなってリヴァイの腕に巻き付いていた。
「なんだこれは……」
 ジャラジャラとした鎖を撫でる。触れられる。これがリヴァイの四肢に巻き付き、動きを制限していたのだ。
 そこで、ハッとしてリヴァイはエレンを見た。もうその影は頭上へ高く飛び上がっている。
「待て!」
 手を上げようとしても、一層きつく鎖は食い込む。その僅かな重しのせいで、リヴァイはエレンを掴むことができなかった。エレンの影は高く、高く上がり、やがてリヴァイの目の前で光の粒となって消えた。
「嘘だろ……」
 俺と一緒に死ぬんじゃなかったのか。お前が俺を連れて行ってくれるものだとばかり思っていた。俺がまだ完全に死ねないのは、お前がいないからだと。お前さえいれば完全に死を迎えられるのだと。お前は俺の希望だった。死んでもまだこの世の地獄に留まったままの俺にとって、死は甘美だった。それは生者のときの死生観とまったく異なる。死んだらそれですべて終わりだと思っていた俺が、俺だけが、死んでもまだこの世にいる。完全な消滅こそ救いなのだと考え直してなにが悪い。そして俺を救ってくれるのはお前なんだと。
 エレン、なぜ俺を置いて逝ったのか。
 俺はなんのためにこの地獄に縛り付けられている。
 なぜ、どうして。
 やがてリヴァイの慟哭は憎悪に変わり、憎悪はシガンシナ一帯を押し潰した。地下室の上で、いったい何人の調査兵団が巨人と戦っていたのか、リヴァイにはもはやどうでもいい。地下室の謎を解く。そのためにかつての仲間の血がいくら流れて、やっとのことでエレンに希望を繋いだのか、そんなのはリヴァイには関係ない。巨人も人も、シガンシナとともに滅びいくなかで、リヴァイはその鎖が群がるようにおのが四肢に巻き付いていくのを見ていた。この鎖はきっと呪いだったのだろう。リヴァイが人を憎しみ呪った分だけ返ってくる。そうしていっそう天上は遠ざかる。エレンにはもう手が届かないのだから、どんなに量を増やしても同じだというのに。天国の門は閉ざされた。現世という地獄に、リヴァイは未来永劫縛られることになったのだ。
 リヴァイは目を閉じた。





「エレン、あんまり遠いところに行っちゃだめよ」
 おびただしいほどの蓮が、大きな池に群生している。その池を取り囲むように、広大な敷地を有する公園はあった。幼いエレンの身の丈なら雨を凌いでくれるだろう広く伸びた葉。葉の隙間を縫うようにして、薄いピンクの花弁は開き、中にある黄色いめしべが見えた。
 侵入防止の柵越しに水面の泥と蓮の茎の境目を眺めていたエレンは、母親の小言に生返事を返した。母が父の使いを済ますちょっとした間。それが今のエレンに与えられた自由時間だった。だが蓮の池を中心に置き、周りを柵で囲み、ちょっとしたベンチと、名物の蓮についての説明を書き連ねた小さな看板が等間隔にあるだけの公園は、とりわけエレンの関心を惹くようなものはなにもない。日に温められたベンチに腰掛け、母が買い与えた缶ジュースをちびちびと飲みながら、ただぼーっと池の蓮を見ていた。ときおり濁った水面にぽつぽつとあぶくが上がるのは、こんな泥水の中にも生物が生息しているからかもしれない。
「ん?」
 面白みもなく、緑色の茎ばかりの連なりを何と無しに見やっていた時だった。ふいに、その茎と茎の境目に、黒い足を見た気がした。池の中である。なにかの見間違いだろうと思うも、咄嗟にエレンは目を凝らした。よくよく見ても、やはり五、六メートル先の蓮の間に、ぼんやりと佇む足が見える。その足から繋がるものを確かめるように、エレンは視線を徐々に上げていった。胸元まではおぼろげながらも視認できるのに、大きな蓮の葉に阻まれて、その顔までは分からない。しかしそこに人がいると分かって、エレンはその誰かに声をかけた。
「おい、誰かいるのか?」
 人がいると分かっているのに、「誰かいるのか」なんて聞くのは、おかしな話である。しかしエレンには、そう尋ねざるをえなかった。その池がどんなに浅かろうとも、池は池。池の上に平然と立っていられる人間などいない。どんなに幼くともエレンにだって分かることだ。そして、だからこそもしかしたらという疑念は、恐れが先走った。
 ゆらりと、蓮の間から影が揺れる。何メートルも離れているのに、その者の指がぬっと突き出され、目の前にある邪魔な葉をめくるさまがつぶさに見えた。目がぎらりと光っている。
「ほう……、お前には俺が見えるのか」
 その低くおどろおどろしい声を聞いて、エレンは全身鳥肌が立った。張りつけられたようにベンチから動けないでいるエレンを見て、“男”は笑った。
「ヒッ!」
 目が合って、エレンを見て笑ったのだと分かった瞬間、エレンを貫いた悪寒。夏の日差しが照りつけるように熱いのに、エレンはこめかみから顎にかけて、冷や汗が伝うのを感じた。悲鳴はあっけなく零れ落ち、男の反応を見る前にエレンはベンチから体を引きはがすように立ち上がる。恐怖に支配された頭でなにも考えることができないまま、ただ足をがむしゃらに動かした。母にはあまり遠くに行くなと言われたはずだった。しかしいまのエレンには、母親の忠告など思い起こせる余裕もない。
「あっ、あっ……!」
 確かに言った「俺が見えるのか」と。それは、見えないことが前提のような話しぶりだった。アレは、普通なら見えちゃいけないものなのだ。
「うぐっ」
 先ほどまでのんきに飲んでいたジュースの炭酸が、急な動きに胃から食道へせり上がってくる。息が荒いのは全力で走っているせいか、怯えのせいか。
「おい、おい……、待て……、なにも逃げることはないだろうが……」
 後ろから男の声が追ってくる。ずるずると音がする。なにかを引きずっているのだろうか。今、エレンの後ろからどれほどの距離にいるのか。鈍く重い音はなんなのか。それを振り返って確かめたいと思った。そして振り向いたらおしまいだという根拠なく確信した。
「あっ! かあさん……!」
 そこへ、希望の光を背負うようにして、用事を終えた母がエレンを迎えにきた。エレンは安堵で泣きそうになりながら、その腕の中へ飛び込む。
「こら、エレン! いきなりびっくりするじゃないの!」
「いいから! 帰ろ! はやく帰ろう母さん!」
 顔が上げられないまま母の腕をぐいぐいと引っ張る。
「もう、どうしたんだろうねぇ、この子は。帰りにあんみつでも食べていこうかと思ってたのに」
 困惑する母の声とは別に、じゃらっ、じゃら……となにかを引きずるような音がする。エレンは腕を掴む力を強めた。
「いいからっ! はやく家に帰ろう! お願い母さん……」
 涙をこらえる息子の懇願に、事情は理解できずとも頷くしかない。カルラはエレンの手を握り、足早に駅へと向かった。カルラの耳には、アスファルトの道を擦りあげるような重たい音など聞こえはしなかった。
「エレン……、エレン……」
 おいおいと呼んでいた男の声が、いつのまにかその少年の名前を紡いでいたことなど、誰にも聞こえはしなかったのだ。男の遅々とした歩みはついぞ止まらなかった。





「おい。やめろよ」
 クラスメートの背に伸びた手を見て、エレンは咄嗟に声をあげていた。怪訝な顔をして振り返る同級生の顔。しまったと思うが、出してしまった言葉は引っ込められない。
「なにがやめろだって?」
 ツンケンした声の主であるジャンは、エレンを睨み付けるようにしてそう言った。さきほどの制止の言葉を、自分にかけられたものだと勘違いしたのだ。さもありなん。ジャンから見ればそう考えるのも当然だ。放課後の学校の階段、その踊り場にいるのは、いまはエレンとジャンのふたりのみなのだから。良くない組み合わせだった。ふだんからクラスで浮いているエレンと、これみよがしにそんなエレンを目の敵にするジャンとは折り合いが悪い。それをいま、こんなタイミングでジャンと向かい合わなければならないとは。うんざりする。いったい誰のせいだ。
「お前に言ったんじゃねぇよ」
 夕焼けに沈む階段。夏休みが明け、しかしまだ秋は遠いというのに、ふと気づくと至る所で憂いのような影が落ちている。その暗がりから、ずるずると這って出るのは、いつかの夏に蓮の池からエレンを追いかけてきた幽霊だった。その男はエレンにしか見えない。男の苦渋に満ちた声はエレンにしか聞こえない。そして男はいつもエレンの背を追ってくるのだ。体中に巻き付かれた黒い鎖を、ずるずるじゃらじゃらと引きずりながら。
「じゃあお前は誰に言ったんだよ」
 ジャンの疑問はもっともだったが、それに応えられる言葉をエレンはいまだに持っていない。ジャンの背後から、男が鎖を重たく持ち上げている。それは腕だった。男の腕は明らかな意図を持って、ジャンの背中に迫っていた。ほんのわずかな距離でその手が触れずにいるのは、男は正しくエレンの制止の声を聞いたからだろう。だがそれで、エレンのひとことで本当に男が黙ってその手を下ろすのかは、エレンには自信がない。だからこんなところで悠長に、ジャンとお喋りしている時間もないはずなのだ。
「またエレンお得意の構ってチャンか」
 見え見えの挑発を含んだ笑いが、ジャンの声に張り付く。ざわざわとエレンの毛が逆立つ。安い挑発だと分かっていても、クラスの中でジャンにからかわれるのがいちばんエレンには耐え難かった。
 ジャンがなぜそのような嘲りを放つのか、エレンもよくよく知っている。それこそ、ジャンには、そして誰にも見えない目の前の男のせいであり、見えるはずのないものが見え、聞こえるはずのない声が聞こえるエレンは、次第にクラスメートから敬遠されることになった。
 ――気味が悪い。
 幼い子どもたちが、そしてその親たちが口々にエレンを指してそう言った。
 気味が悪い? あぁそうだな。オレも心底そう思うよ。誰が好き好んで男の幽霊に憑りつかれていなけりゃいけないんだ。エレンの腹のうちに理不尽な怒りが溜まっていく。そうしてエレンの憤りが積もるほど、周りの人間もエレンからだんだんと離れていった。
「お前になにが分かるっていうんだ」
 薄気味悪い鎖のおばけに終始まとわりつかれている、その苦しみが。いまも、ジャンに伸びた魔の手から救ったのは自分なのに。そのジャンから、構ってチャンなどと愚弄される筋合いはないはずなんだ。
「オレのなにが」
 蓮の池で、幽霊と会って、それから今日まで憑かれている。あの日、家に急いで帰って来たのに、男の影は再びエレンの前に現れた。恐怖でエレンは泣き、それから何日も何度も、ソレが見えない両親に男の幽霊がいると訴えた。虚空を指差し、泣きじゃくる我が子に、さぞや両親は途方に暮れたことだろう。自分だけが見えるその恐ろしさを、誰かに理解してほしくて、エレンは必死に言葉を重ねた。その結果が嘘八百で周囲の気を引きたいばかりの構ってチャン・エレンの誕生である。この苦しみを他人が分かることなどないんだ。それを悟るのがエレンは辛かった。いまも。
 締め付けられた胸の中から、熱い塊がエレンの咽喉を震わせた。いままで抱えてきたその鬱屈をジャンに一方的に言い放つのは、八つ当たり以外のなにものでもない。
「……そうだ。こいつは……、いやこいつも、誰も、お前のことなんざわかりゃしねぇだろうさ」
 地の底を這うような声が、ねっとりとエレンの耳朶を打つ。エレン、と。名前を呼ばれる。
「俺以外の誰も、お前をお前として、エレンとして見てくれる奴なんざいねぇよ。なァ。だから、こいつも、いらないだろ?」
 悪魔の囁きのように、エレンに語りかける。ひとりぼっちのエレン。ずっとそばにいたのは確かにこの男だった。いや、間違えてはいけない。誰のせいでエレンは孤立した?
「そりゃあお前のことなんて、ちっとも分かんねぇよ! だいたいお前はな! 分かってほしいならそう言やあいいじゃねえか……!」
 それなら俺だってな……。そう言い淀むジャンの頬に赤みが差しているのは、夕暮れの時間だからだろうか。
「ジャン!」
 だがそれから先の言葉がジャンの口から出ることはなかった。伸ばした手が空を切る。ジャンの体は空へ投げ出されていた。驚き見開かれたジャンの目。目が合う。
「あっ……」
 かぼそい声は、ジャンの悲鳴だったのか、エレンの制止の声だったのか。ジャンの胸板を押した手のひらは、うぞうぞと鎖を増やして、いっそう濃い影を纏わりつかせる。
「いらないだろ? エレン」
 固い床に、重たい肉のぶつかる音がした。

 踊り場でジャンとエレンが対峙しているのを見た生徒がいた。状況は驚くほどエレンを不利にし、大けがを負ったにもかかわらずエレンではないと主張するジャン本人の訴えも届かず、エレンは学校から謹慎処分を受けた。
 母は泣いていた。父は厳しい顔をしたまま黙っていた。
 そうしてひとり部屋で籠っているのに、目の前には男がいる。
「なんで」
 ぼんやりと呟くと、鎖の間から男はにぃっと笑った。
「エレン、俺はな、お前を呪い殺そうと思っている」
 蓮の池からついてきたおばけは悪霊だったのだ。そうしてエレンに憑りついて、自分を呪い殺すのだという。なんで。重ねる問いが出てこない。エレンは唇を震わせて、そのまま膝に額を押し付けた。



 これ以上男とふたりきりだという状況に耐えきれなくて、エレンはラジオをつけた。微かなノイズ音のあとに、涼やかな声が流れてくる。
「今日もこの時間がやってきました。アルミン・アルレルトの『この世』ラジオです。今日もさっそく、みなさんから届いたお便りを紹介します。アルミンさんこんにちは。はいこんにちは。私はいま進路に悩んでいます。自分のやりたいことと、親が私の『将来のために』と言うことがまったく違っていて、親の言ってることが正しいとは分かっているのですが、私は自分の夢も諦められません。どうすればよいでしょうか。ラジオネーム……さんから。……さん、いまとても苦しんでいるんだね。思い出してほしいのは、君がどうしてその夢を持ったのかということ。その夢を叶えようとするには、たくさんの困難に直面するはずだよね。でもそれなら、君はその夢を叶えるまでが地獄の道のりだと知っていたのに、どうしてその道を歩もうと思ったの?」
 どうして?
 エレンの意識はノイズの音にかき消された。ナイトテーブルに置かれたラジオが壊れている。
「クソみたいに不愉快なラジオだな」
 男が言った。
 悪霊に憑りつかれるというのは、まったく理不尽なことである。オレがいったい何をしたというんだ。このまま男に呪い殺されるのを待つばかりでいいのか。それならいったいオレはなんのために生まれてきたのか。ただ悪霊に命を弄ばれるためではないはずだ。母を泣かせ、父を苦しませ、どこかで芽吹くかもしれなかった友情も潰えた。それで本当にいいのか?
 自室のベッドで膝を抱えながら、エレンはふつふつと身の内に怒りが湧いてくるのを感じていた。そうやって悲嘆に暮れて自分を憐れんで、それで本当に救われるのか? 本当に嫌なら死ぬ気で抗えばいい。何もしないまま相手の良いようにされるだけなんて、死んでもごめんだ。
 エレンは立ちあがった。勉強机の上に無造作に放り投げられた学生鞄。教科書や筆記用具とともに底に眠っているスマートフォンをエレンは取り出した。電源を入れる。沈黙。振動。アプリの通知がちらほらと。エレンは無視してインターネットを開く。ネットの海へ、自らの求める情報を探して飛び込んだ。
 検索バーに単語を打ち込んでいく。
 悪霊 除霊
「そうだな、まずは塩だな」
「……エレン?」
 怪訝そうな男に向けて、エレンはキッとまなじりを上げて言い放った。
「誰があんたなんかに呪い殺されるか! お前なんかすぐに祓ってやるからな!」
 それは正真正銘の宣戦布告だった。エレンは流れるような手つきで食塩を通販サイトのカートに入れ、購入画面に進む前に思いとどまって食塩と盛り塩の違いを調べる。
 そんなエレンに、男は器用に片眉を上げて笑った。
「エレン。今度こそ俺と一緒に死んでくれよ」



 人を呪った分だけ呪いは我が身に返ってくる。シガンシナを呪い滅ぼしたリヴァイの不徳は、重い重い鎖でリヴァイ自身をこの世の地獄に縛り付けた。それから現世の時が流れるままに、リヴァイは悪霊としていまもなお天国からいちばん遠いところにいる。飽くほどの時間の中で、膨大な人間の生死をただ見つめてきた。人は生まれ、生きて、死ぬ。そして光となって天へ昇る。リヴァイのように死んだ後もこの地に留まる者も少なくなかったが、有象無象は寄り集まって大きな悪意になっていった。リヴァイがこうして、いつまでも個の意志を持っている方が、珍しいことなのかもしれない。悪意は時に、恐ろしい厄災の元となり、世界中を混沌せしめ人知れず消えていく。あの塊が消えたなと思う時には、また違うところで悪意が育っていた……そんなことの繰り返しだった。かつてリヴァイが命を賭して滅ぼすと誓った、仇敵ももしかしたらそんな悪意からできたものだったのかもしれない。いまではもう確かめる術も、ましてや興味もないが。無限の時間に身を浸していると、リヴァイも栓のないことのひとつやふたつ考え付くものなのだ。
 すべてを諦め、ただ在るだけだったリヴァイに、ふと執着の炎が再び灯ったのはいつのことだったろう。なにせ「何年前」というような時間の概念すら忘却のかなたであったリヴァイには、今さら明確なことは言えないが、それでもまだ人類が空を飛ぶ術を持っていなかった頃だと思う。
 リヴァイが鬱蒼と茂る木立の下に佇んでいると、あるひとりの男が通りかかった。それはかつて共に自由の翼を背負った男にそっくりだった。名前を呼ぼうかと逡巡したが、すぐに無駄なことだと悟った。男はリヴァイの目の前を通ったにもかかわらず、リヴァイを一瞥することなく立ち去ってしまったからだ。見えていない。もし見えていたとしても、いったいどうやってあの男がリヴァイの知る男なのだと確かめられただろう。
 しかしこの一瞬の出会いは、リヴァイの胸中に「もしかしたら」という思いを抱かせるには十分であった。
 もしかしたら、あの子も。
 時の流れの中で、あの子の魂の輝きだけが失われずリヴァイと共にあった。だがその名前を、リヴァイはもう思い出すことができない。忘れてしまった。あんなに何度も呼びかけたのに。あんなに大切に呼んでいたのに。
 もうあの子の名前を思い出せなくてもいい。
 あの子と同じ姿をした人間が、またこの世に存在してくれるなら。
 それは、リヴァイにとって再びの希望になりえるものだ。
 今度こそ、あの子と一緒に死ぬことができる。今度こそ、あの子は俺をこの地獄から救ってくれるだろう。そうだろう?
「そうだろ、なァ、……」
 池一面に蓮が生えていた。その泥のなかから、リヴァイは呼びかけた。茎の合間から、記憶のものよりも幼い面立ちをした子どもが顔を覗かせている。
「誰かいるのか?」
 その問いかけに、目と目が合ったことに、歓喜する。リヴァイの存在をあの子だけは認識できる! この子がリヴァイの希望たりうるなによりの証だ。
「呼んでくれ、俺の名前を」
 お前が。しかしリヴァイにはもう、己の名前すら失ってしまって久しい。逃げるように走り出す子どもを、リヴァイは追うことしかできなかった。肌に食い込む鎖は、リヴァイをこの場所へ引き留めようと抗う。だがそれがなんだというのだ。やっとお前に会えた。俺は、お前に。
「エレン! どうしたのそんなに慌てて」
 子ども逃げ込んだ先にいたのは母親だろう。その口から飛び出したあの子の名前。ああそうだ。エレン! エレン・イェーガー! 俺の希望。愛した子ども。
「エレン、エレン……! 待ってくれ。俺はここだ。エレン、置いていくな……」
 その背に何度も呼びかける。俺にはもうエレンしかいない。俺を見ることができるのは唯一お前だけなんだ。俺を救うことができるのは。なあ、お前もそうだろう。お前も俺だけのはずだ。お互いが唯一だから、一緒に死ぬためにお前は生まれてきたんだろう。
 エレンに、俺以外の人間なんて必要ない。
 悪意をもってのみ生者に干渉できる。俺の手は、いともたやすく少年の体を押した。エレンは俺しかいらないんだから、エレンが家や学校で孤立するのは当然だ。だがひとりぼっちのエレンはなんてかわいそうなんだろう。理不尽に差別され、不条理に疎外される。いちばんその不合理を理解しているのはエレンだけで、まわりは誰もエレンを理解してなどくれないのだ。その孤独を分かってやることなど。生きることは苦しみだ。早くエレンがこの地獄から解放されて、俺とともに死の安楽を享受してほしいと願う。俺にできるのは、エレンを現世の苦しみから救うために、エレンを呪うことだ。そうして死んだエレンは魂の光となって今度は俺を救ってくれる。唯一無二の幸福とはまさにこのことだな。
 エレンは最近、塩を撒いたり、塩を盛ったり、札を貼ったり、人形を作ったりと忙しい。どうやら全部、俺を除霊させるためにやってくれているものらしい。まったくかわいいものだ。
「エレン、俺を成仏させたいならお前が死ぬことだと言っただろう」
 いったい何回言えば、お前は分かってくれるんだろうな。
 エレンは無言で俺に塩を投げつけた。





 三月末の誕生日だと、ようやくクラスメートと年齢が同じになったと思ったら、すぐに進級してしまう。そうするとまたクラスの人間は誕生日を迎え、ひとり取り残される。とくにあれから吹っ切れたおかげで、いまも細々と交友を続けているジャンの誕生日は、進級後すぐなのだから最悪だ。なにかにつけて年上風を吹かせたがるジャンにはうんざりする。一週間ほどの誕生日の違いが、実際は一年にも等しいなんて。
 やっとエレンが十三歳になり、中学二年生に進級した春のことだ。転機は訪れた。
 寝苦しい夜のことだった。毛布に巻き付けた体が重い。体温が内にこもり、エレンは汗を流しながら苦しげに眉を寄せた。夢の中で、エレンは……。
「ぅあっ!」
 うっすらと白けた日がカーテンを透かしていた。上下に喘いだ胸。胸元を握りしめていたのか、寝間着代わりのシャツに皺が寄っている。
「あぁ……」
 エレンは両手で顔を覆って項垂れた。荒い息が手の隙間から零れ落ちる。いったいどんな夢を見ていたのか、もう思い出せない。靄のような余韻だけが残っている。
「……どうした? エレン」
 おどろおどろしい低い声は、もはや聴きなれたものになりつつある。あの夏の日。蓮の池で出会ってから、もう七年近くの歳月が経っていた。ジャンの事件をきっかけに、男の霊を祓うべく日夜勤しむのも、三年の月日を越えている。
「うっ、……下半身が、気持ち悪い」
 両目を閉じているからこそ、毛布をかぶり、スウェットの下、パンツの中がぐちゃぐちゃに濡れているのが如実に分かって、エレンは嘆息した。
 うっすら目を開ける。時計は早朝四時を示していた。
 ついに来たか。靄の晴れた頭の中で、保健体育の授業風景が蘇る。動揺はいくばくか。しかし来たるべきものが来ただけで、寧ろ健康な発育の証なのだと、ホッとしてもいいぐらいだ。エレンよりも前にこの日を迎えた級友は多い。これでやっとエレンも。そう思えばなにも不安になることもない。
「どうしたんだ、エレン」
 心配げに顔を覗き込む男。いつまで経っても、男の目元に色濃く刻まれた隈には慣れない。その目つきの悪さにも。悪霊に気遣われる朝の四時。なかなかシュールな光景だろう。
「……精通した」
 友人や家族よりも、いのいちばんに体の成長を幽霊に報告する自分というのも、頭の痛くなる話だ。

 パンツを洗いながら考えた。我を通せば引き返せない。人を信じれば裏切れない。戦わなければ勝てないのに、とかくにこの世は残酷だ。
「精通したのか。じゃあ体毛もそのうち生えそろってくるだろうし、声も低くなるだろうな。エレン、何歳になった?」
「十三だよ」
「十三か……」
 それきり黙りこむ背後の幽霊を盗み見る。男に巻き付く鎖。男が成仏せずにこの世に留まるのは、この鎖のせいなのだろうか。重い鎖が男をこの世に縛るのか。その鎖は、男の未練なのだろうか。一般に、未練を残して死んだ人間が成仏できずにおばけになるという。エレンはいままで、強制的に霊を祓おうと躍起になってきたが、アプローチを変えてみるのもいいかもしれない。たとえば、この男の未練を断ち切ってやるだとか……。
「あんたはさ、なにか心残りでもあんのか?」
「心残りか……お前と一緒に死ねなかったことだな」
 男の未練を解消する方法がエレンが死ぬことなら、アプローチを変える線はなしだな。このまま強硬作戦でいこう。エレンは手にしたパンツをギリギリと絞った。
 そのまま朝は何食わぬ顔で学校へ行き、授業を受け、家に帰ればネットのオカルト記事を読み漁る。エレンの日課だ。精通したからといって、わざわざ親に報告する義務もない。むしろ報告したらあの母のことだ。赤飯でも炊きかねない。断じてごめんだ。
 なんなら幽霊に教える義理もなかった。今さら気が動転して余計なことをしたという後悔に襲われる。
「ん?」
 画面をスクロールしていくと、いつもは無視するような文面が目に入る。幽霊に関するものはたいていが憶測でものを語るインチキがほとんどだ。だがエレンは悪霊に呪い殺される気は毛頭なかったので、藁にも縋る思いで膨大なフェイクの中からどうにもそれらしいものを選んで試してきた。だから、本来ならあまりにも嘘くさい、下世話な情報には目をくれもしなかった。今日に限ってその文言に視線を引きつけられてしまうのは、今朝の精通事件のせいでもあるのだろうか。ぼうと光る液晶画面で、それはこう言っていた。
「幽霊なんて所詮死者。結局生きている人間のエネルギーには敵わないわけで、その人間のエネルギーっていうのは性欲のこと」
 幽霊に性欲が効く。今まで考え付きもしなかった発想だ。悪霊に憑りつかれていなければ、エレンもなんだこんなものと唾棄していただろう。だが妙に説得力がありはしないか?
 言われてみれば確かに、エレンの食事中、男の距離はいつもより離れている気がする。エレンを呪い殺したいなどと宣う悪霊が、エレンが眠っている間になにもしないというのは、なんだかおかしい気もする。食欲、睡眠欲ときたら、性欲ではいったいどうなるのか。
 エレンの性欲を、男にぶつける……?
 そんな除霊の仕方があるだろうか。だが、試してみる価値が、あるようでないようで、実はあるかもしれない。
「よし!」
 エレンは立ちあがった。
「エレン?」
 訝しげに名前を呼ぶ男の前で、エレンは下着ごとスウェットを脱いだのだった。



「んっ、あっ、ぁん」
 精通したペニスを、性器を、そういう意図でもって触れるのは初めてである。なんとなく下半身を掻いてしまうのはだいたいものごころつく前で、軒並み親にしつこく注意されて次第にしなくなった者がほとんどだろう。エレンもそのうちのひとりだ。
 だから、快楽を得ようと、精液を吐き出すために手を上下に動かす行為には慣れていない。最初は強く握りすぎて、皮膚が突っ張るばかりで全然気持ちよくなかった。男に性欲をぶつけるといっても、自分が気持ちよくなれないのでは意味がない。前途多難にもめげずにエレンはがむしゃらに性器を擦ったが、痛いばかりで全然ダメだった。こんなところで諦めてはいけない。今こそ文明の利器を使うときだ。マスターベーションのしかたくらい、ごまんと記事が載っているだろう。エレンはもみくちゃになったシーツの隙間からスマホを手繰り寄せようとした。その手を止めたのは、誰ならぬ男だった。
「……ヘタクソが。エレン、手のひらに唾を吐け」
「ハ?」
「手を湿らせるんだよ。濡れてるほうが、気持ちよくなれんだろうが」
 性欲で悪霊退散を目論んでいる。その対象の男に、自慰のしかたを教わっている。しかし男の言うとおりにやってみれば。確かにさきほどとは比べられないほど快楽が増した。
「や、ん、あぁ……!」
 声を我慢してはいけないことも、男から教わった。自分の艶めいた声が耳に入るたびに、足先までびりびりと電流が走る。そうなれば、もっともっとと、喘ぎ声が高くなっていくのを抑えきれなくなる。
「ふぁ……、あっ、あ!」
 片手で乳首を優しく擦り、もう片手で性器の先端、敏感な尿道口も弄る。どちらも刺激が強すぎれば痛い。絶妙な力加減を、エレンは身を持って学ばなくてはいけなかった。そのうちに陰茎に触れる手はエレンの吐き出したよだれだけではなくカウパー液でまみれ、くちゅくちゅと淫猥な音が立つようになる。
「どうだ?」
「ん! きもち、いいっ、いいよぉ!」
 ひっきりなしに喘ぐ口に己の指を突っ込み、エレンは舌を巻きつかせてねっとりと人差し指と中指を舐めた。唾液の糸が伝う指先は、教えられたとおりに乳首へ。濡れて擦ると気持ちいいことを、エレンはもう知っている。
「初めてのオナニーがこれじゃ、先が思いやられるな……」
 男の視線を感じる。食い入るようにエレンの痴態を見ている。ぎゅんぎゅんとペニスに血が上っていく。もっと気持ち良くなりたいと、心が叫ぶ。
「んん……、さわって、ほし……、なあ、さわって! エレンのおちんちん!」
「!? エレン……!」
 手の下で震える性器を、エレンはゆっくりと支え持った。尿道口がしずくを零しながらパクパクと開いている。浅ましい。想像を絶するほど恥ずかしい光景だ。
「さわれるもんなら、さわってみろよぉ……! 幽霊が! できないくせにっ」
 快楽に濡れた目元は、いつのまに悔し涙に変わっていたのだろうか。
 エレンは性のよろこびに開花したばかりの余韻を体に残しながらも、悔しいのか悲しいのか、はたまた怒りで震えた。
「なにが未練かしらねーけど! そうやって指咥えて見てることしかできねーほうが、よっぽど惜しくねーのかよ! オレは生きてるのに、あんたは死んでて、まじわることなんて絶対ないのに! あんたはそれで本当にいいのかよ!?」
 男が手を伸ばした。鎖にまみれたその手を。だが触れることなく、男はこぶしを握ってしまう。

 ――死者が生者に干渉できるのは、悪意をもって触れるときだけ。
 リヴァイにはエレンの肌に触れられないことが分かっていた。どんなに望んでも。どんなにその皮膚を撫でさすり、その唇に口付け、いまも震えているその肩を抱き寄せてやりたくても。ずっとその体を抱きしめてやりたかったのに、その感情をどうして忘れていられたのだろう。いとしさを。
 リヴァイがエレンに悪意をもって触れることなど、所詮できはしないのだ。
「お前が死ねば……」
「死んでたまるか!」
 エレンは叫んだ。カーテンの隙間から月明かりが漏れる。エレンの目と同じ色だ。爛々と輝くその光は、世闇に浮かぶ満月に似ている。
「オレがこの世に生まれたからだ! 生きてるんだ! 死んでたまるか!」
 はだけられた肌がきらめいている。全身に血が巡る肌は上気して、皮膚の薄いところは赤らんでいた。興奮して、湯気の立つほど血を沸騰させたエレンは、負けん気な目を一層吊り上げて、握った手のひらを力強く擦り始めた。
「あんたなしにオレはイくからな! 見てろよっ……!」
 まだ毛も生えそろっていない幼い陰茎が、性欲の花開く瞬間をいまかいまかと迎えようとしている。
「あっ、あ、っ――!!」
 エレンの指先が躍るように跳ね、陰茎が震えて勢いよく精液が吐き出された。思わずきつく瞑られた目元、対照的に大きく開かれた口、のけぞった首筋、薄い胸板は涎に塗れ、今日初めて愛撫を与えられた乳首が立つ。へその穴は影を落とし、柔らかな太ももは汗ばみ、脛にまで汗が伝い光る。足先は丸まり、痙攣し、やがて弛緩した。
 エレンがイったのだ。
「!」
 白い精液は弧をえがき、食い入るようにエレンの射精を見ていたリヴァイの顔にかかった。
 リヴァイの顔に。
「えっ……?」
 荒い息もつかぬまま、エレンが戸惑いの声をあげる。ずっと実態のなかった幽霊の顔に、自分の出したものを引っかけるとは、エレンの理解が追いつかないのも当然だ。
「あ……?」
 そしてそれはリヴァイも同じだった。
 手のひらで顔を拭う。ぬるりとした感触。生臭い。
「エレン……」
「あ!?」
 伸ばした手は、エレンの手首を掴む前に発光しはじめる。
 まさか。このタイミングでなのか。ずっと、お前が俺を連れて行ってくれるものだと思っていた。だから俺は……。俺は何を……。
「成仏、するのか……? 本当に?」
 信じられないものを見るかのような、実際信じられないものを見ているんだろう、エレンの目は、ただ丸くつやつやした眼球にリヴァイを映していた。ふいに、その目元が歪む。
「やっと……! やっと!」
 エレンにとっては、万感の思いだろう。ずっと悪霊に憑りつかれていて迷惑していたのだ。これからはもう、エレンは自分のせいで孤立することはない。やっと本当の自分を見てもらえるのだ。ジャンや、家族だけでなく、すべの人間に。自分なしに、生きていけるのだ。
 エレンの顔に浮かぶのは、歓喜だった。
 光に包まれながら、リヴァイは胸の締め付けられる思いがした。
 ボロボロと鎖が崩れていく。これは呪いのはずだった。自分が悪意を持った分だけ、報いるだけの。いったい誰がいつ自分を許したのか。もう成仏していいと決めることができるのは。そんな存在がいるのなら、それは神と呼ぶに等しい存在だ。もしそんな奴がいるのなら、リヴァイは訊くだろう。「何故、いまなのか」と。
「長かった……! ずっと見てたんです。待ってたんです。あなたが自分を許す日を。どうか安らかに。こんどこそっ」
 必死で笑おうと歪めたまなじりから、涙が伝う。もう消えてしまう。その最期のときに、エレンの唇は確かにそれを形作った。
「さようなら、リヴァイ兵長」
 それは確かに、俺の名前だった。
 どうしてお前が知っているのか。その疑問を問いかけることも、またその答えをエレンの口から聞くこともできなかった。リヴァイの光は、上へ、天へと舞い上がり、やがて消えた。

 リヴァイ兵士長の物語は、ここで終わる。








2016/9/3
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