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夏季休暇を終えてから、シモンさんが一度も大学に来ていない。

それどころか、課題で手一杯だったとはいえ、前期試験期間ごろから連絡すらとれずじまいだった。

僕とシモンさんは小学校以来からの友人で、言ってしまえば幼馴染だ。それなのに一切連絡がつかないというのはどういうことだろ うか。確かに彼はいつも事なかれ主義で飄々としていて、対する自分はまじめが過ぎる性格で、もともと常日頃から連れだって歩い ているような仲ではない。たまに会えば十分で、お互い会話しなくても居心地が良いような、そんな関係であった。

自分とシモンさんの間に第三者が入ってきたのは、自分が私立の高校に、彼が公立の高校に進んでから、一年も過ぎたころであった 。シモンさんにニアさんという彼女ができたのだ。ニアさんはとても気立ての良い女の子で、少々おっとりが過ぎるが、気難しいと 言われる自分といても、笑顔の絶えない魅力ある人だ。思えば、彼女はいつも微笑んでいた。彼女の愛らしい顔から笑顔が失われる ことなんて、想像できなかったくらいだ。
そんな彼女が、厳しい表情をして自分の前に現れたのは夏休みも終わりに差し掛かったころだった。常にない凍てつくような眼差し で、彼女は言った。シモンさんと別れたのだと。真夏の昼中に、自分の冷や汗が頬を伝った。かつて、夢見がちな色をしていると、 自分に印象付けたその瞳の中には、強い軽蔑の色が滲み出ていた。それは自分に向けられたものではなかったかが、同時に彼女の憤 りの深さを知って背筋が凍った。なんで、どうして、と細切れにしか言えなくなった自分に、彼女はあの人を見ればわかりますと、 それだけ言って去って行った。
それ以来彼女には会っていない。シモンさんを介さずに自分と彼女には何があるだろう? 僕にとってシモンさんは唯一無二と言っ ていいほどの友人で、ニアさんとシモンさんはお互いに愛を交わした恋人同士だった。僕と彼女は違う感情を持っていたけれど、シ モンさんを思い遣る気持ちは一緒だった。しかし彼女にはもうその気持ちはないのだろう。なら、僕と彼女を結ぶものは断ち切れた と言っていいもので、僕の中だけにシモンさんを思い遣る気持ちが残っている。

何度も彼と連絡を取ろうと努力したが、結局彼が僕の携帯電話を鳴らすことはなかった。もしかしたら一人になりたいだけなのかも しれなかったし、彼には一人で考える時間が必要なのかもしれなかった。だけど、そう言い聞かせているうちに夏は過ぎ、秋に差し 掛かっていた。自分で自分を納得させようとするのにも限界があった。僕は一人でシモンさんのことを心配し続けて、ついには思い 至ってしまったのだ。
どうして彼は僕を必要としてくれないのだろう? 
ニアさんとの交際がうまくいってなかった時、恋人と別れて辛い思いをしている時、どうして僕を呼んでくれなかったんだ? 友人 である僕に、ひと声でもかけてくれれば良かったのに。僕では何の力にもなれなかったかもしれない、問題は僕が思うほど簡単では なく、深刻であったのかもしれない、だけどこういう時に頼りにされなくて、シモンさんが辛い時に傍にいてやれなくて、何が友人 なんだろう。
考え出したら止まらなくなるのが僕の悪い癖で、僕はとうとう自分は本当にシモンさんの友人なのだろうかと疑いだしてしまった。

小学生の時分、放課後は二人で遊びに行ったりせず、学校の砂場でシモンさんが土いじりをして、自分は砂場の淵に腰かけて図書館 から借りてきた本を読んでいることが多かった。
周りの子供たちから見たら、一緒に遊んでいるようにはとても思えなかっただろう。あの時はまだ周りの子たちも無邪気だったけど 、次第に僕たちには根暗なイメージが付与されて、人間関係に不器用な者同士の馴れ合いだと陰で言われたのも、そういう不可解な 関係を彼らたちが敬遠したからだと、あの頃より多少分別がついた今では思う。
だが、それはあくまでも僕らを取り巻く他人たちの思惑で、当の僕ら二人にとっては僕たちは純粋に友人関係だったはずだ。そのは ずだった。でも、そう思っていたのは僕一人だけだったのだろうか? 一度疑問を挟んでしまえばもう止まらなくて、しまいには体 調不良をゼミの後輩から指摘されてしまった。何がどうと不確かなまでも、このままではいけないと感じた。それはもう、シモンさ んのため、シモンさんへの思い遣りというよりも、自分自身の保身のためだった。

某難関私立高校に進学した僕は、最愛の人を得たシモンさんとは違って、孤独だった。教師からの覚えもめでたく、後輩から慕われ ていたが、友人といえるものは得られなかった。
多くの期待を持たれながら大学進学を考えた時、これまでの人生に、それは二十年足らずのものだったが、漠とした不安を感じた。 それは多分、多くの受験生がこれまで辿ってきた道だった。でも、それを自分が経験するのは、当たり前だが初めてだったのだ。曰 く、自分は今まで何をしてきただろうか。これから何をしていくんだろうか。その時、勉強や成績ばかりが自分を測る物差しで、そ れ以外の物差しが、自分の中ではすごいちっぽけな価値でしかなくて、そんな自分自身の底の浅さが露呈して愕然とした。他人との 交流が全くなかったわけではない。学校生活での生徒会や部活動、クラス活動に参加しなかったわけでもない。寧ろ自分は生徒会長 すら務めた。なのに自分の中にあるものは、なんて薄っぺらなものたちだったろうか! 
その時顔を覗かせたのがシモンさんだった。有名大学に進学するのは、他人よりも多くの可能性があった。しかし、名前が一人歩き しているような大学で、たとえ良い成績を収めたとしても、今の自分と四年先の自分は同じなのでないか。知識や期待ばかりが増大 しても、人としての中味が希薄なままだったとしたら、そしたらそれからどうすれば良い?
教師や両親の反対を押し切って、今の大学を選んだ。学部こそ違うけれど、シモンさんと同じ大学だ。何も友達と一緒の学校が良い などと我が儘を通したのではない。大学名よりも、四年間の機会に何をしたのかが大事なのだと自分で考えて決めたからだった。
あの時よりも大きな、揺さぶられるような不安が、今自分を襲っている。僕がもしシモンさんとは友人でもなんでもなかったとした ら、僕はいったいどうなってしまうのだろう。いや、少し違うな。そしたら、シモンさんと友人でなくなってしまった僕は、いった い何者なんだろう。



僕は線路沿いの細い道を辿りながら、思考停止寸前の頭の中で白昼夢を見ていた。自我の虚ろな状態を自覚するのは、夢を見るよう に珍しいことだった。変哲のない道路が、途方もない日常と繋がって、延々とこの道を歩き続けなくてはいけないのだという強迫観 念。
中点を過ぎた秋日の穏やかな眩しさと、路傍の隅から燻っている夏の日差し。猛暑の陰りはまだ残っていて、自分の視界の死角から 這い出てこようともがいていた。一本の道と連なる塀の平行線が閉塞感を強調させる。一方で背中にじりじりと迫ってくる強迫観念 が、自らの逃げ道を自分から奪っていくように足を運ばせた。シモンさんのことを考えると、息をするのが難しくなる。それなのに 自分はシモンさんのもとへ向かっていた。

彼は今、親元を離れて古いアパートの一室を借りて一人暮らしをしている。引越しの荷物運びを手伝った自分にとって、その部屋を 訪れることは容易い。難しくさせているのは自分の気の重さだった。シモンさんと最後に連絡をとったのは、まだ梅雨に入る前だっ た。
それから一夏が過ぎる間、彼は自分や彼女のニアさんを放っておいて何をしていたのだろう。それは、自分たちを蔑ろにしてまで重 要なものだったのだろうか。考えても解決しない疑問の数々はもう少しで瓦解するだろう。青い自動販売機が見える。あの角を曲が れば、もう彼の住むアパートだ。

「ロシウ?」
久方ぶりに聞いた友人の声は、少ししわがれていた。
「お久しぶりです。シモンさん。お話があるので、あげてもらえますか?」
事務的な自分の声音に僅かに落ち込む。自分はどうしてこう…。僕の素っ気ない態度にも、シモンさんは気にした素振りを見せず、 僕を招き入れた。彼のそんな大雑把さが、いつも僕の気を軽くしてくれていたけれど、今になって思えば、この人はそこまで僕に興 味を持っていなかったということなのかもしれない。思考が後ろ向きな方向にロックされつつあることを自覚した。しかし気を取り 直そうと部屋に入った僕の目の前に広がった光景には、驚愕に目を見開いた。

雑然とした六畳一間の中に、ごっちゃとして、しかしある程度の整然さを以て、共通の物体? シンボル? が部屋を埋め尽くして いる。それは、日本アニメーションの一キャラクターのように見受けられた。デフォルメされた体のラインは青少年特有の丸みと逞 しさを帯びており、奇抜なブルーの色をした髪は性格の奔放さを表している? 溌剌とした表情の中に垂れ下がった目尻が少年の優 しさを滲ませているようだった? しかし何よりも理解不能なのが、その少年、もう青年に差し掛かっていると言ってもいいほどで 、一目見ても明らかに男性であることがわかる彼が着ている衣装は、ふんだんなフリルをあしらい、愛らしい大きなリボンを首元に つけ、可憐なフォルムで男心をくすぐるようなドレス姿だったことだ。ピンクと白を基調とした短いスカートからのぞく足は、いく ら成長期を思わせる伸びやかさを醸し出しているとはいえ、男のものだ。
女装した少年の描かれたポスターが壁一面に張り付けられている。通販で買えるようなありきたりな棚の中には、胸を逸らせて上空 を指さすフィギアだったり、関連したものなのだろう、大判の本から文庫本や雑誌に至るまでが表紙を見られるように、または該当 箇所が見られるようにして飾られている。万年床には女装少年がプリントされたクッションが置かれている。ローテーブルに置かれ たパソコンには、少年の下着が風に吹かれたのかなんなのか知らないが、その禁欲的なスカートから露わになっている。確認したく はなかったが、否応なしに目に飛び込んでくる少年の下着は、歴としたトランクスだ。
他にも…、そう目を走らせたが、一瞬後には途轍もない疲労感を感じ、目を伏せた。女装をしている少年がどこまでメジャーな存在 かは自分には及びもつかなかったが、緩さを帯びた輪郭や淡いながらもカラフルな色合いに染められた偶像物の山。これらは所謂オ タク趣味というやつではないだろうか。冷静な分析による判断を下しながらも、全く冷静ではいられなかった。なにより、ことこま かな現実描写は表裏して現実逃避の一環であった。在るものを見つめながら、根本的なものからは目を逸らしている。部屋に常軌を 逸したようなオタク趣味のグッズが置かれていることを知覚しながら、なぜこんなものが友人の部屋にあるのかということを、自分 はわからなかった。否、わかりたくもなかった。

「これは…、これはいったいなんなんですか?」
先ほどのシモンさんもかくやというほどに、自分の声は酷くかすれていた。五分前と今の自分ではおよそ十年は年を取ったような錯 覚がする。
「これじゃない。カミナだ」
無様な自分の声とは対照的にはっきりとした口調でシモンさんは告げた。これと言われて気に障った、そう言いたげでもあった。シ モンさんとは良い意味ではおおようで、悪く言えばちゃらんぽらんだった。意地は張らずにみんなが良いと言うほうに流される。
彼が頑固に自分の意思を通すのは稀で、小学生のころ母親の悪口を言われて取っ組み合いをしたとか、そんなものしか思い当たらな い。それも「おまえの母ちゃん、でーべそ」というような他愛ないものだ。

僕はその時、この喧嘩に参加することはなかった。塾の時間が迫っていたし、母親の悪口を言われたくらいで、僕はむきになれなか った。あの喧嘩に僕も参加したほうが良かったのだろうか。今でも時折自問する。それは後悔となってずっと僕に復讐し続けている 。
僕はシモンさんを友人だと思っているけど、僕とシモンさんは対等ではないとも思う。僕はむきになれなかったからだ。シモンさん が大事にしているもの、譲れないもの、そのために大きい体躯相手に諦めないで立ち向かえるもの、僕には全く共感できなかった。 彼の信念が、僕にはない。それはたった一人の友人に対しても僕に疎外感を感じさせたし、僕はどちらかというと、シモンさんを尊 敬しているのだ。
僕はシモンさんに友情を感じ、慕い、密かに尊敬の念さえ感じている。対等な友人でない分、僕はシモンさんにコンプレックスを抱 いていた。同一人物に、様々な感情を抱くこと自体は、自然なことだと僕は思う。そして、僕は友人の枠に入りきれないほどのもの をシモンさんに向けてきた。シモンさんは僕にとって特別な友人なのだ。

だからこそ自分のように融通が利かなかったり、真面目が過ぎるような言動でも、シモンさんの癇に障ることはなかったのだ。しか し、そしたら、今のシモンさんはどうなのだ。ほんの少しの言葉の綾にも気分を害し敵意を向けてくる彼は。
「カミナ、いえ、カミナさんとは、誰なんですか?」
小学高学年になって、初めて英語を習った時みたいな、まるでディスイズアペン問答だ。集中して勉強している時はまだしも、ふと 我にかえってみれば間の抜けた露骨さに気付いて脱力してしまうような。こういう時、打ち込んだ分だけ自分が馬鹿みたいだと思う 。真剣になればなるほど馬鹿が露呈する。
でも、もし、自分はそうだけど、シモンさんにとっては馬鹿でもなんでもなく、本当に真剣になっていたらどうしよう。今まで、彼 がこんなに真摯な目をしたことがあっただろうか。思わず本気ですか? と聞いてしまいそうになる。しかし聞かずとも、彼は本気 なのだ。冗談でこんなに緊迫した空気を作り出すことは彼にはできない。彼はそこまで器用ではないのだから。いつも飄々としてい る彼が、頑迷さを目元に湛えている、それに気付いただけで、彼が本気であることを察すのは容易だ。

シモンさんは僕にカミナさんのことを話すのを躊躇っているようだった。彼の眼差しの誠実さはまったく揺らぐことがなかったが、 彼の口唇は微かに震えていた。
「お前もたかがアニメのキャラクターだとか言うなよ」
シモンさんは暫く言いよどんでいたが、やがて意を決したとばかりに告げた。攻撃的というより、拒絶的な声音をしていた。どこか 拗ねているようにも聞こえるのは、分かってもらいたかったのに分かってもらえなかったのだろうか。自分の前の誰かは、シモンさ んと分かり合うことに失敗したのだ。
混乱している脳に、その襞に、擦り切れたネガのような映像が瞬いては消えていく。僕はきっとその人を知っている。いつも柔らか に微笑んで、慈しみの心は美しく、正直すぎる性格がいつも自分には眩しかった。頭の中で連続的に再生されている、その人は、シ モンさんの恋人だった人だ。ニアさんだ。シモンさんに会えば分かる言った彼女。いつもの穏やかな面は一転して、冷酷さと軽蔑を 湛えていた。
シモンさんに会えば分かると口に出したニアさんは、シモンさんに会ってきっと分からなかったのだろ。もしかしたら、分かり合お うとすることさえ彼女にとっては耐えられなかったのかもしれない。交わることのない平行線を選んでしまった二人には、破局しか 残っていなかったのだ。だったら、そしたら、自分は? 彼女は分からなかったからシモンさんと別れた。シモンさんの恋人という 座を降りた。もし自分が、シモンさんの期待に応えられなかったら、シモンさんを分かることができなかったら、平行線の二人の先 もまた、別離となってしまう。ニアさんがシモンさんという恋人を失ったように、僕も唯一無二の友人を失くしてしまうことになる 。きっとここが正念場なのだ。僕は、これから待ち受けているシモンさんを、理解しなければ、受け入れなければ、いけない。

シモンさんの元へ至る道中で見た白昼夢が俄かに蘇ってくる。僕の背中にじりじりと迫ってきたもの、それがようやく、今この場に とって僕に追い付いてきたのだ。それは背中一面に張り付いて、僕の体を重くする、僕の思考を鈍重にする、その一方で耳元に囁き かけられる、そいつの言語を僕が知る由もなかったが、うめき声のような囁きは、僕を急き立てているのだ。正体不明の影は僕に強 いてくる。奴だ。強迫観念だ。奴が、僕の背中を這い上がって、喉元にまでやってきているのだ。
 
「カミナはね、本名は神野神名っていうんだ。高校生だったんだけど、トラックに轢かれそうになった子供を助けて死んじゃって、 童貞のまま死んでしまったカミナに、神様が憐れんで、悪霊に取りつかれてしまった人々を助けながら、現世へ残した未練を断ち切 ってこいって命令されて、カミナは未練なんてないって言うんだけど、今は分からないだけだからって、悪霊を倒し人々を助けてい くうちにわかるようになるからって、半ば強引に魔法と使命を授けられるんだけど、カミナは魔法なんて軟弱なものには頼らずに、 意地を通して道理を蹴っ飛ばしながら気に喰わない悪霊をぶっ飛ばす魔法青年カミノカミナになるんだ! でも本当は、高校生神野 神名に片思いしていた、幼馴染の隣野陽子が神名の死を受け入れられなくて、そんな思いを依り代にして悪霊たちが、あの時こうし てたら、もしああだったら、って考えてる人々に取りついていたんだ。カミナは悪霊を蹴ったおしていくうちに陽子に辿りついて、 陽子がまだ自分に未練を残してること、そして自分にも未練があったことに気付くんだ。陽子も今まで遭遇していたカミナが、自分 の思い人の神名で、自分の思いのせいでまだ現世で無茶していたこと知って、そして、陽子は、神名のこと好きだったんだよって、 告白して、カミナも、カミナも、「おお、知ってた」って、「先に逝っちまってわりいな、でもよ、俺はもう良いんだ。あとはお前 が俺より良い男見つけてさ、一緒になってさ、なんだかんだいって笑ってろよ。お前は笑え、そして生きろよ」って、そう言って最 終回でカミナは成仏しちゃったんだ。アニメ史上類を見ないハートフルボッコアニメ、魔法青年カミノ☆カミナの主人公であり、俺 のアニキである、カミナなんだよ!」
で? だから? とそう思った。アニメのストーリーについて語られても、なにがそれでどうなってこの部屋の惨状なのか、不登校 なのか、ニアさんと別れたのか、自分と連絡をとろうとしないのか、何一つわからない。そして男が女装をする意味についても依然 分からなかった。いや、それについては分からなくても良い。寧ろ分かりたくもない。シモンさんは随分熱を入れて説明してくれた ようだけど、だからと言って僕の混乱は収まらないまま、何も解決されていない。しかしひとつ気になる言葉があった。自分の心を 引っ掻くような言葉が。俺の、アニキ? シモンさんの? アニキ?
「あなたがそのアニメに熱中していることは分かりました。でも、シモンさんのアニキとはどういうことですか?」
「どうもこうもないさ! カミナは俺のアニキなんだ!」
どうにもハイテンションだ。シモンさんについていけない自分がいる。
「カミナさんはあなたのお兄さんではないですよね」
そもそも架空の存在ですよね、という言葉は寸でのところで答えた。僕は今、自分の理解できないものに対して恐怖を感じている。 何が何だかわからないが、わからないこそ、怖いという感情だ。つまりシモンさんが恐ろしかった。
「アニキと俺は魂で繋がっている。アニキの言葉を借りるならソウルブラザーってことさ!」
そうるぶらざー、ソウルブラザー、…魂の兄弟! シモンさんの高ぶって上擦り気味な言葉を聞いて、やっぱり僕はシモンさんが怖 かった。しかし、ソウルブラザーという安直な英単語を、この人がどういう意味で使っているのかを時間を置いて理解したら、僕の 脳に、顔に、胸に、鳩尾に、足に、脊髄に、内臓に、血中に、神経に、体全体に、精神全体に衝撃が走った。思わず零れだしてしま ったように、僕はシモンさんに向かって問いを吐いた。それは、僕が冷静だったら、絶対に、歯を食いしばってでも我慢しなければ ならないものだ。
「ソウルブラザー、それは、一番ですか?」
シモンさんの顔を見れなくて、そこにもう答えは示されている気がして見たくなくて、僕は下を向いて、シモンさんが答えを言う前 に言葉を続けた。
「誰よりも一番ですか? 最愛の恋人よりも、…親友よりも、一番ですか?」
強烈なデジャ・ビュ。自分の逃げ場を自ら塞いでいくような。惨めさからか、憤懣からか、八つ当たりからか、僕は奥歯を噛み締め た。瞬きを止めた。この人の前にいると、この人の前にいる自分を自覚すると、僕は息をするのが辛くなる。奴が僕の喉元を絞めて いるのだ。奴はどこから来たのだろう。僕の性格に反応して? シモンさんの不可解さを嗅ぎ付けて? この場合、追いつめている のはシモンさんなのか、それとも僕自身なのか。追いつめられているのは僕か、シモンさんか。
僕はついこの間まで、僕らは友達同士だと思っていた。シモンさんにとってはどうだったのだろう。もうシモンさんには友人は必要 ないのだろうか。恋人であったニアさんが必要でなくなったように…。しかしニアさんは今のシモンさんを受け入れられなかった。 僕は、もし僕が、今のシモンさんを受け入れられたら、友人である僕をシモンさんは必要としくれるだろうか。それとも、シモンさ んにとってはアニメのキャラクターが一番大切で、そんなシモンさんを僕が我慢しても、分かり合おうとしても、一番大切なもの以 外はもう必要ないのだろうか。
シモンさん。シモンさん。シモンさん!
僕は思わず友人に縋り付くように叫んでしまいそうだった。しかし無様な僕を、僕が演じる醜態を、僕が、僕自身が、許すはずがな い。僕は結局首を絞められたような錯覚を覚えたまま、立ち尽くしていた。なんて顔をすれば良い? なんて言えば良い? どうす れば僕はシモンさんの友人のままでいられ続ける? どうしたらシモンさんの友人としてふさわしくなれる?

「カミナさんが、あなたの一番なんですか」
「ああ、当たり前だろう! アニキが、俺の一番さ!」

シモンさんははっきりと答えた。胸を張って、誇らしげに。シモンさんの告白に僕は大きなショックを受けた。ただ、まだ僕の頭の 中にある冷静な部分が、「まだ落ち込むには早い」と訴えてくる。僕は確かにシモンさんの一番ではないけれど、しかし、僕がシモ ンさんの一番だったことは今まで一度もなかったのだ。かつてシモンさんの一番はニアさんだった。それが今はアニメのキャラクタ ーになっただけだろう。そして、友人としてやるべきこともまだ残っている。シモンさんが現実にいもしない人に、それもアニメの キャラクターに、そして女装少年に、情念を抱いているのなら、僕は彼をもとの正常な道に戻してあげなければならない。だって、 存在しない人に思い慕って何になる? 報われることのない一方的な執念。現実から目を逸らすような行為。一般的な価値観を持つ ほとんどの人々に、眉を顰められるようなアブノーマルな趣味。彼女と別れて道を一本も二本も踏み外してしまった彼に、救いの手 を差し伸べること、これこそシモンさんの友人である僕のやるべきことなのだ。友人を助けることに、道理の悖ることはない。

「シモンさんは、カミナさんのどんなところに魅力を感じたのですか」
「アニキは、俺を信じてくれたんだ。今までなんの取り柄もなかった根暗な俺を。上を向いて歩けって、お前にならできるって言っ てくれたんだ。俺がアニキを信じれば信じるほど、アニキも俺を信じてくれるんだ。俺には、初めてのことだったから、アニキが俺 を信じてくれるのが、嬉しくて、こそばゆくって、でも俺がアニキを信じた分、アニキが俺を信じてくれた分、俺は俺であることに 安心する。アニキに信じられる俺を、俺は誇りに思う。かつてないほど、俺は、アニキと一緒にいられた間は、充足していたんだ、 アニキがいてくれるだけで、嬉しくて、幸せで、頭がどうにかなってしまいそうだった。…、でも、もうアニキはいなくなっちゃっ た。最終回でアニキは成仏して、アニメも終わっちゃった。胸に穴が開いたみたいに、俺の中は空しくて、寂しくて、辛いよ。だか ら俺は一刻も早く、アニキのもとに行かなくちゃいけない。今、二次元に行ける方法を探しているんだ。それで、本当に、今すごく 忙しいんだ。早く行かなくちゃ、今、こうやってお前と話してる間にも、俺がアニキの傍にいられない時間が、どんどん、どんどん 、増していって、ずっと…。だから、せっかく来てもらって悪いんだけど、お前の用が済んだなら、帰ってほしいんだ。俺のこと、 ほっといてほしいんだ。俺は、アニキのとこに行くしさ。行かなくちゃいけないしさ。アニキも、俺を信じて待っててくれているん だ。ずっと待たせていたくないし、俺も早くアニキに会いたいし、また俺のこと信じてるって、頼りにしてるって言ってもらいたい んだ」

シモンさんの頭は既におかしくなってしまったんじゃないか。情熱的にアニキ、カミナさんのこと語っているシモンさんは、異様だ った。だいたい、アニメのキャラクターがどうして、シモンさんを信じることができるんだ?
「カミナさんがシモンさんに直接、あなたを信じてるって言ったんですか?」
アニメの中から。つい余計なひと言を言ってしまいそうで僕の語尾は不自然に途切れた。
今、シモンさんを、シモンさんの言ってることや、シモンさんが感じているものを、あたまから先まで、全て否定するのは賢いこと ではなかった。シモンさんは多分、本気で言っているのだ。本気で思っているのだ。アニメのキャラクターがシモンさんを信じてく れて、頼ってくれて、シモンさんが液晶パネルを超えてアニメのキャラクターに会うことができて、架空のキャラクターもシモンさ んを待ち続けているってことを。そんなことを言う人に、実際にそんな人はいないのだから、そんなことできっこないと言うのは危 険すぎる。
まずシモンさんの話を一通り全部聞いて、そこから綻びを探し出して、シモンさんに現実を見てもらって、シモンさんが荒唐無稽な ことを言っているのだと納得してもらうのだ。
そのためには、シモンさんにいくら帰れと邪険にされようとも、鉄の意志で僕はこの場にいなくてはいけない。シモンさんが何を考 えてそんな愚にもつかぬことを言い出したのか、その根本的な原因が知りたい。シモンさんが大事に閉まっている心の箱を、僕は少 しだけでも見せてもらいたいのだ。だって僕は、シモンさんの友人なのだから。
「アニキは言ったんだ。自分に自信がねえって奴は俺を信じろ! 俺がお前を信じる! お前が信じるこの俺様が、お前を信じるっ て言ってんだ! お前は俺が信じるお前を信じろ! 俺が信じるお前は、やってやれねぇことはないんだぜ! そしたら、アニキを 信じたら、アニキが信じてくれた俺なら、本当にやってやれないことなんてなかったんだ。アニキが俺を信じてくれたおかげで、俺 は俺を信じることができた。俺とアニキがやれるって思ったことは、本当にできるんだ。できないなんてことはないんだ、俺がアニ キを信じて、アニキが俺を信じてくれるなら。俺はなんだってできるよ」

シモンさんが言っていることは、一種の自己催眠だろうか。信じる信じないで本当になんでもできるようになるほど、世の中は甘く ないと思うが、シモンさんは無意識のうちにできなかったことは意識しないようにしていたのか、もしかしたら、自分の信じ方が不 十分だったのだとでも考えたのかもしれない。そもそも、シモンさんはこの夏ほとんど外出しなかったはずだ、できるできないの前 にそういう機会すら多くはなかったのではないか、もしくは、小さな成功を誇張して考えているだけなのかもしれない。架空のアニ メキャラクターを信じただけで、なにもかもうまくいくはずなんかない。
だいたい、こんなセリフを言うカミナさん自体が適当というか、無責任すぎる。いや、アニメのキャラクターにそんなこと言っても 意味ないだろう。これではシモンさんとある意味一緒だ。そうじゃなくて、このアニメを作って、このセリフを考えた人の方が都合 が良すぎる。それを鵜呑みにするシモンさんもシモンさんだが。そもそも明らかに男なのに、あんな女装まがいな、というか実際女 装なのだが、秋葉原のメイド服のような恰好をさせている時点で、このアニメを制作したところも、それに喜んで見ている人も、頭 がおかしいんじゃないか。それか、どうしようもないほど幼稚で愚かなのだ。
そんな人々が失恋の傷癒えぬシモンさんを騙すなんて許せない。いやカミナさんのせいでシモンさんは失恋したんだったか? カミ ナさんショックで事実関係があやふやになってきている。それでも、シモンさんが悪質なアニメに騙されていることは変わらないだ ろう。騙されたシモンさん、子供だましの甘言を信じてしまったシモンさん、架空のキャラクターに会いに行くことができると勘違 いしてしまったシモンさん、シモンさんがこのままでは可哀想だ。あんまりに不憫だ。オタクアニメも、架空のカミナさんも、哀れ なシモンさんの元凶でしかない。
たかがアニメのキャラクターなんかに、シモンさんの人生を狂わせるわけにはいかない。

「シモンさん、よく考えてみてください。カミナさんという方は実際に現実にはいないんですよ。あなたがどんなに頑張ろうとも、 誰を信じようとも、シモンさんがアニメのキャラクターに会うことは不可能です。それに、例えば、もし、あなたとカミナさんが会 えることがあったとしても、それはシモンさんにとって良いことではないと思います。あなたが今、頑張らなくちゃいけないのはア ニメのキャラクターに会いに行くことではなく、現実の世界から目を背けずに、授業を受けテストを受けレポートを書く、シモンさ んの頑張るところは学業生活にこそあるはずです。あなたが勉強に苦手意識を持っていることは僕も承知していますが、大学を卒業 して、何かしらのところに就職して、働かないといけないことはあなたにだってわかるはずです。そうやって今まで多くの人々が生 きてきたんですよ。」

「お前までアニキを否定するのか? お前も俺のアニキを否定するんだな! お前はわかってくれんじぇねぇかと思ってたが、結局 お前もニアと同じようなこと言うんだな。ニアは俺に聞いたよ。幸せはどっちにあるのかってな、つまりアニキかニアか。俺はアニ キを選んだ。俺のこれまでの人生を顧みても、俺のこれからを考えてみても、恋人であるニアの存在も、全ては俺のアニキが上回っ た。俺は俺の生涯のこれからを、アニキのために捧げるって決めた。それをニアに告げたら愚か者って言われたよ。存在すらしない 架空の偶像に惚れ込んで、これから来るべき幸福すらも拒絶するなんて、ってな。お前もたかがアニメのキャラクターなんかにって 言いたいんだろう。俺の残りの生涯をアニキに尽くすのは、お前にとって滑稽に見えるのかな。結局みんな同じだ。アニキ以外は俺 にとっちゃみんな同じなんだ!」

諦念と苛立ちをごちゃまぜにしたかのような溜息をわざとらしく吐き、もうこの件について彼は勝手に結論に達してしまったのだろ うか。その表情はいつもの飄々としているシモンさんのようで、「どうでもいい」と「もうこれ以上お互い何を言おうが言わまいが 結果は変わらないだろう」という問題を投げ捨ててしまった者の無関心さが表れていた。シモンさんはどかりとフローリングに腰つ けた。腰を落とす際に机に手を置こうとしたのが、その動作の一々が荒く、耳の奥に余韻を残すような姦しさが彼の不機嫌さを物語 っている。

「アニキを軽んじる奴には、もうこれ以上ここにいてほしくない。ここは俺とアニキのための場所なんだ。学校とか、たかがアニメ のキャラクターとかこれ以上つまんねぇことぬかす前に帰ってくれないか。」

これは別離だとロシウは直感的に悟った。友達としてシモンさんを普通の学生生活に戻してあげようと、それが友達としてシモンさ んを救う方法だと信じていたのに、実際はシモンさんに失望されてしまっただけだった。これ以上シモンさんに何も言えなくて、何 か言ってしまったらシモンさんにもっと疎まれてしまうんじゃないかと躊躇して、僕は結局、何も言わずにこの小さな部屋から出た 。
心臓が気持ち悪いくらいに高鳴っている。僕は知っている。部屋から玄関までにはわずかな距離しかない。そのほんの少しの道のり のどこかで、シモンさんがもう一度だけ声をかけてくれるんじゃないかと思っているのだ。そうだ、僕は期待しているんだ。まだシ モンさんと友達でいられる可能性を。シモンさんは実在しない青年のために恋人のニアを捨てた。僕もまた、存在しないキャラクタ ーのために友達を失うことになるのか。そんな馬鹿馬鹿しいことなどないと思いたい。
しかしシモンさんはそんな馬鹿馬鹿しいことを大真面目にやっているのだ。そしてまた僕にも酷いことをしようとしている。
シモンさんが、僕がこの小さなドアノブに手をかけ、回して、僕が出て行ってしまう前に、ひと言でも声をかけてくれるのなら、僕 は彼の大事なものを侮辱してしまったことを謝ろう。そして、できるだけ彼の話に合わせてあげて少しずつ現実を見てもらえるよう に、僕が…。
シモンさんが僕がここから出ていく前に、なんでもいい、ちょっとした溜息でも、「あっ」という声だけでもいい、シモンさんが声 を出してくれたら、僕は、僕は彼の友達でいられるために、なんでもしよう。頭の中ではそう思っていたけれど、僕の決心はすぐに 瓦解した。一歩踏み出せば十分で、僕はもうドアノブに手をかけていた。
ドアを開ける動作をしつつ、ちらっと視界に収めたシモンさんは、もう僕には何の興味も失せたようで、パソコンの中で動いている 彼の姿を夢中で追いかけている。初めから僕に興味などないようだった。そしてカミナというキャラクターを見ているシモンさんは 、今までの僕にも見たことないような、嬉しそうで、慈しみ深く、うっそりと、また哀願さえも滲ませているような、幸福な顔をし ていた。
そして僕は静かに扉を閉じる。


ひたすら続く線路の沿い道、遥かな長さは無限の世界への導きにも見えて、実際ロシウの足取りは重く、彼の自意識さえ許してくれ るなら、今にも足を引きずっていただろう。
シモンさんの部屋から玄関までの距離は実際にはありえないが、今以上に途方もうない道のりだったように思う。空気は沈んでいて 、フローリングは埃ではなく淀んだ鬱屈が溜まっているようだった。一歩を踏み出すには、なんと億劫なことだったか。しかしその 道のりは終わり、今や自分とシモンさんが同じ道を行くことはないだろう。そう思うと、無意識に背中が丸まってきて、ロシウの視 界にはコンクリートでできた無感動な道でいっぱいになる。

頭の片隅でとりとめのないことを考える。そのほかの考える脳はのろのろと這いつくばっているようだ。何かとんでもないことが起 きたのに、僕の脳が正常に動いてくれない。脳が鈍すぎて何かを考えなくちゃいけないという意識すらまだ出てこないようだった。 僕は「うぅ」と小さく呻いた。

部屋の空間を箱と結びつけるなら、シモンさんの部屋は一個の箱であり、シモンさんの部屋なのだから、その箱は当然シモンさんの 箱である。
その箱の中にはカミナさんが入っている。
シモンさんの箱の中に、シモンさんのアニキが入っている。
箱の中を開けてみたら、中にはシモンさんとカミナさんの、現実と非現実の、希望と錯覚が入っている。カミナさんは非現実なのに 、箱は現実を見せる。シモンさんの現実を見せる。
その箱を覗くべきではなかったのだ。







妄執の匣



自分自身が友情という箱に入っていたのかもしれない。なかみは、空っぽだ。


2012/03/12
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