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 一週間前の土曜日から、無性に餃子が食べたかった。
 お腹いっぱい死ぬほど餃子が食べたい!

 金曜日の朝、ついにエレンの我慢は限界に達し、餃子への食欲が爆発した。
 そうは言っても今日は金曜日。平日だ。しかも朝だ。これから職場に赴き一日の勤務につくというのに、今ニンニクたっぷりの餃子を食してしまうのは頂けない。というより冷蔵庫に冷凍餃子もなければいちから焼いている時間もないのだ。なんてったって今日は平日の朝なのだから。
 エレンはベッドに半身を起こしたままで、一大決心をした。
 明日だ。明日餃子を皮から作ろう。
 いっぱい作ってお腹の皮膚が突っ張るまで、餃子を食べるのだ!
 思い立ったエレンの行動は早かった。
 枕元で充電しているスマートフォンを素早く起動。通話履歴の真ん中あたりに表示されている名前をタップする。彼と直接会って話したのはほぼ一週間振りだ。
 2コールでぶつっと音がし、回線が繋がった。
「……」
「グッモーニン、リヴァイさん!」
 呼び出したのは恋人であるリヴァイさんだ。
 薄い端末越しに繋がる恋人は、いまだ沈黙を保っている。
 おっとこれは不機嫌のだんまりか。
 顔と態度で誤解されること三十余年の苦節を積み重ねてきたリヴァイさんは、悪戯に俺を威圧することを好まない。
 不穏なことを言ってしまう前に口を固く閉ざすのは、案外おしゃべりな彼が俺の前だけでやってしまう癖らしい。
 だけどその無言の間こそが俺を委縮させるには十分だということを、そろそろあの人は分かった方が良いんじゃないかな。
「ごめんなさい。寝起きでした?」
 苦笑を滲ませて横目で窺った目覚まし時計の指す時刻は午前5時45分。いくら恋人からの着信だって、素直に歓迎できる時間ではない。
「……いや、大丈夫だ。どうした?」
 掠れた声からは、彼なりの気遣いが透けて見えるようだった。凶悪な顔と粗野な態度とは裏腹に、存外彼はセンシティブな人間だと知っている。
「あのっ、俺、リヴァイさんに今すぐ直接言いたいことがあって、そしたら今が何時だとか頭からすっ飛んじまって、あの、ごめんなさい。本当に」
「構うな。……お前の気持ちは分かっているつもりだ」
「本当に? 流石リヴァイさんだ!」
 俺のはしゃいで上擦った声を、リヴァイさんはじっと聞き入っている。待ってくれているのだ。
「えっと、あの、ずっと俺、思っていたんですけど!」
「……あぁ」
 唾を飲み込んだ音が、朝日を透かして白く眩い部屋に思いの外大きく響いた。
「めっちゃ、餃子が食いたくって!」
「……」
「明日材料買いこんで、皮から種からいちから手作りして一緒に食べませんか!? 焼き餃子!」
 大きく息を吐く音が画面越しに伝わってくる。朝から何を、と呆れられてしまっただろうか。
「……エレン」
「はい……!」
「言いたいことはそれだけか?」
「えっと、はい。そうです。明日別の予定が入ってますか?」
「いや、ない。分かった。明日は朝から来い」
「はい! ありがとうございます! じゃあまた明日!」
「……あぁ。また明日な」
 通話を終えるとエレンは伸びあがった。
 午前5時49分。五分もかかってない。
 一瞬リヴァイに呆れられるかと恐れたが、彼はエレンの誘いに乗ってくれた。エレンが度を越したことをしたら、彼はちゃんとそれを伝えてくれるから、リヴァイはエレンを邪険にしなかった、それが全てだ。
 チチチと鳥が囀る声が聞こえる。薄い緑地のカーテンの向こう側では、もう今日が始まっているのだ。それなのにエレンは、もう一仕事終えた気分になってしまった。疲れたというわけではなくて、達成感という心持でだ。
「んー! 明日餃子楽しみだなぁ!」
 何せ一週間前からずっと食べたかったのだ。



 朝10時の開店を待って、エレンとリヴァイはスーパーに来ていた。
 エレンがリヴァイ宅に着いたのが二時間前だというのだから、今日の意気込みが伝わってくるというものだ。
 まず着いて早々一時間半は部屋の掃除に費やした。それから整頓されつくした冷蔵庫をチェックし、調味料のストックも確認した。ネットから焼き餃子のレシピをざっくり調べて、必要な食糧をメモすればそれだけで正味二時間経ってしまう。
 一週間くすぶり続けた並々ならぬ餃子への情熱が、今日という突破口を経てエレンのテンションをこれ以上なく高くしていた。
 朝から元気が過ぎるエレンに、リヴァイは時折もの問いだげな視線を投げかけるのだが、当然テンションのはちきれている当人がそのまなざしに気付くことはなかった。
「豚ひき肉は……いっぱい! ですね!」
「あぁ」
「キャベツや白菜は浅漬けのやつにしましょう。味もついてるし、中がジューシーになりますよ。母がよくこれで作ってました」
「あぁ、美味そうだな」
「ニラとニンニクも! リヴァイさん、明日もお休みですよね」
「あぁ、心置きなく臭くなれるな」
「しょうがのチューブはありましたよね」
「あぁ、だが量が多いからな。買い足しておこう」
「じゃあすりましょう。しょうが」
 見る見る間に買い物カゴがいっぱいになってしまった。明らかに成人男性二人の胃袋ですら許容できない量だが、気にする素振りは一切見られない。食欲のメーターが振り切れているエレンはともかく、リヴァイもカゴの中身に言及することはしなかった。

「まさか皮を寝かせるのに二時間もかかるなんて予想外でした」
 粉をこねくりまわすリヴァイの上腕二頭筋に大いに満足したエレンは、次の工程を確認するために見たアイパッドを持ったまま悲鳴をあげた。
「餃子食うの夜になっちまいますね」
 精密機械が汚れないようにサランラップを巻いた画面を、エレンは恨めし気に見やる。
 粉を混ぜていたボウルとへらを洗い終わって、手持無沙汰なのだった。
「……餃子食ったら夜泊まっちまえば良いだろうが」
 お前だって明日休みなんだろと低く呟くリヴァイは、麺棒で生地を均一に伸ばしている。
(こういう細かい作業が意外と得意なんだよなぁ、リヴァイさん)
 彼の指先は、たまに思いもよらないような繊細な動きをする。
 男の器用さを意識してしまうのは最近は専ら夜の帳が下りる頃が多いので、エレンは慌ててその思考を打ち消した。
 リヴァイのキッチンに麺生地やクッキー生地を伸ばす麺棒があったことには正直驚いた。
 意気込みだけは立派なエレンは、もちろん皮から餃子を作りたい気持ちがあったが、市販されている皮が五十枚くらい入ってるものを買うつもりだった。母もそれを使っていたし。
 しかし改めてリヴァイの手慣れた手つきを見て、エレンの口元には知らず笑みが浮かぶ。
 強面のリヴァイが握ると、アレは麺棒というより……、
(棍棒だよなぁ)
 鬼に金棒。
 ぴったりと当てはまった言葉は、エレンを耐えきれずくふくふと声に出して笑わせていた。
「……なんだ」
「いえ、何でも。ところで何の話でしたっけ?」
 ジロリと見上げられて、流石に恋人を鬼となぞらえていたことを知られるのは気が引けたので、エレンは話を混ぜ返した。
「だから、今日、泊まっていくだろ?」
「あぁ! あー、でも、俺今日手ぶらで来ちゃいましたよ」
 必要最低限のものしか持ってきていない。替えの服だとか歯ブラシだとか、リヴァイの家に泊まりに来る時はいつも用意して来ているのだ。
「服は前、お前が置いてったやつがあったろ。下着と歯ブラシも、ちゃんとお前の分あるぞ」
「あれ、俺そんなにリヴァイさんちにもの置いてましたっけ?」
「……よく来るんだから、わざわざ全部持ってくるのも面倒だったんだろう」
「えー、やだなぁ、そんなだらしねぇの。俺知らない間にすっげーリヴァイさんに厚かましくなってました」
「別に良いだろ。……お前がそのだらしなさや厚かましさとやらを俺以外の誰かに見せたら殺すけどな」
「フ。リヴァイさんたら母親みてぇなこと言うんですね。口は随分物騒だけど」
 家では良いけど他人のお家でやっちゃダメだからね。そう言って何度も窘められたものだ。全部が全部を強制せずに言ったのは、母もエレンの根っからの頑固さを認めていたからだろう。
「……そうかよ」
「そうですよ。さぁ、皮寝かせてる間に種作りましょ!」
「待て、その前に昼飯だ」
 壁掛け時計の針がふたつとも中天を指していた。
 エレンはびっくりしてリヴァイを見やる。リヴァイはひとつ頷いてやった。
「何食いたい?」
「餃子です!」
「ばか」



 簡単にレタスとハム、卵のサンドイッチで空腹を紛らわせた後、エレンが肉を捏ね、リヴァイが野菜の浅漬け、それからニラを切り刻んだ。
「つ、つめてぇ」
 冷えた肉に手を突っ込んだエレンがぶるっと震える。
「へらかなんかで混ぜりゃあ良いだろ」
 油でべとべとになった手を引き上げて、ぷらぷらと振るエレンにリヴァイは眉を顰めた。
「でも母は、手で捏ねてましたよ。美味しくなぁれって鼻歌歌いながら」
「料理は愛情だな。で、お前は美味しくなれって歌わないのか?」
 トントントン。リズミカルに包丁を操って、まるでエレンが歌いだすのを待っているようだ。その手元は、一目で彼が自炊に慣れていることを物語っている。
「え、ちょっと恥ずかしいですね」
「何を今更」
 鼻で笑われて流し目をくらった。カッと頬が熱くなる。
「ちょっと! 何を考えているんですか!」
「さぁ? 何だろうな?」
 逆にお前が何を考えたのか教えてもらいたいものだな。低く囁かれて、堪らずエレンは肉を練る作業に集中することにした。
 冷えた感触はエレンの沸騰した頭をいくらか落ち着かせるかと思われたが、肉を捏ねる度に“ソレ”らしい音がするのでエレンはすっかり参ってしまった。
「おら、真っ赤になってねぇでこれも混ぜろ」
 切り刻んだ野菜をボウルの中に入れる。わざわざすりおろしたニンニクとしょうがも。
「お、美味しくなぁれってお願いしてたんですよ……」
 か細い声で訴えると、リヴァイはすかさず目を細めた。
「ハッ」
 意地悪く笑うのに、男は優しい顔をしているのだ。



 ちまちまちまちまと、丸い皮に種を詰めていく作業は、思いのほか熱心に進めてしまった。初めは多めに量を取ってしまって、皮に無理に包もうとしたらぶっくりした餃子が出来上がった。その度にリヴァイに「デブだな」と笑われるので、エレンはいい塩梅な量というものが分かるまで試行錯誤したのだ。量が少なすぎると水餃子みたいになってしまうから難しい。
「あっ、もう西日が差してきましたよ」
 窓からオレンジ色の光が漏れ出て、エレンとリヴァイの手元を染めていた。
 朝、材料を買ってきてからなんだかんだとずっと餃子を作っている。この餃子への情熱はいったい何なんだろう。果たして食欲だけだろうか。
「すごい量になっちゃいましたね」
 大皿三枚にこんもり盛られた生餃子を見て、エレンは嘆息した。
 夢にまで見た餃子。
 だがどう見ても作り過ぎだった。
「これは一週間ぐらい餃子弁当にしなくちゃ消費しきれませんね」
 早速フライパンに油を引きはじめたリヴァイの背中に話しかけると、当人は壁に掛けられている時計を確認して、こともなげに「大丈夫だ」と請け負った。
「もうそろそろすれば、馴染みの奴らが来る。今日は餃子パーティーするからビール持ってこいって言ってあるからな」
「えぇ!? そうなんですか!」
 滅多に自宅にエレン以外の人間を入れることはしないのに、珍しいこともあるものだ。
 仰天しているエレンを余所に、リヴァイは淡々としていた。
「お前が死ぬほど餃子食いてぇって言ってきた時から、すごい量になることは目に見えていたからな。昨日のうちに声かけておいた。……アルミン達も来るぞ」
「本当に大人数ですねぇ」
「パーティーだからな」

 肉の焼けた香ばしい匂いが部屋を充満させる頃、ゲストはぞくぞくと来訪した。
 皆一様にテーブルに鎮座した餃子の山を見て、「作り過ぎ」と苦笑いしていく。(ハンジは爆笑してすかさずリヴァイに余った餃子の種を焼いたものを詰め込まれていた。むせて可哀そうだったが本人はまだ笑っていた)
「あー! これだよこれ! 餃子超食いたかったんだよなぁ!」
 熱々の栄えある一口を納めたのはエレンだった。エルヴィンが差し入れてくれた缶ビールをぐいっと呷る。満足の吐息を零した。
「よっぽど餃子が食べたかったんだねぇ」
 隣に立ったアルミンはミカサが持ってきた出し巻玉子をつまんでいた。
 エレンはともかく他の人間は餃子だけでは辛いので、それぞれおかずやつまめるものを持ち寄ったのだ。テーブルには餃子や玉子焼きの他に、酢豚や生ハムやカクテルサラダ、春巻きなどが置かれている。各々に紙皿が配られて、無国籍の立食パーティーというていである。
「なんでか知らねぇけど、一週間前からずっと餃子が食いたかったんだよなぁ」
 噛み締めた餃子は皮がパリッと焼けていて、中はジューシー、浅漬け野菜がしゃきしゃきと歯ごたえがあってとても美味だ。
 そう、こんな餃子をあの時も食べたいと思ったのに、食べ損ねたのだ。それをずっとエレンは未練に思っていて、ここ一週間ずっと餃子を求めていた。
「……ん?」
 そもそも何で餃子を食べられなかったんだっけ?
 確かあの日は、リヴァイと一緒にラーメンを食べに行ったのだった。何食いたいと聞かれて、ラーメンとエレンが答えたから。
 土曜日だったが仕事が終わらなくて休日出勤が避けられないエレンを、その後で良いからと呼び出されていた。何時になっても待ってると言うリヴァイの言葉には恐縮したが、何とか夕飯時の良い時間にリヴァイと落ち合えたのだ。

 野菜たっぷりの塩ラーメンを啜りながら、やっぱり餃子も頼もうとメニュー表を手に取った。リヴァイさんも食うかな? と醤油ラーメンの湯気の向こう側を窺うと、男は箸に手をつけないままやけに神妙な顔をして黙りこくっていたので、エレンは大層驚いた。
 そういえば何か大事な用があって呼ばれたんだったか。
「話したいことって何なんですか」
 尋ねると、弾かれたようにしてリヴァイさんは俺を見た。その勢いに若干背中が反ってしまう。
「エレン、俺は……、いや、良い。食ってからにしよう」
 一瞬口を開きかけたくせに、肝心なところで閉じてしまった。そんなに言いづらいことなのだろうか?
 真っ先に思い浮かんだのは長期の出張という可能性だった。
 エレンという恋人はいるものの、彼には養うべき家族はいない。リヴァイはその優秀さからも都合の良さからもよく出張に駆り出されている。期間自体はまちまちだが、その長短に関わらず必ずエレンは彼に留守を任される。仕事から帰ってきたら、部屋に埃が溜まっているなんて彼には耐えられないからだ。エレンもそんな彼の性分は理解しているので、これまで何度もリヴァイの代わりに彼の部屋を磨き上げていたが、エレンにだって自分の仕事があるのだ。あまりにも長期になってしまうとリヴァイも気軽に頼むことができないのだろう。
 だが、それにしても彼の顔は深刻過ぎた。
 別にエレンとしては彼の留守中家の面倒を見ることくらい何てことない。それよりせっかく二人向かい合っているのに、飯を不味くさせるような顔をするくらいならさっさと頼んできてほしいとすら思う。快諾するから。
「食ってからって、リヴァイさん一口も進んでないじゃないですか。俺、餃子も頼みたいし今言ってください」
「……分かった」
 そう了承したのに、次にリヴァイさんが口を開くまでは暫くの間があった。
 餃子だけじゃなく、このままじゃ麺が伸びちまう。
「エレン、俺は……、俺はお前を愛している。半端な気持ちじゃなく、真剣に。一生をお前と添い遂げたいと思っている。……もうずっと前から。だがそれを直接お前に願うには、お前はまだ若すぎた。だが、これ以上は良いだろう。お前、この前いくつになった?」
 店内の喧騒が一気に遠くなって、エレンはリヴァイの声しか聞こえなくなっていた。だから(こんな場所で)、という抵抗なんて端からないで、問われたことに正直に答えていた。
「一緒に誕生日祝ってくれたじゃないですか。……二十五歳です」
「そうだな。もう立派な大人だった。お前があんまりにも可愛すぎるから、つい待ち過ぎちまった」
 ここまでが前振りなんだとエレンは直感した。彼の話はここで終わらない。大事な用というのはこの先だって。
 でもだからと言って、次に何を言われるのか、その時になってもエレンには予想することができなかった。
 何か言われると分かっていても、その覚悟まではついていなかったのだ。
 そして言われた後すらも、エレンにはどうして良いか分からなかった。
「エレン、俺と結婚してくれ」

 そうして俺は、まんまと餃子を食べ損ねたのだった。



(あーーー!!?)
 一週間前の出来事を、エレンは今頃になって自覚した。今までずっと餃子のことで頭がいっぱいだったせいで、考えなかったことだ。
 あの時は驚きすぎて言葉も出なくて、返事は今度で良いという彼の言葉に辛うじて頷いただけだった。あとはもう塩ラーメンを食べきることで精いっぱいだった。あの日どうやって帰ったのかも覚えていない。
 半年ぐらい前に、国は同性婚を認めたけれども、今もまだ世論は賛否に分かれていて、エレンには現実感が湧かなかった。おろか、同性の恋人を持っていながら、当事者だという意識もまるでなかった。
 リヴァイとの関係は、いつか彼によって解消されるのだと思っていたから、自分には関係ないものだと今まで疑っていなかった。
 そう、リヴァイが言ったように、彼との関係が始まった当時のエレンは若すぎた。付き合い始めたのはエレンがまだ学生で、それも十代も半ばになる年だった。つまり、義務教育もまだ終えていなかった。この事実だけは二人はそろって墓場まで持っていく覚悟だった。勿論彼はなけなしの大人の良識を持って、二人が体の関係を持つまでちゃんと時間をかけてくれた、耐えがたきを耐え、エレンの体と心が育つまで待ってくれていたのだ。
 それなのにというべきか、もしかしたらそれだからとも言えるかもしれない、エレンはどこかでそこまでしてくれたリヴァイの愛情を信じ切れていない部分があった。
 彼は本当は若い男の子が好きで、年を取って、社会人になって、ろくに会えなくなってしまった自分になんか、もう興味は持てないのではないかと。きっといつか愛想を尽かされてしまうのだと。そんな愚にもつかないことを考えて、眠れない夜は確かにあったのだ。
 きっとリヴァイさんは俺を手放す時が来るだろうから、その時俺は……。
 俺はどうしたいと思っていたんだっけ?
 だが、そんなこと今はもう無用になってしまった。
 俺の眠れない夜は幾夜も過ぎた。
 だが一週間前にリヴァイさんは俺にプロポーズしたのだ!
 そうだ。それなのに俺ときたらすっかり餃子にうつつを抜かしていたなんて! 全く自分が自分を分からない。
 あんまりにも混乱していたから(だってリヴァイさんが! 俺に! プロポーズ!)、すこし頭が冷静になったところで、結局餃子のことくらいしか考えられる余裕がなかったのだ。
 あの時食べられなかった餃子が、ただ無性に食べたくて食べたくて……。

「どうしたのエレン。餃子食べ過ぎて胸やけしちゃった?」
「えっ、いやっ。へいき……」
 青くなった顔を見咎めて、アルミンが気遣わしげな視線を寄越す。曖昧に手を振って心配には及ばないと伝えた。
 ビールではなく、テーブルの片隅に置かれていたソーダ水を拝借した。口の中がシュワシュワと弾ける。このまま最悪な気分も晴らしてしまいたかった。
 エレンの動作を見守っていた親友は、呑気にふふっと笑う。確かに彼の危惧したような体調不良ではないのだが、今のエレンの心情と乖離しすぎた反応に、アルミンを少し恨めしく思う。
「そういえば、エレンのお父さんも、カルラさんが作り過ぎた餃子を全部食べて、今のエレンみたいな青い顔、していたことがあったよね」
 本当に君たちは親子だよね。
 懐かしむように笑うアルミンに、エレンはそうだなと頷くことができなかった。
 リヴァイも言ったではないか。料理は愛情だと。
 美味しくなぁれと歌った母は、いつも仕事で忙しくする父に、何を願っていただろう。
――美味しくなって待ってるの
――あなたの帰りを待ってるの
 それはしあわせの味だったのだ。
 なんで餃子を食べたくなったのか。
 あれがしあわせの味だったからだ。
 エレンはリヴァイと一緒に食べたかった。
(もしリヴァイさんが俺を手放す時が来るのなら、今度は俺が、リヴァイさんを手に入れるために何でもしようと思ったんだ)
 あのしあわせな味でリヴァイさんの胃袋を掴もうと、慣れない料理なんかして。母のように、好きな人に美味しく食べてもらえるように、お祈りまでして。
 ……何だそれ。何て恥ずかしい真似してんだ!
「ハハッ……」
「エレン? 今度はどうしたの」
「いや、俺ってすごいバカなんだなって」
 そういえばリヴァイさんにもバカだって言われたんだった。そうだ。とんでもなく大バカ野郎だった。手作り餃子って。そんなことで、リヴァイさんが俺の気持ちに気付くはずなんかないのに。だって俺にも気付かれなかった。今世紀最大と言ってもいいくらい、間抜けな告白方法だった。
 訝しげなアルミンをしり目に、俺は声を張り上げた。今度こそ、ちゃんと彼にも伝わるように。
「リヴァイさん!」
 突然大きな声を出した俺に、みんなは一斉に俺の方を向いた。昔なじみのエルドさん、グンタさん、ぺトラさん、それからオルオさんに囲まれていた呼ばれた本人も、びっくりしたみたいだった。
「……何だ」
「あの、この前の返事、随分お待たせしちゃってすみませんでした! オレっ、」
 意気込む俺を制したのは、一週間も待たされたリヴァイさんだ。
「待て。それは今言うことか」
 俺が何の話題を今この場で持ち出したのか、もちろんリヴァイさんは分かっている。それなのに俺を止めているのは、もしかしたら彼は臆しているのかもしれなかった。流石のリヴァイさんも、この状況での心の準備ができていないのだろう。
 だがエレンはそんな彼の心境など構いやしなかった。
「今言うべきです! いったいどれほどお待たせしたと思っているんですか!」
「お前がな」
 エレンはリヴァイの前に躍り出て、その手を握った。
「俺、俺もあなたを愛しています。結婚しましょう!」
 リヴァイさんは俺の真っ赤に染まった頬を一瞥した。
「エレン、確認させてくれ。酔った勢いじゃないんだな? 俺と同じくお前も真剣なんだと、俺は判断して良いんだな?」
「ビール一本じゃ酔いませんし、その場の勢いなら一週間もお待たせしません。……本気なんです。あなたと同じくらい」
 リヴァイはゆっくり瞼を下して天を振り仰いだ。万感の思いで吐き出された息は、開かれた窓の向こう側、夜闇にまぎれて消えてしまった。それは一週間溜めつづけていた、彼の不安そのものだったのだろう。
「……分かった。来週の今日も開けておけ。お前のご両親に挨拶しに行くぞ」
「はい!」
 そうして置いてきぼりにされた周囲がやっと状況を飲み込むまでの一拍を置いて、リヴァイの自宅は歓声に包まれた。
 餃子パーティーはその場でリヴァイとエレンの婚約パーティーに姿を変え、みながそれぞれ祝福の言葉を二人に浴びせ、祝杯は全て開けられた。
 随分ニンニクくさい祝福の場であったが、そのことを気にする者は誰もいなかったのだ。
 二人の告白劇の立役者であるはずの大盛り餃子は、たらふく食されてもはや影も形もない。
 







今日は何の日餃子記念日





(餃子に負けたプロポーズか……)
「おいエルヴィン、余計なことは言うんじゃねぇぞ」
「いや、この一週間、相当気を揉んだであろう君を祝福するよ」
「あぁ、正直生きた心地はしなかったぜ」




2015/4/3
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