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あなたの仕合わせを願えば願うほど





 あなたの仕合わせを願えば願うほど、わたしが不仕合わせになるのはなぜでしょうか。

 最近の六代目火影の腑抜けには目に余る。もっぱら上忍待機所の寸暇を縫うように持ち上がる話題は、そろそろ無視できない深刻さになってきた。なぜなら、里の長であるはたけカカシが腑抜けているのは、間違いなく事実だからだ。ただでさえやるべき仕事は山積みなのに、頭の痛くなるような問題にシカマルは眉間を揉んで溜め息をつく。
「僕も聞きましたよ。六代目の話」
「人の口に戸は立てられないからな……」
 執務に追われるシカマルに任務の報告で来ていたサイは首を傾げた。
「でも、六代目のことは噂じゃないんでしょう?」
「ん? あぁ……」
 生白い肌に何を考えているのか窺い知れないまなこで問われ、一瞬シカマルは言葉に詰まる。初対面であまり良い印象を持たなかったとはいえ、ナルトに感化されてから表情豊かになった仲間を、シカマルは最初のころほど苦手としていない。比較対象があくまで最初であることに含まれる微妙なニュアンスは、察してほしい。
「だって、『人の口に戸は立てられない』って噂話のことを言ってるんですよね」
「あぁ……、サイはよく勉強してんだな」
 思わず上から見たような物言いになってしまい失言したと眉を顰めても、言われた当人からは気にした素振りは見られない。ナルトに感化された時分、サイはまだ自分らと同じく少年であった。それまで根として、上から命令されたとおりに行動してきたサイは、ナルトやサクラと関わるうちに自我がめばえ、とまどう感情のままに答えを人類の残した英知の結集――本に求めた。字面どおりにしか受け取れず、機微も読めなければ応用もできないサイの素直すぎる欠点は、長じるにつれマシになってきた。それでも思い出したようにポロッと漏らしてしまう融通の利かなさは、当人の涼しげな顔もあいまってわざとなのかと勘繰ってしまう。おもにナルトやサクラを怒らせるときは意図してなのだろうとシカマルは推測していた。サイなりの、ふたりへのコミュニケーションなのだと思えば、はなはだ面倒くさい奴だと思いはするが、別に自分が関わることでもないしと傍観していたというのに。はたしていまの状況はどちらなのだろう。思案に沈もうとするシカマルの意識を、サイの声が呼んだ。ただしくは、呼んだのはシカマルではなく、
「あ、噂をすれば六代目」
「え、なんの噂?」
 困ったように眉を八の字に下げ、軽装な出で立ちで執務室に入ってきたのはシカマルの頭痛の種・はたけカカシその人であった。
「六代目が最近腑抜けているという噂は、噂じゃなくて事実ですよねと話してました」
「おい、サイ!」
 正直に……正直すぎて鋭く研ぎ澄まされた言葉に、肝を冷やしたのはシカマルのほうだ。空気の読めなさはだいぶ改善されたと思っていたさきほどまでの自分を殴りつけたい。こいつのいったいどこに、人の機微を察する思慮があるというのだ。
「これはまた……、耳に痛いね」
 サイの言葉で切り付けられたと言ってもいいカカシは、困ったように笑い視線を伏せる。顔半分がマスクで覆われているとはいえ、その優れない顔色と目の下の隈に憔悴は隠せない。だから腑抜けなどと呼ばれるのだと、シカマルは内心で舌打ちする。
「いったいその魂、どこで抜いてきたんですか」
 歯に衣着せないサイにシカマルは遠い目をする。「たましい?」と目を丸くするカカシに、「腑」とは魂や心を指すのだとサイは言う。
「はいはい。サイ先生のご高説はまたの機会にしてくれよ。六代目、なにかご用があったんでしょう」
 サイの背を押し追い払い、依然浮かない顔のカカシに向き直る。サイはやはり気分を害した様子もなく、「それでは」とひとこと短く言い退出した。
「魂、心、ねぇ……」
 譫言のように小さく漏らすカカシは目の前のシカマルすら目に入っていないようで、だからこそシカマルは心のうちで毒づくことができる。
 ――あんたはそれを自ら捨てたんだろうが、と。

 思えば、サイは最初こそ本当に空気の読めない奴だったのかもしれないが、さきほどの件はやはりわざとなのだろう。あいつは空気を読めないんじゃない、あえて読まないのだ。そこにこそサイの本心が隠れているように思う。サイが意図して空気を読まないのは、ナルトやサクラに対しては親しい者だからこそできる甘えで、カカシに対しては、まさにその親しい者を傷つけられた義憤に駆られてのことなのだろう。サイは昔から、あの涼しい顔の下で意外と頑固で義に厚い面を持っている。今回も――かつてナルトのけがを口止めされたにも関わらずサクラに伝えたように、またサクラに口止めされたにも関わらずナルトにサスケ処分の件を知らせたように――サイなりに許せぬものがあったのだろう。
 カカシがナルトを振ったことに。



 ナルトとカカシが付き合い始めたのは、修業の旅に出ていたナルトが里に戻ってきてからというからもう四年も前のことだ。この四年は、忍界ひいては世界を賭けた戦争がはじまり終わり、怒涛のように駆け抜けた日々だった。激動の隙間を縫って、細々とも思いを交し合い恋人同士となっていたふたりだが、戦争が終わりカカシが火影になり、ナルトの齢が十九を数えたころ、カカシから別れを切り出したらしい。ナルトは納得がいかないと喚いたが、カカシは頑なにとりあわずそれからいちねん。少しずつ、鰹節でも削るように薄く、カカシは摩耗していった。薄い一枚でもたび重なれば嵩は減る。目に見えるようになったのは最近だが、カカシがいちねんも前からゆるやかに自傷しているのをシカマルは見て知っていた。かける言葉はない。
 ――カカシ先生が言うんだ。オレのためだからって。男同士とか、里の英雄とか、次期火影とか、恩師の息子とか、カカシ先生が理由をあげればあげるほど、オレは悲しい。先生のそういう「だめだ」っていうたくさんの理由にさ、結局オレは勝てなかったんだ。男同士でもなんでも関係ない、オレはカカシ先生が好きなのに、先生はそうじゃないんだ。それがオレにとってはすごく悲しい。
 サイの憤りも分かる気がする。ナルトに悲しい思いをさせてまで手放しておいて、自分こそが辛いといわんばかりの腑抜けた面を見せられればなおさらだ。
 しかし仕事に私情は持ち出さない。シカマルほど、同期のなかでカカシと近しい人間はいないだろう。主に公の立場においてだが。
 シカマルはいまだぼーっと佇む上司を鋭く呼び、仕事にへと話を戻した。



 ナルトの出て行った部屋に戻るのが億劫で、カカシがこのいちねんで自宅に帰ったのは数えるほどだ。それでも優秀な補佐が恐ろしい顔をして促せば、十回に一回は素直に従う。
 扉を開ければ薄暗く、がらんどうな空間がカカシを迎えた。フローリングには埃がうっすら溜まり、とても素足をつけたい気持ちにはなれない。部屋のそこかしこに積もった灰の白を思えば、どうしてここを「帰る場所」にしているのかはなはだ疑問だ。
 いまから身を翻して火影塔に戻り、すっかり自らのスペース用に整えた仮眠室で眠りたい。しかし政務後の疲れた体をひきずり、人けのない来た道を引き返す無上さはカカシの体をさらに重くした。しかたない、フローリングに足跡を残しながら部屋に入るしかない。一夜明ければまたしばらくここには戻らないのだから、掃除する気にもなれなかった。
 もっと頻繁に帰るべきだと思う。いかに政務が忙しいとはいえ、帰れないこともない。それこそ一年以上前は、無理をしてでも寸暇を惜しんで帰っていた。この部屋に、ナルトもまだいた頃だ。
 思考は始まりに戻る。もとより忙しさを理由にしてはいなかった。カカシは明確に自覚している。ここに帰らないのは、ここにナルトがいないからだ。それでもまだここを「帰る場所」に定めているのは、ナルトへの思いをすっぱり断ち切れない自分の未練に他ならない。
 未練。そう、未練だ。なんておかしなことだろうか。オレはナルトを未練に思っている。
 いちねんも前に別れた――あまつさえ自分から別れを切り出した――男のことを諦められていない。カカシの胸は変わらずナルトを思い、温かな血を体中に循環させる。胸ばかりでない。ナルトが与えた左目はいまなお世界を鮮やかに映す。ナルトによって生かされた身に、ナルトの温もりを失った皮膚は冷たすぎる。ならどうして手放したのか。
 だって。



 結局、埃にまみれたベッドを見た瞬間寝る気が失せたので、カカシは少ない体力をなげうって酒場に来ていた。体は依然休息を求めているが、カカシは休もうとする肉体と精神を戒めるように苦行の酒を飲む。見る人から見れば、とんだマゾヒストのようだと思われるだろう。
「おや、六代目がヤケ酒ですか」
 昼間に聞いた声がしてカカシは顔を上げた。これが日中絶えず聞いている補佐官の声なら無防備に見上げることなんてしなかっただろう。なんの身構えもなく視界に飛び込んだ男は、能面のような顔でうっすら笑った。
「これはまた、ずいぶん腑抜けてますね」
「……サイ」
 隣いいですか? サイは尋ねさえしたがカカシが了承する前にさっさと座ってしまう。新生七班として入ったサイだったが、その指導――と監視――に当たっていたのはもっぱら後任のテンゾウ――ヤマト――であった。任務が一緒になるときもあったが、戦争をともに戦い抜いたと言っても良い。ナルトやサクラとの交流するにつれて、自分の意見・主張を持ち、最終的にチームワークを深めたサイの姿は、カカシから見ても好ましく映っていた。
 サイの態度の辛辣さを、もちろんカカシは理解している。そうだ、あの子は仲間から愛されている。あの子を傷つけた男を許せぬと態度に出してしまうぐらいには深く、仲間に思われている。仲間だけではない。その不遇の時代から及びもつかないほど、いまや里中が、世界中があの子を認めている。それはすべて、あの子が血反吐を吐いてでも我慢して耐え忍んで諦めずに進み続けてきた成果なのだ。
 胸が苦しい。
「……お前の言いたいことは分かるよ。あれでシカマルもな、本人は公私を分けて接してくれてるつもりなんだろうが、やっぱり隠しきれてない。サクラはどっちも取り持とうとしてくれるから見ていて余計につらい。まだお前みたいに明け透けなほうが気が楽だよ。……サスケなんか、絶対知っているのになんにも言ってこないんだもの。あいつの同期のなかでサスケがいちばん恐ろしい」
 あくまでナルトの同期に限定した話であるが。もはやナルトの自称保護者たちには顔向けできないし、慰霊碑にも忙しさを理由に暫く寄りつけていない。死者と生者どちらが怖いかと訊かれれば、カカシにとってはどちらも恐ろしいことは確かだ。だが本当にいちばん恐ろしいのは、それはナルトなのかもしれないし、自分なのかもしれなかった。
「そんなことを聞きたいんじゃないです。六代目……いや、カカシ先生は、どうして自ら悪者になろうとしているんですか」
 そうか。サイには自分がそう見えているのか。
「オレは……あいつの仕合わせを願っただけだよ」
「仕合わせ?」
 手持無沙汰にカカシは枝豆を弄ぶ。もうだいぶ渇いてしまった産毛の皮を揉みやり押しやり、艶やかな豆を出す。緑の丸はころりと転がり出る。ころころと、次いで飛び出して皿の陰に隠れた。
「なんて言えば良い? 男同士の外聞の悪さか、里の英雄を貶める関係か、次期火影すら危うくさせるかもしれない、あいつはオレの恩師の忘れ形見なのに……なにより、あいつに家族をつくってやれない、あいつの血を絶やさせてしまうことか。『カカシ先生』なんて呼ばれているのに、オレはナルトを、間違った道へ導いてるんだ。仕合わせになってほしい理由なんていくらでもある。あいつの仕合わせを思えば思うほど、オレがあいつに相応しくないことを痛感するんだよ」
 どうしてあの子を手放すなんて真似をしてしまったのだろう。後悔することは目に見えていた。カカシにとって戦争後の人生はナルトが生きる理由なのだから、ナルトを失うということは、生きながら死に絶えるということと同義だ。知っていた。分かっていてなおどうして手放したのか。ナルトは、必死に縋ってくれたのに。
 だって、見てしまったのだ。ナルトに告白する女の子を。付き合っている人がいるからと、それを断るナルトの姿を。彼女もそれは了解済みなのだろう。それでも言わずにはいられなかった。それだけナルトを思っていたのだ。彼女の差しだした愛情を、ナルトはカカシの情を既に持っているから受け取らなかった。カカシが捨てさせた。ナルトが受け取るかもしれなかった可能性を、カカシが。
 彼女との未来は、カカシを選んでまで捨てるべきものだったのだろうか。カカシの未来は、彼女と歩むはずだった人生よりナルトを仕合わせにするだろうか。
 ナルトが手放したものを、これから手放すものを、途端にカカシは恐怖するようになった。カカシの思いさえ握っていなければ、掴めたはずの未来。
 自分は値するのだろうか。その未来を奪ってまで、自分は彼の手を塞ぐのか。
 ――もともと一本、親友のためにくれてやった手。その両手をいま独占して。
 ナルトが本来握る手は誰だったのだろう。
 それは柔らかく、傷もなく、そしてまたふくよかで小さな手であったはずだ。ナルトの血を継いだ子どもは、きっと可愛い。
 誰があいつの仕合わせを決めるのか。それはあいつ自身に他ならない。それでも、カカシがその手を握りつづけることはできなかった。追いすがった手を躱して、それでも諦めずに伸びた手をカカシは打ち払った。
 ――だめだよ、ナルト。だめなんだ。
 ――……そっか。分かったってばよ。
 最後にそう言ったのはナルトだ。あぁ、彼の諦めないど根性を自分は手折ってしまった。それはとても罪深いことのように思えたのに、それでも彼の手を再び取ることはできなかった。いまさら合わせる顔もない。
「カカシさんはチンポも玉もないようなことを言うのに、男同士であることは気にするんですね」
「ハハハ……、そうねぇ、自分でも意気地なしだとは思うけどね」
 乾いた笑みを漏らしながら、口元は苦い。力が足らず、また未熟で、失うばかりだった自分に、ナルトはなんと多くのかけがえのないものを与えてくれただろう。その自分が、ナルトからなにを奪おうというのか。自罰意識は徹底的にカカシを追いつめた。長年寄り添ってきた自らを呪う声は、いままで誰にも打ち明けたことはない。
「カカシさん、仕合わせという字について考えたことはありますか」
 サイはおもむろに懐から紙を取り出して、そこに「仕合わせ」と書きつける。突然の行動に面食らうのもしかたなかろう。居酒屋に紙と筆。紙の端が、テーブルの乱雑さに置かれてすぐに水分を含んでいく。
「僕はずっと不思議だったんです。仕合わせという言葉に、どうしてこのような字を当てたのだろうと」
 深夜の字義講義。疲労とアルコールで怠い頭を支えたまま聞くにはいささか不便だ。それでも、素面のサイには聴講するカカシがどんな状態かなどと頓着しないようだった。
 ――「仕」とは「仕える」「仕(つかまつ)る」というように、「つかえる」「してあげる」という意味です。奉仕の意味合いが強い字を持ってきて、これに「合う」が続きます。「〜し合う」というように、お互い仕え合う。これが「仕合わせ」という字です。僕が思うには、仕えるなんて主従の立場の差異を強調させる字を持ってきておいて、「合う」というふたりを並べ合わせる字を後ろにつけるところがミソなんだと。それぞれ立場も考えも違う人間ふたり、対等に結びつける巡りあわせこそが仕合わせなんだということだと思います。
「ふぅ〜ん……。サイは勉強熱心だね」
「カカシさんの言う『仕合わせ』が、ナルトとカカシさんの立場の違いを強調し断絶させているのは、『仕合わせ』なのではなく『不仕合わせ』だからだと思うんです」
「……そっか」
 そうかもね。



 あれからサイはソフトドリンクを飲み終えて早々に帰ってしまった。言いたいことを言って満足したのだろう。取り残されたカカシはぐずぐずと居残り、丑三つ時にとうとう店から追い出された。これからどうしようか。埃まみれの部屋に戻るつもりは毛頭ないし、火影塔にいまから行けば追い出されることはないだろうか。
 アルコールで火照った体に夜風は容赦なく吹き付ける。寒さに身震いして、月と街燈以外に明かりのない道を歩く。軒を連ねる窓からはカーテンが引かれ暗く沈黙している。
 心身ともに疲れ果てたというのに、足はとぼとぼと進むものだ。いまが夏なら虫の声ぐらいは聞こえたものを、静寂と夜闇に支配された道は別世界のように思えた。ぽつんとカカシひとり。
 親を亡くし友を亡くし師を亡くし、失くしてばかりの人生だった。それでもこの手に残ったものは、誰かが与えてくれたものではなかったか。それすら手放したカカシに残された絆はない。なるほど、ひとりだ。自ら縁を断ち切ったのだから、全く自業自得である。
 空っぽの両手を隠すようにポケットに突っ込んで、役立たずの頭を置いてきぼりにしたまま、足だけが動く。剥き出しのつま先だけが前を向いていた。
 無意識の行動というのは、意識していないからこそ当人の欲求を素直に映すのかもしれない。なら、カカシが立ち止まった場所にもなにかしら意味はあるのだろう。
 道を挟んだ向かい側にナルトの住むアパートがあった。二階の角部屋である彼の居室は、唯一まだ光が灯っている。丑三つに店を追い出されて、ゆっくり歩いてきていま。あともうしばらくすれば、冬至も過ぎて久しい春待ちの夜空も白々と明けてくるだろう。
(まだ起きてるのか)
 ナルトはいま忙しい。いかに英雄と祭り上げられようとて、彼にはまだ実績が足りない。カカシはもう少しのんびり見てやりたかったが、優秀な補佐官は早く頭をすげ替えたいらしく――もちろん冗談だ――ナルトのスケジュールはあっというまに任務で埋まってしまう。僅かな寸暇に休息を取る大切さを、口を酸っぱくして教えたというのにな。ひとり寝に慣れているナルトは、昔から寝るのが異常に早い。夜の孤独を知っているからだ。そんな彼が眠れなくなるのは、魅力的な娯楽があるからではなく眠れないほど気に病むことがあるときだと知っていた。なにがお前を憂えさせるのだろう。忙しくても夢に向かって前進する日々はたしかに充実しているはずだ。わずかに空いた時間にも、楽しそうに仲間とつるんではしゃいで笑っているではないか。若く美しい女の子たちに囲まれて、好意を無下にせず誠実に対応していたお前を知っているぞ。
 あぁ、いまだ明るいその部屋の窓を叩くことができたなら!
 夜明け前の深い時間に、突然師であり上司である元恋人の酔っ払いが押し入る行為は、さすがに常識外れである。
 それでも、ナルトの師であり上司であり酔っ払いでも、恋人でさえあるならば、はた迷惑な闖入も許されただろうか。
(きっと電気を消し忘れただけだ)
 疲れて電気を消す前に寝入ってしまったのだろう。明日になったら、シカマルにナルトの任務スケジュールを調整させよう。いかに体力に絶対の自信があるナルトでも、限度がある。
 煌々とカーテンの生地から漏れる光。電柱にもたれかかりながら、カカシはその光を見上げていた。固いコンクリートに背中を押しつけていないと、柱はすぐにでも後方に飛びすさってしまいそうだ。
(電気を、消し忘れただけだ)
 部屋の主が眠った部屋に不法進入し、こっそり電気を消すだけなら誰も咎めはしないだろうか。いや、いかにナルトとていっぱしの忍者なのだから、さすがに気付くだろう。気付かなければそれはそれで問題だ。
 いや、だから、そんな、実現できないことをあれこれ思い巡らせてみても、詮無いことだろう。
 ――だってこの距離を望んだのはお前じゃないか。
(電気を、消し忘れた、だけだ)
 ベッドでナルトが寝入っている。穏やかな寝顔を見ながら、つけっぱなしだった部屋の電気を消す。ごめんな、待っててくれたのに。吐息のように呟いて月光に照らされた横顔に口付ける。おやすみ。そうして同じ布団を共有して眠りにつく。なんの疑問もなくそれが許された日々は確かにあったのに。
 失くしてしまった。
 ――あなたの仕合わせを願えば願うほど、わたしが不仕合せになるのはなぜでしょう。わたしが望んだことなのに、どうしてこんなに心は苦しい。後悔ばかりの人生を送るのでしょうか。
「仕え合う、か……」
 命を与えたナルトに、自分の一生を捧げて仕えるのなんて容易だ。ただそれをナルトにも望むことは、たいへん難しかった。たとえナルトがそのつもりでも。
「はなから仕合わせなんて、オレには似合わないからなぁ」
 そうやって背を向けてばかりだった。
(……帰るか)
 どこに?
 夜明けが近かった。地平線はまだ青い。
 逃げなくては。
 なにから?

「カカシ先生はさ、元エリート上忍で現火影のくせに、気配隠すの下手になったよな。だから最近の火影は腑抜けだなんて言われるんだってばよ」
 太陽がカカシのすべてを曝け出してしまうまえに、カカシは背を向けるべきだったのに。
「……ナルト」
 窓から顔を出したナルトは、薄暗闇に分かるほど仏頂面をしている。必死で目を凝らす先で、ナルトは窓のふちに足をかけると身軽に飛び降りた。
「おいっ」
「シーッ! 先生うるせぇ! いま何時だと思ってんだ!」
 唇に人差し指を当てて厳しく制するナルトの声のほうが、よっぽどうるさい。閑静な夜更けによく響く声は、カカシの鈍重な体のうちにも響き渡る。響く、それは振動だ。ドクンドクンと体は打ち付ける。
「……すまん。その、起きてるとは思わなくてな、てっきり電気を消し忘れたんだろうって、」
 なにを言ってるんだ。なにに対する謝罪なんだ。カカシは頭を振る。余計にアルコールが回ったみたいだった。
「先生はオレが電気を消し忘れたかどうかが心配で、ずっとそこに突っ立ってたのかよ」
「あぁ、そうだな……久しぶりに飲んだから、酔い覚ましに歩いてたらな、たまたま」
 嘘だ!
「たまたまオレん家について、それで電気がついてたからオレが消し忘れたか心配になって、それで?」
「それで、それで、な。どうしようか考えてた」
 本当はもうどうしようもないのだと打ちひしがれていた。いまさらどうすることもできないのだと自分に言い聞かせないと、いまにもその窓をこじ開けてしまいそうで怖かった。
「先生が、別れようって言ったんだろ」
「……そうだな」
「オレは嫌だって言ったのに、先生がだめだって言ったんだ」
「……そうだな」
「じゃあどうしてっ」
 そんなのこっちが聞きたい。アルコールになど飲まれていないはずなのに、すっかり酩酊した頭はカカシに思ってもみない行動をとらせる。このいちねんですり減らされた神経が、目の前に立ったナルトの存在に過敏に反応していた。頭が痛くなってくる。カカシも、きっとここが限界だったのだ。地平線が白く浮き出る。ここが。
「どうしてだろうなぁ。だってナルトが、オレのこと追ってきてくれないから」
 オレのほうが来ちゃった。無意識に零れ出た言葉だった。理解が遅れてやってきて、言った当人がびっくりしてしまったぐらいだ。そんなこと、一度も思ったことなどないというのに。責任転嫁もはなはだしく、あまりの恥ずかしさ・居たたまれなさに顔から火でも噴きだしそう。
「なんだよそれ……、なんだよそれ!? だってオレ、なんども別れたくないって言ったのに、だめっつったのはカカシ先生のほうじゃねぇか! オレが先生を追いかけなかったから……? オレが諦めずに先生のこと追いかけたら、別れてなかったってことかよ……!」
 夜明けのしじまを切り裂いたナルトの激情。身勝手な奴だと詰ってほしいのに、ナルトは怒りではなく哀惜を燃料に燃やしていた。どうして。
 ナルトの仕合わせを勝手に決めて、嫌だと言うのに身勝手に傷つけて、いまもまた勝手にナルトの責を問おうとする。理不尽なばかりの男のことを、ナルトはそれでも惜しむのだ。いちど手にした繋がりにたいして、ナルトほど貪欲に頑なに、決して手離さない奴もいないだろう。その繋がりこそがみずからを傷つけると分かっていても。
「だってお前、……サスケのことは諦めなかったじゃないか」
 地の果てでも追いかけて、ぶんなぐってでも連れ戻す。そうして取り戻した絆を、カカシは眩しく見つめていた。
「オレのときは『そっか』で終わりだったじゃないか。お前とオレの気持ちは、本当に対等だったのか」
 ナルトの未来に自分はふさわしくないと身を引いたカカシと、だめだと言われればそれ以上追いすがることをしなかったナルト。
「なんでオレのこと、諦めちゃったの」
 苦心して寄りかかっていた電柱から、背中を離すのは簡単だった。だらりと下げている両手を掬い包み込めば、ナルトはびくりと震える。その反応はオレが怖いのか。ナルトの反応に、いちいち傷つく自分がいる。頭が痛い。どくどくとこめかみは脈打って痛みを伝播させる。痛みを止められないように、カカシも止まらなかった。
「好きって言ってくれたじゃない。自分の言葉はまっすぐ曲げないんじゃなかったの」
 ねぇ、もうこんな、お前に八つ当たりすような男は嫌いになっちゃった?
 笑おうとして、まなじりが歪んだだけだった。顔が熱いのに、頬が冷たくなってくるのはどうしてだろう。逃がさないようにと包み込んでいたナルトの手が動いて、カカシの指と指の間に自らの五指を絡ませる。ギュッと、力強く握られた。どうして。いまになってこんなに強く。
「……先生、聞いて。オレは、先生のこと諦めたわけじゃない。でもどうしたらいいのか、分からなかったんだ。だってさ、オレさ、知らねぇもの。サスケはさ、友達じゃん。兄弟みてえに思うし、ライバルだって認めてるけど、サスケと先生は違うだろ。カカシ先生はオレの先生で、……恋人じゃん。オレ、……家族なんてほんとはよく分かってねぇんだ。恋とか愛とか、そういうの、先生からいっぱい教えてもらったし、先生だけじゃなくて、母ちゃんとか父ちゃんとか、イルカ先生やエロ仙人やみんな、教えてくれたけど、でもやっぱり先生が『だめ』って言うから。『だめ』なら、『だめ』って言われたら、じゃあどうすればいいだろうって。これっぽっちも分からねえの。オレひとりががんばってもどうにもなんねぇとき、こういうときはみんな、どうしてんだろうな。ひとりでずっと考えてさ、やっぱり分からなくて、分かんねぇままカカシ先生には会えないしって、そう思ってた。でも、ほんとうは違うんだな。……先生が泣くところ、初めて見た。オレってば、すっげえ間違った道をひとりでぐるぐる進んでたんだ」
 ――あいつも失敗するかもしれないよ。そりゃあね。
 それはかつての自分の声だった。あのとき友は、「なぜ」と問うた。
 ――あいつが道をつまづきそうなら、オレが助ける。
 それはかつての自分の誓いだった。
 どうして忘れていられたのだろう。どうして目を凝らさずにいなかったのだろう。ナルトは、カカシの希望は、こんなに不安に震えていたのに。カカシを握る手の強さは、震えを抑えるためだったのだな。
「あぁ、あぁナルト、ナルト、ごめん、オレが間違ってたんだ、おまえを……、ナルト、愛しているんだ、ごめんなナルト、ナルト、あいしているんだ、どうしようもないんだよ、ナルト、あいしてる……」
 カカシはナルトの体を抱きしめた。ナルトはずっと戦っていたのだろう。諦めてしまったほうが、ずっと楽だったろうに。ひとりでぐるぐる迷いながらも、歩みを止めたりしなかった。ナルトはずっと、オレを追っていたのに。それを見ようとしなかったのは、震える手を掴んであげなかったのは、自分だ。
「ナルト、ごめんな、どうか許してほしい。オレはどうしようもなくずるい大人で、臆病で、逃げてばっかりでおまけに嘘つきだけど、ほんとうは、ほんとうはな、」
「うん。知ってる」
 カカシの背にナルトの腕は回っていた。あたたかく柔らかい。くっついた胸のはざまで、鼓動を感じる。それはナルトを生かし、またカカシをも生かすダイナミズムだ。
 ――先生がオレをすっげぇ好きだって知ってる。だから諦めることなんてできなかったんだ。
 ナルトは知っている。認知はたやすくカカシの膝を折った。しがみつくように縋る。 「あぁ、ナルト、ごめん、ごめんな、あいしてるんだ、ナルト」
「うん。うん。知ってるってばよ」
 このいちねんで失くしたものを、どうして一瞬で再び手にすることができるのか。幸福が過ぎる。過ぎたる幸いは怖いと泣く。それでも抱きしめたナルトだけはなくならなかった。
 ――人間ふたり、対等に結びつける巡り合わせこそが仕合わせなんだということだと思います。
 巡り合わせというのなら、これほど残酷な繋がりをカカシは知らない。カカシの胸を熱く打つナルトとの繋がりが断ち切られれば、カカシを今生に結ぶものはなくなってしまう。ナルトがいなければ、容易く自分は死んでしまうだろう。それは予感などではない。それこそが巡り合わせ――運命――なのだ。
 ――あなたの仕合わせを願えば願うほど、あなたに会いたい、あなたと合いたい、あなたを愛したい、愛仕合いたいと叫び、わたしの胸は絶えず力強く脈打って血が巡っていく、それが命となるのを知る。あなたに生かされている。このように尊いことを、わたしは「仕合わせ」と呼ぶ以外の言葉を知らない。



「えっ、謝ったら許してもらえたんですか」
 えっ、復縁できたんですか。おめでとうございます。と言われるのではないかと予想していたが、復縁できた以前に謝罪を受け入れられたことのほうを驚かれている。カカシとナルトの仲を取り成そうと、いちねんも気を遣わせてしまった彼女の思わぬ本音に――彼女にすら許すまじと拳を固められていたとは――カカシは項垂れた。
「うん……。すまなかったな、本当にいろいろと……。サイも」
 ツーマンセルの任務後、サクラとサイは二人並んでカカシの前に立っていた。
「僕の日頃の勉強も、お役に立ちました?」
 サイは笑いながらウィンクする。カカシは思わず目を逸らしてしまった。火影になっても怖いものは怖いのだし。
「なんの話?」
 すかさず目を光らせるのは、サクラの好奇心だ。女の子は自分の蚊帳の外で起こった恋愛事情の機微に、こうも敏感になるものなんだな。カカシが遠い目をする先で、サイは居酒屋でカカシに話したとおりの講釈をサクラにも披露する。
「……巡り合わせが仕合わせっていうことだと、」
 しかしその説明はサクラには納得しきれないものがあるらしい。ぐっと眉間に皺を寄せたかと思えば、
「サイ、ちょっとここで待ってて!」
 と言い置いて自分は火影室から飛び出してしまった。
「報告終わったのか?」
 サクラと入れ違えるように入室したシカマルが、その両手に夥しい量の書類を抱えている。その量にカカシは目を剥く。
「えっ、なにそれ」
「もちろん仕事ですよ」
 ほら、用が済んだならサイも帰んな。シカマルはサイを促すが、サイは首を振った。
「いいえ。サクラにここで待っているように言われてますから」
「火影室を待合室にするのは勘弁してほしいぜ……」
 ぼやくシカマルが溜め息を吐き切るよりも早く、サクラは戻ってきた。手に分厚そうな辞書を抱えて。
「サイ! あんたの独自性溢れる解釈もいいんだけど、やっぱり正しい意味を知っておく必要があると思うの。見て。仕合わせの『仕』は『為』の当て字で、『仕える』という意味はないの。本来は『為合わす』、為合わすとは『物事をうまくやりおおせる。つじつまを合わせる』って意味なのよ」
 辞書の薄い紙をぱらぱらめくると、サクラはその文言を指先で指し示した。「そうなんですね」と軽く相槌を打ったサイは、よほど勉強熱心なのだろう、懐から出した紙に書きつけていく。
「でもそしたら、本来の意味でもカカシさんはしあわせですね」
「オレ……?」
 サイの持っているメモ帳から長い鼻の象が飛びだし、人の手がそれを撫でた。象は恭しく器を掲げ、墨の手が蓋を被せる。そうしてパッと黒墨は散った。『為』と『合』。
「おい、書類が……!」
「ナルトとうまくヨリを戻すことができましたし、つじつまって道理のことですよね。正しい道に戻れて良かったですね」
 うっすら笑うサイに、やはり空気は読めないのではなくあえて読まないだけなのだなとシカマルは悟った。しかしそれより墨の飛んだ重要書類のほうが大事だ。
 まったく、ひとつ頭痛の種が減ったと思ったら……。今度こそシカマルは、腹の底から吐き出される溜め息を隠すことはしなかった。
 カカシはそんなシカマルを見て、「書類の最申請に時間かかるだろうし、ちょっと外すね」などとあっけらかんと笑う。
 朝から任務に出ていたナルトが里に戻るのはもうすぐの予定だ。ちょうど八つ時。甘栗甘でもふたりで寄るつもりなのかもしれない。
 仕事を為すっていうのも大変なものだ。シカマルは素早く脳内でスケジュールを調整すると、自身も煙草休憩に向かう算段を立てるのだった。

















2017/3/1
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