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オレから離れないで





「オレってば、カカシ先生から卒業する!」
 唐突にナルトが宣言したのは三月の春も麗らかな昼過ぎのことだった。柔らかな陽光がナルトの跳ね返った髪に当たり、キラキラと輝いているのをカカシが見つめていたときのことだ。なんで髪切っちゃったの。短くなった毛先に指先を戯れさせたい衝動を必死に堪えながら聞けば、あっけらかんと大人になりたくてと答える。その口で。「カカシ先生から卒業する」……卒業?
「オレはいつお前に入学されてたの」
 苦い溜め息を噛みながら言う。目の前を歩いていたナルトが振り返り、顔を皺くちゃにしながら笑う。
「オレがもっとずーっとガキのとき!」
 いまだって、大人になりたいと背伸びするガキのまんまじゃないの。確かに、ナルトの同期はこの大戦を生き抜いて随分大人びてたくましくなったし、戦争の英雄と謳われるナルトとてその成長は誰の目から見ても明らかだろう。ナルトがもっとちんくしゃなころからずっと見ていたカカシからすればなおさらだ。それでも、いやだからこそだろうか、幼子のように屈託なく笑うナルトに、まだあどけなさが抜けきれず、誰よりもいちばんまだまだ手のかかる教え子だと甘やかしてやりたくなるのは。ナルトはそんなカカシの心情を見抜いていたのか。それで、卒業?
 なるほど。ナルトが、オレから、卒業。その言葉はひたひたとカカシの胸に浸み込んで嵩を増していく。
 大人になりたくて。そう言って髪を切ったナルト。ナルトが大人になるためにオレを卒業していくというのは、筋道が通っているのだろう。卒業とは一歩踏み出して成長することだ。大人に一歩近づくこと、大人になることと言っても過言じゃない。
 でもそんな急に。
「さびしいじゃないの……」
 遠ざかっていく背中にひとりごちても、ナルトが振り返ることはなかった。ちょっとそこで行き会っただけ。ナルトはまっすぐ一楽へ。オレはこの通りで曲がって火影塔へ。別れの挨拶のあとに、どうにも気になって聞いたのだ。なんで髪を切ったの。ナルトは答えた。大人になりたくて。それから、「オレはカカシ先生を卒業する」
 とぼとぼと向かった火影室で、その日はまったく仕事にならなくて、となりで優秀な補佐官がすごい顔をしていた。しかしカカシの胸には卒業という言葉が浸水して溺れそうだ。

「まったく使い物にならねぇっすね」
 三週間後火影室。すごい剣幕のシカマルが常よりあからさまな態度で言う。
「だってナルトがオレから卒業するって言って、それから本当に事後報告書とかオレに助けを求めずに仕上げてくるんだもん。もう先生、寂しくって寂しくって」
「六代目」
 窘められても弱音は止まらない。上忍になったナルトは任務達成後に報告書を書く機会が多くなった。しかしナルトが器用に報告書なんか作れるわけがない。毎度カカシに「せんせ~、教えてくれよ~」と泣きついてはカカシが懇切丁寧に報告書の書き方を示してやるのだ。放っておけばカカシの一言一句をそのまま書き写そうとするナルトを叱咤したり、任務中の出来事を楽しそうに語るナルトに相槌を打ったりしながら。褒めたり励ましたり発破をかけたり。ナルトの報告書作成の時間は、多忙を極める火影業のなかで唯一のカカシの癒しの時間でもあったのに。一丁前のカカシ先生卒業宣言から、ナルトが泣きつくのはぱったりと途絶えてしまった。代わりに完璧な報告書が上がってくる。難癖をつけても引き留めたいカカシの心をあざ笑うかのようだ。
「オレ、なんかナルトを怒らせるようなことしたかなぁ」
 一楽でも奢ってやろうかと誘えば、もう自分の金で好きなだけ食えるからと断られる始末だ。とても悲しくてその日は書類にサインをするつもりが、サイの絵巻帳におびただしい数のへのへのもへじを量産してしまった。
「むしろ逆でしょう」
 その後仕事だけはきちんとこなした六代目火影に補佐官は溜め息ひとつ。いまは二酸化炭素を吐き出すのも無駄と言わんばかりに口を真一文字に結んでいたシカマルが、しぶしぶ言い放ったのだそれだった。
「逆?」
「『尊敬するカカシ先生に認められたい』から、そうやってカカシさんに頼ってばかりの自分を改めんだと思いますけどね」
「尊敬するカカシ先生……」
「まあ親離れみたいなものでしょ。あいつにとって」
 ナルトからの憧憬はカカシにとっては甘い蜜のようなものだ。うっとりとその言葉を繰り返すのに、水を差されてカカシは肩を落とす。親離れ。親離れねぇ……。たとえであるのは承知しているが、ナルトの父親はカカシの師である。複雑な気分は拭えない。
「子どもにとっては親離れは必要なことでしょうが、親にとっては寂しい。カカシさんもそういうことなんじゃないんすか」
 何が悲しくてひとまわりも年下の青年に諭されなくてはいけないのだろうか。そうだね。カカシはそう言うに留めた。

「よ! オレから卒業後は順調か」
 昔ナルトが済んでいたぼろアパートが懐かしい。窓枠に足をかけて、よく野菜を届ける名目で顔を見たものだ。
「カカシ先生、どうしたんだよ急に」
 びっくりして目を丸く見開いたナルト。オレはもうナルトの住んでいる部屋の窓に足をかけることはできなくなってしまったから、ナルトの部屋に訪れるには正々堂々扉をノックするしかないんだ。オレを迎え入れたナルトは「なんだか先生がドアから入って来るなんて変な感じだな」とこぼす。そうだろう。カカシがナルトの部屋に押し入っていたのなんて、ナルトが幼かった随分昔の話だ。
「元気でやってるか」
「なんだそれ。昨日も任務報告したじゃん。すっげぇ元気! そんで超順調!」
 どうだと言わんばかりに胸を張る。カカシはその胸に、みずからの手のひらを重ねたくてしょうがなくなってしまった。
「ふぅん。随分絶好調みたいだな。オレはこんなに寂しかったのに」
「さびしかった?」
 カカシ先生が? なんで?
 無知な子どもだ。それを悪びれずに言えてしまう。なんでなんか、そんなの。
「お前がオレから離れちゃったからだよ」
「離れた? なんで。オレはここにいるだろ?」
 そうだ。目の前にいる。でもこんなに遠いのだ。ナルト。
「オレから卒業なんか、するなよ。ずっとオレのところに在籍しててよ」
 お前に頼られることはオレの至福だった。オレの背を追いかけてくるお前、構ってくれとやかましくまとわりついてきて、いつも、いつも。
 愛おしく思っていたんだよ。
「卒業? あぁ、あんとき言ったな。先生から卒業して、オレってばちゃんと大人になって、それで先生と並ぶ立派な忍者になって、いつか火影になるんだ。先生に頼ってばっかりなんて、かっこわりいだろ。そろそろ先生に頼られる忍者にならなきゃな! そのためには先生へのいぞんしん? から卒業すんのよ!ってサクラちゃんがさぁ」
 お前から向けられる憧憬ほど、おもはゆくまばゆいものはなかった。それはオレにとってまっすぐ進み続けるための指針にもなった。オレの背中を追いかけるお前に、間違った道は進めさせられないでしょ。格好悪いところなんて見せられないでしょ。
 お前も?
 でもそれでオレから離れていこうとするなんて、やっぱりお前はなんにも分かってない。もうその背を追いかけなくちゃいけなくなっているのは、とっくのとうに自分のほうなのだ。
 オレから離れないで? ちがう。もうそんなことを言える段階じゃなかった。
「じゃあオレが入学しようかな。お前に」
「オレに?」
「そ。うずまきナルトにね」
 離れないでと乞うのではなく、離すものかと。そうだ。オレは死ぬまでお前を留年し続ける自信があるよ。
「ナルト、卒業おめでとう。それからオレは入学おめでとうだね」
 四月の春のことだった。









respect:ヤマシタトモコ先生




2017/3/25(初出)
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