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食欲の秋





 いまでこそ信じられないけれど、昔のリヴァイさんはあまり肉食を好んでいなかったみたいだ。オレと一緒に行ったのが正真正銘、生まれて初めての焼き肉屋さんだったんだって。要は食わず嫌いだったんじゃねえかと思う。最初こそ恐る恐るといったていで肉を口に運んでいたけれど、次第に箸さばきのスピードと豪快さが増していき、しまいには見事な喰いっぷりをオレに披露した。
 リヴァイさんはメニュー表を見ながら、これはうまいのか、今度はこれを食べてみたいと好奇心の赴くままに肉の部位を読み上げる。奢られる立場にあるオレは、一心不乱にリヴァイさんのリクエストをタッチパネルで注文していった。これまでめったに食べてこなかったのに、いざうまいと分かるとあれもこれも試したくなる。オレより十五も年上なのに、大人の余裕も悔しいほどあるのに、こんなときは子どもっぽいんだなと面白がったことを覚えている。
 一緒に焼き肉を食べたそのときは、リヴァイさんと知り合ったばかりの頃で、そこまで彼と親しくなかった。というより、お互いのことをまだ知らないまま食事に行き、もしかしたらこれから交際を持つんじゃないかという無意識の駆け引き段階の最中だった。
 大学の飲み会でしこたま酒をかっ喰らい、見事べろんべろんに酔っぱらったオレが絡みに絡んだのが、隣のテーブルで職場の同僚と飲んでいたリヴァイさん。オレはまったく覚えてないけれど、どうやらそこでほどよく酔っていたリヴァイさんと意気投合したらしい。前後不覚で帰れなくなってしまったオレを、タクシーに乗せ自宅の玄関まで送ってくれたというのだから人が良すぎる。オレはリヴァイさんを見送ることもせず、タクシー代も払わず、扉を閉めた途端に廊下でこんこんと眠り、ひどい二日酔いとともに朝を迎えた。スマホに入った知らない名前とメールアドレス。同じ飲み会でさっさとオレを見限った薄情者がお人好し過ぎるサラリーマンの存在を教えてくれなかったら、リヴァイさんとの接点はそこで途切れていただろう。慌ててお節介サラリーマンのものと思われるそのアドレスに謝罪とお礼の電話をかけ、後日タクシー代と気持ちばかりの粗品を渡す名目でその人に会った。当たり前だけれど、その前の泥酔状態とは違いお互い素面であったので、ちゃんとした二人の出会いはこのときなのかもしれない。
 改めて飲み会のときの非礼を詫びて、お礼を渡して、それで済めばそこまでだったのに、普通はそれで済むはずだったのに、何故かオレたちは立ち話もなんだからと喫茶店に入り、挨拶や謝罪やお礼もそこそこに、再び意気投合した。世代の離れた年上の男と、友人のように雑談を交わすなんて不思議な感覚だった。いままで年上の同性との付き合いなんて、父親か学校の先生ぐらいしかなかったから。だが、リヴァイさんとのお喋りはなかなか尽きなかった。お互いその居心地の良さを忘れがたく、ぽつぽつと連絡を取り合っては時間が合えば食事をするようになっていった。
 その二回目の食事が焼き肉だった。初めての焼き肉で味を占めたリヴァイさんは、それからオレを誘ってちょくちょく肉を食いに行く。数えたらもう片手の数では足りないだろう。それぐらいの頻度でオレたちはせっせと肉を焼きに行った。今日はその何回目の食事の日だった。
 リヴァイさんは美味しそうに肉を食う。ぽってりとした唇がこころもち大きく開いて、薄いタン塩を迎え入れる。肉汁とレモン汁が口の端についても、タン塩は、いや多くの肉たちはひとくちで食べるべきだ。だって肉はひとくちサイズで用意されているのだから。が、リヴァイさんの短い焼き肉ライフで培われた持論である。モキュモキュとした触感を楽しむように、膨らんだ頬も上下に動く。薄くても十分な食べ応え。レモン果汁の酸味。鼻孔から抜ける爽やかな香りを楽しみつつ、リヴァイさんの目は既に次の肉を虎視眈々と狙っている。
「エレン、次はカルビだ」
「カルビはこのへんですね」
 厚みのある肉が網の上で焼けている。その一枚を箸で摘まみ、リヴァイさんの取り皿に移してあげた。このあたりと言えば二枚目からは彼は勝手に取るだろう。短く礼を言い、甘辛タレにたっぷりつけたカルビを、ひとくち。噛んだ瞬間に、下の上でトロける脂が堪らないのか、リヴァイさんは相好を緩めた。三白眼の目つきの悪さが、こんなときばかりは怖くない。
「オレ、焼き肉食ってるリヴァイさん好きです」
 肉の焼き加減を見つつ自分の肉を食べるのも忘れない。豚トロの肉厚な触感と脂身を口の中いっぱいに楽しむ。網で焼くと端がカリカリしていて余計に美味しい。
「なんだ、突然に。まるでそれ以外のもんを食ってる俺は好きじゃないみたいだが」
 肉厚というより肉の高さを感じるヒレ肉を焼きながら、リヴァイさんは鼻を鳴らした。
「いや別に。食ってる食ってないは関係なくて……」
「いつも嫌いだって?」
 慌ててフォローしようとするのに、リヴァイさんは話を余計にややこしくする。眉が片方だけひょいっと上がって、正面からオレを見上げた。最初の頃はリヴァイさんにジッと見つめられると意味もなく竦みあがったものだが、いまは彼のそんな表情もただ単にオレの反応を愉快に思っているだけなのだと知っている。
「嫌いじゃないですよ。ただリヴァイさんってなかなかとっつきにくい顔してるじゃないですか。でも肉食ってるときって、表情があどけなくなるなって。そんだけです」
「お前な、悪人面はひとのこと言えないからな」
 目つきの悪さならエレンもよく級友からからかわれる。それを揶揄しているのだ。
「リヴァイさんには負けます」
 謙遜のような皮肉を、こんなおっかない見た目の男の人に気兼ねなく言う日がくるとは思わなかった。いままでの人生でまったくの接点のなかった人と、こうして差し向かいで肉を焼いて食べている。
「へへっ」
「なんだよ。肉焦げるぞ」
 胡乱気なまなざしもここちよい。キンキンに冷えたウーロン茶が、タレや脂で重くなった口内をさっぱりさせるのと似ている。
「焼き肉、うまいですよね」
「そうだな」
 よく焼けた肉を、リヴァイさんはひょいひょいと取っていく。オレの取り皿と自分の皿へ、交互に置いてスペースを空ける。
「まだイけんだろ、食べ盛り」
「もちろんです」
 リヴァイさんが慣れた手先でタッチパネルを操作する。無造作に緩めたネクタイを胸ポケットに押し込み、ワイシャツを腕まくりしたリヴァイさん。一日の勤労を終え、肉を食べる気満々の格好だ。そのくたびれたシャツには、汗や加齢などの体臭と混ざって、たっぷりと焼き肉の匂いが染み付いているのだろうなと思うと、エレンは意味もなく咽喉が鳴るのだった。



 いまでこそ信じられないが、昔のエレンはあまり甘いものは好き好んで食べたりしなかったみたいだ。むしろ、クリームたっぷりのショートケーキだとか、餡子と白玉と盛りだくさんのフルーツを乗せたあんみつだとか、ジェラートだとかクレープだとかショコラだとか、そういうものは全部、女子どもの食べるもんだと決めつけて、頑なに口に入れなかったらしい。……女はともかく、自分もガキなのは変わらねえのにな。
 成人して、酒も飲める年齢なのだが、エレンの幼さはなんと言ったらいいのだろう。初対面から酒に飲まれまくっていた未熟さだったり、お世辞にも愛想の良い類ではない俺に対しても物おじしないクソガキ具合だったり、飯を奢ってもらったときの礼を言うあいつの目が、涙袋をぷっくりと浮かせて弧を描く……その甘えなれた目元が、エレンの無垢なあどけなさを際立たせる。どんなに成人した大人だと分かっていても、俺がエレンをガキ扱いするのと、その子どもじみた笑顔が見たくてなにくれとなく理由をつけて食事に金を出してしまうのは、もはや癖と言っても良かった。
 初めてエレンと出会った、その次の日。死にそうな声で前夜の所業を詫びるエレンから電話がかかってきた。まさか本当に電話してくるとは思わなかったので、そのときは大層驚いたものだ。泥酔したエレンが、タクシーの中で俺のスマホを勝手に抜き取って、「番号くらさい」と舌ったらずにお願いをしてきたときも、無表情の面の下でこいつは何を言ってやがんだと呆れかえっていた。個人情報の開示を渋った俺に、わざわざタクシーに乗せてやった恩も忘れて酔っ払いがぐずったので、その薄い板に自分の名前やメールアドレスも含め、律儀に登録してしまったのは記憶に新しい。自宅に帰ったあと、でたらめな番号を入力してしまっても良かったのだと気付いたが、とっくに後の祭りだったし、そのときの俺はまさかその数時間後に、泥酔した本人直々に謝罪の電話がかかってくるなど思いもしなかった。
 俺のお節介は吉と出たか凶と出たか。後日再び会うことになって、気まぐれに入った喫茶店。そこが昔からのパンケーキを出す老舗として有名なことを、俺たちは知らなかった。隣の席の若い女の二人組が、ちょうどきた分厚く焼かれた二枚のパンケーキを写真に撮りながらそんなことを話していて、そうなのかと感心したことを覚えている、確かにそのパンケーキは、見事なきつね色に焼かれていて、四角く切り取られたバターがてっぺんに、シロップが上から下に流れ落ちるさままで、絵本で読んだようなパンケーキだった。
「せっかくだから食ってみるか、パンケーキ」
 謝罪と粗品を渡して早々に帰るつもりだったのだろう。メニューも見ずに注文を済ませようとした青年に、リヴァイから提案した。本来ならコーヒーでも頼んで、サッと飲んでサッと別れる予定だった。だがエレンは、リヴァイの目配せにちらっと隣の席のパンケーキを見て、それからほんのわずかに視線を彷徨わせたあと、静かに頷いた。
「……はい」
 いままで食わず嫌いで食べてこなかった甘いパンケーキを、どうしてそのときは食べようとしたのか。それはリヴァイには分かりかねた。だがそのとき食べたパンケーキが、中はふっくらふかふかで、バターやシロップが染みこんだ生地が、口の中で甘くほろろと崩れて大変おいしかったことは確かである。目からうろこを零すように、それからエレンの甘いもの好きは始まった。
 初めて食べたのは素朴なパンケーキだったが、甘いものに目が開いたエレンが見つけてくるのは、フルーツやクリームがたっぷり盛られたものも多かった。主に女性に向けて、そういうパンケーキが流行っているのだそうだ。女性客に囲まれながらミックスベリーだとか、チョコバナナだとか、マンゴーに桃に、チーズケーキにマカデミアンナッツのソースやらのパンケーキを注文して、男二人で食べるのにはなかなかの忍耐を試されたが、甘いものは羞恥心を遥かに凌駕した。しあわせの半分は砂糖でできているのだと思う。残り半分は肉だ。
 土曜日の午後。今日もエレンは旨そうにパンケーキを食べる。パンケーキから始まって、いろいろとスイーツ道楽に付き合わされたが、エレンはパンケーキがいちばん好きだった。しかもあれだけクリームやフルーツたっぷりのパンケーキを食べてきたのに、エレンが行きついたのは素朴なバターとシロップのみのパンケーキだった。
「母さんが昔、作ってくれたのがこんな感じだったんです」
 話題になったスイーツはいまでもかかさずチェックするエレンだが、エレンはパンケーキが食べたくなると初めて入った喫茶店に俺を誘う。
「膝に乗っけて絵本を読んでくれて、これが食べたいって指差したのがパンケーキ。じゃあ焼いてあげようねって、絵本そっくりの分厚いやつを作ってくれたんです」
 大事にしまった思い出を打ち明けるエレンのまなこは、キラキラと光っていた。えんじ色のソファの光沢。薄暗い照明。窓からの採光。エレンの透き通った白い頬の稜線と、細くしなやかな指に握られた銀のカトラリー。
 母親との幼い思い出を語るエレンは、恐らく泣いていたのだと思う。涙こそそのまなじりを濡らさなかっただけで、ソファの照り返しから、照明の淡いオレンジ色の光から、窓からの麗らかな午後の日差しから、その頬に投げかけられた睫毛の影から、曇りなく磨かれたナイフの切っ先から、エレンの悲哀は滲み出ていた。エレンにとってパンケーキには特別な思い入れがあって、それが食べたくなるとき、その場所に俺の存在は許されている。それを思うと、不思議な感覚を覚える。
 美しい銀食器が、柔らかなパン生地に吸い込まれていく。外は黄金色も美しい焼き色だが、中の生地は淡いクリーム色をしている。ふかふかの生地をフォークの先が貫いて、ひとくち大に切り取られた端からシロップが流れて染みていく。つやつやと光るエレンの爪、に支えられた美しい銀色のフォーク、に刺し貫かれたシロップ滴る魅惑の甘いパンケーキ。エレンは口を大きく開いてその幸福を口内に招き入れた。赤い舌が柔らかな生地を受け止め、エナメルの歯が優しく食む。バターの塩気。シロップの甘やかさ。生地の滑らかさ。口いっぱいに頬張ったエレンの表情は、なんのか悲しみもなく無垢で穏やかだ。頬に赤みが差し、吊り上がり気味のまなじりもこのときばかりはふにゃりと垂れる。
「おいひいです」
「そうか」
 至福を噛み、満足感に口角を上げるエレンは、口元の産毛までキラキラと光り輝くようだった。焼きたてのケーキの温かさか、エレンの子ども体温故か、溶けたバターがその唇を妖しく艶めかせていた。
「ついてる」
 親指で拭ってやる。普段なら紙ナプキンで汚れた手を拭くところだが、――そもそも他人の唇になんてまず触れないのだが――リヴァイはそのテラテラと濡れた指を舐めていた。
 向かいのエレンがギョッと目を剥く。
「あんた何してんですか!」
 ぎゅっと握られたカトラリーが、エレンの動揺を表すように大きく揺れた。
「行儀が悪いか?」
「そうですねでもそれだけじゃなくて……!」
「ほう……いったいマナー以外の何が問題だっていうんだ、エレン?」
 含んで笑うと、エレンは顔をのけぞらせた。食悦の朱ではなく、羞恥からの赤を顔に散らして、リヴァイを睨む。
「リヴァイさんは、オレになにを言わせたいんですか」
「さあ? お前がなにを言いたいのか俺には分からんからな。……教えてくれよ」
 紅茶の注がれた陶器のカップを、リヴァイは指先で掴んで慎重に持ち上げた。そのいやにゆっくりとした動きに、エレンは鼻白む。エレンのでかい目ん玉が己の一挙手に釘付けになっていることを愉快に思いながら、リヴァイは薄く繊細なカップの縁に口付ける。こくりと咽喉に流し込んだ。花の香りがふわりと漂う。
「……食わないのか?」
 浮き出た咽喉仏に見惚れていたエレンが、ハッとしたように肩を揺らした。しまったと顔に書いてある。感情が分かりやすすぎるのも、青年のあどけなさの一端になっているのだろう。
「食べます!」
 大きく切り分けられたひとくち。大きく開けられる口。大きく飲み込まれる。その食道を通って、胃の腑へ。ふかふかに焼き上げられ、バターやシロップで染み染みの甘いスポンジが。エレンの腹へ。
「エレン」
「なんれふか」
 食べながら喋るのは行儀の悪いことだ。だがここに、その無作法を気にするものはいない。
「いっぱい食べろよ」
 エレンの手によって切り分けられフォークに刺されたパンケーキ。エレンの大きな口に迎え入れられ、咀嚼され、飲み込まれる。胃に落ちたスポンジは胃液に溶かされぐちゃぐちゃになって、やがてエレンの体の一部になるだろう。幸せのパンケーキ。叶うことなら、リヴァイも同じものになりたかった。エレンの前に身を投げ出し、その肉を喰らわれたい。お前の舌に受け止められ、お前の歯に噛み砕かれ、お前の唾液まみれになって、お前の胃液に溶かされたい。そうしてエレンの一部になることができたなら、それはとても幸せなことだと思うのだ。
「うまいか」
「はい」
「なら良かった」

















2016/9/29
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