inserted by FC2 system








その手





ここ最近自分の様子がおかしいことを、リヴァイはとうに自覚していた。
その原因も分かっている。
エレンだ。エレン・イェーガーだ。
衝撃的なエレンとの出会いから三か月経っていた。リヴァイはエレンのことが気になって仕方がない。初めのうちは、やたらと後ろをついてくるエレンに辟易し、手酷く扱った。もともと印象が最悪だった。確かに面白い奴だとは思ったが、四六時中ついてまわられ羨望の眼差しを向けられることに、良い気はしない。しかしエレンからの混じりけない純粋な好意に、段々と絆されていったのも、どうしようもない事実だった。
あの態度がいけない。リヴァイが何よりも強く気高いと信じて疑わないくせに、エレンは守られるべき、か弱い女の子にでも接するような仕草と口調でリヴァイを扱う。
今まで一人で生きてきた。たった一人、孤独に二十数年の人生を戦ってきたリヴァイにとってみれば、そんなエレンの態度にイラつきもし、戸惑い、困惑した。実の両親にさえリヴァイはないものとして扱われていたし、喧嘩が恐ろしく強いリヴァイを、守ろうとする酔狂な者など今まで誰一人といなかったのだ。リヴァイ本人でさえも、自分はただ守られるべき存在ではないと思っている。そんな存在になりたくもなかった。それなのに向けられる好意に、気遣われる言葉に、労わるように差し向けられた暖かな掌に、リヴァイは戸惑うことしかできない。何度も、それこそこぶしと足を交えながら、自分は守られるべき存在ではない、自分は強いのだと教え諭しても、エレンはリヴァイが強いことは認めるが、一向に自分の態度を改めることをしなかった。そんなエレンの性格に匙を投げたのはリヴァイだった。リヴァイは諦めてしまった。そうして少しずつ少しずつリヴァイはエレンに飼い慣らされていくような錯覚を覚えるのだった。
決して期待してはいけないのに、その優しさを求めてしまいそうになる。一途にリヴァイに向かってくるエレンを、優しくしてあげたいと思う時がある。そうなってしまうともう駄目だった。あんなにウザったくて仕方がなかったのに、エレンが自分の後ろについてこない時は知らずにその姿を探していた。重症だな、とリヴァイは思う。弱く浅ましい存在に成り下がってしまいたくない。だから今ここで踏みとどまらなくてはいけないのだ。
相も変わらずエレンはリヴァイの後についてきている。エレンの気配が背後にあることに安心しているのを認めたくないリヴァイは、エレンが話しかけてきても一切口を開かなかった。校舎から出て、校門を抜けて、駅まで辿りつけば、路線の違うエレンはもうそこまで追ってこれない。それまでの辛抱で、それまでの時間だった。
様子が違ったのは校門から出た辺りだ。一見してガラの悪そうな男が一人、腕組みをして待っていた。嫌な予感がした。リヴァイの予感は、嫌なことほどよく当たる。誰を待ち構えていたのか、そんなの一直線にリヴァイに向かってきた男を見れば一目瞭然だ。
リヴァイは溜息を吐く。中高時代に派手に荒れたリヴァイだったが、大学受験を期に、自分から喧嘩を売るようなことはしなくなった。当時既に最強と恐れられていたから、リヴァイが機嫌さえ損ねなければ喧嘩は避けられ、進んでリヴァイに向かってくるような馬鹿はいなかった。
無事大学進学を果たして落ち着いたリヴァイを、散々リヴァイに甚振られた面々が許すはずもない。自分たちは肥溜めのような生活に甘んじたままなのに、一転リヴァイだけが優雅な学生ライフを送っていることも、彼らの苛立ちを冗長させるのだろう。リヴァイが課題に追われてその伝説が鳴りをひそめたのを良いことに、または勘違いした馬鹿野郎どもが、リヴァイにお礼参りをすることがあるのは珍しいことではなかった。しかし就活も終わった大学四年になってまでその被害を受けることは、当然リヴァイの機嫌を著しく損ねさせた。
「リヴァイ、だな」
確かめるように名前を呼ぶ男に、見覚えはない。リヴァイ本人でさえ、いったい何人の男ども(時には女)を相手にしてきたのか分からないのだから、それも当然だった。
「俺に何か用か?」
面倒臭いことはさっさと片付けるに限る。リヴァイは相手の様子を窺った。お決まりのように、男はこぶしを振りかざす。
「一発殴らせろ」
当然のように暴力で訴えてこようとする男に、リヴァイも半身を引いて攻撃に転じようとする。その瞬間、一歩引いたリヴァイの間に身を滑り込ませたのは、後ろにいたはずのエレンだった。防御に徹する暇もなかったのだろう、男のこぶしがエレンの頬にぶち当たる。突然の闖入者に、当然リヴァイも男も驚いた。その猶予をエレンが見逃すはずもなく、エレンはお返しとばかりに、渾身のキックを男の股間にお見舞いした。
女であることを軽んじた男どもを相手にしたリヴァイが、その容赦のない一撃故についた当時のあだ名が「男潰しのリヴァイ」だった。そんなリヴァイを見惚れさせるくらいには、とても同じものがエレンについていると思えないほど、慈悲のひとかけらもない猛烈な一蹴だった。痛みにもんどりうつ男を一瞥もしないで、エレンはリヴァイに手を差し伸べる。
その、手を。
「逃げましょう、リヴァイさん!」
その手をとって良いものなのか、リヴァイには分からなかった。別にエレンの手をとらなくても、自分は一人でも走り出せる。そんなことエレンだって分かっているはずなのだ。分かってるはずなのに。それでもなお、その手をリヴァイに差し出してくる。
求めなければ、与えられない。
なら、求めなければ良いだけの話だった。
リヴァイはエレンを求めるのが怖い。一度求めてしまえば、際限が効かなくなってしまうような気がしたから。リヴァイは与えられることに慣れていないのだ。無関心、暴力、憎しみ、蔑み、リヴァイの身に降りかかるものは、そんなようなものばかりだった。そんな自分が、エレンの優しさを求めたらどうなってしまうのか、リヴァイには想像もつかない。求めて、また求めて、それでも求め続けて、そしたらいつ“終わり”がくるのか。そうだ、求め始めればいつか終わりがくるだろう。エレンとリヴァイの関係の“終わり”が。
頑なに動こうとしないリヴァイに痺れを切らして、動いたのはエレンだった。
エレンはいとも容易く、そして力強く、リヴァイの手を掴み取った。
そのまま二人は走り出した。どこまでも。どこまでも。
エレンは、リヴァイの不安を簡単に捻じ伏せた。エレンにとっては何気なく掴んだのだろうその手を、その行為の意味を、果たしてエレンは分かっているのだろうか。いや、絶対分かってなどいやしないのだと、リヴァイは自嘲した。ここ最近のらしくもない自分に、自分自身が呆れてしまう。今まで滅多に求めることをしなかったからこそ、リヴァイは欲しいものには手段を選ばない。せっかく逃げ道を用意してやったのに、それを知らず袋小路に勝手に進んでいったのはエレンだった。エレンが悪い。リヴァイはそう確信した。守られるべき女の子ではないのに、守ろうとしたエレンが悪い。弱い女に成り下がりたくなかったのに、リヴァイを弱いものにしたエレンが悪い。その手をとることを躊躇っていたのに、その手を取ったエレンが悪い。
エレンとリヴァイの間に“終わり”が来るのが嫌なのなら、掴んだその手を、手放さなければ良い。それだけの話だった。それはとてもシンプルで、リヴァイはその結論が大いに気に入った。
裏路地に入ったのを良いことに、リヴァイは立ち止った。連られるようにして、エレンもたたらを踏む。
「なぁ、エレンよ」
リヴァイの声は静かだった。あれだけ走ったというのに、息一つ乱してはいない。流石だなとエレンは思った。
「俺はいつも言っているな。“後悔しない方を選べ”と」
「はい」
暗がりの中で、リヴァイが何を思っているのか、その表情を見極めることは難しい。ただ酷く、静かな声だった。
「俺のせいで殴られて、無様な姿を晒して、それでお前は満足か」
俺の手をとって、後悔しないか。
本心は口には出さなかった。ただ握ったままの手の力を強くした。離したくないのか、離せないのか、リヴァイには判断つかなかった。
エレンは頬を真っ赤に腫らしているものの、その痛みを全く感じさせない意志の強い瞳で、断言した。こいつ目でかいな、薄い暗がりの中で、どこからか漏れ出る光を反射してぎらぎらと存在を主張する瞳に、そんなことを思った。
「はい、後悔していません」
ああ、と思った。感嘆の吐息が零れ出ないように、リヴァイは歯を食いしばった。こんなにも安易に肯定してしまって、エレンはなんて馬鹿なのだろう。元よりリヴァイは、エレンが肯定しかできないような質問しか口に出さなかったが。
エレンのその瞳が美しいなと思った。エレンのその手が愛おしいと思ったし、その体温が恋しかった。その暖かさが損なわれるなど、断じて許してはいけないことだった。
「なら教えてやる。もう二度と俺を庇うな。俺はお前に守られるほどか弱くねぇ」
何度も言ったはずの言葉に、エレンは屈託なく笑う。とても幼い顔だった。エレンの笑顔に、ときめきが抑えきれない。胸の痛みを認めざるをえない。
「でもリヴァイさんは、女の子ですから」
今まで優しくされたことがなかったから、女の子扱いされてどうしようもなく胸が高鳴るのだ。女の喜びを、この時初めてリヴァイは知った。














2013/6/29
inserted by FC2 system