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エレンは今、多分今世紀最大と言って良いくらいドン引きしていた。

エレンが家へ帰っても、そこにリヴァイの姿はなかった。仕事が長引いているのか、もしくはエレンを探しているのかもしれない。エレンはリヴァイが帰ってくるのを静かに待っていた。
一週間ぶりの我が家は何も変わったところはない。いつも通り綺麗なものだ。エレン家出でヒステリーを起こしたリヴァイが、家を荒らすようなことはしなかったらしい。
夜九時を回ってやっと帰ってきたリヴァイは、家に人の気配があるのを感じて大して長くもない廊下を駆け抜けた。リビングのソファに座るエレンを見つけ、そのまま飛びつこうとしたリヴァイを止めたのはエレンだ。
「俺に指一本でも触れたら別れます」
エレンとしては、まだ自分は怒っているのだと示すために冷たく言ったに過ぎないが、すぐにそれを後悔した。
エレンも頭に血が上っていたのだろう、冷静になって考えてみればすぐに分かることだった。
リヴァイ相手に、別れるという言葉は禁句だ。
リヴァイの目に涙の膜が張り、気付いた時にはもう手遅れだった。リヴァイは身も世もなく大泣きした。泣きじゃくった。
エレンはその様を見てドン引きした。せざるをえない。それくらい酷かった。そして心底うんざりともした。
「リヴァイさん、泣けば良いってもんじゃないんですよ」
エレンの言葉にリヴァイは必死で嗚咽を耐えようとする。しかしひっきりなしに出てくる涙は、止めようとしても止まらないのだろう。
エレンだって男だ。惚れている女が泣いているのに、何とも思わない訳じゃない。しかしここは心を鬼にするべきだ。甘やかしたって問題の解決にはならない。
しかし声は努めて穏やかに。必要以上に彼女を追いつめることのないように。
「何で俺が怒っているか分かりますか?」
リヴァイはしゃくりあげてつっかえながら、何とか「ゴムなしセックスをしたから」とエレンに答えた。
エレンは渋面を作る。間違ってはいない。が、正解でもない。
この分からず屋にどう分からせたものか。言葉を尽くすしかない。愚直なまでに繰り返すほかない。彼女が、分かるまで。何度でも。
「俺はね、リヴァイさん。何回だって言いますよ。俺は貴女を愛しているんです。だから貴女を大事にしたい。貴女のためを思うからこそ避妊しているんですよ。分かってますか?」
愛しているという言葉に、リヴァイは敏感に反応した。あれほど頑なに止まらなかった涙が、簡単に止まる。リヴァイの涙にドン引きしつつも少なからず動揺していた身としては、なんとも現金なものである。
リヴァイの涙の痕が痛々しい。
「不安、だったんだ。お前は嫉妬もしないから」
嫉妬をすることが、リヴァイにとってそんなに大事なことなのだろうか。エレンには分からない。それよりちゃんと避妊を行ってセックスする方がよっぽど大事なことだと思う。嫉妬をすればリヴァイはエレンに愛されていると確信するのだろうか。相手を思いやったセックスは、何よりエレンがリヴァイを愛しているからだと、どうしてリヴァイは気付かない。二人の愛の伝え方、受け取り方には大きな齟齬がある。
嫉妬は、しろと言ってできるものでないから、しない時点でしょうがないものなのだとエレンは思う。この話題について言えることはいつも一つだ。
「俺は、リヴァイさんを信じているんですよ」
リヴァイが浮気しないことを信じている、恐らくそう受け取ったのであろう彼女は、赤く腫れ上がった目尻を釣り上げて挑むように言った。
「俺が、誰かに抱かれたら?」
それがリヴァイさんの選んだことなら、そう言ってしまうことは容易い。でもそのままを口にすれば、確実にリヴァイの心を傷つけるだろう。
それに、とエレンは考える。何度だって言うが、エレンは何よりもリヴァイが大事だ。リヴァイを傷つけることは、例えそれがエレンであっても許しはしない。そしてリヴァイを傷つけるのが、リヴァイ本人であったとしても、だ。
リヴァイは、馬鹿なのだと思う。その切れ長の瞳に凄まれて迫力に飲まれそうになるが、彼女の言っていることは本当に馬鹿らしい。
優秀な成績で大学を卒業したはずであるが、紙一重でどうしようもなく馬鹿なんだ。勿論そんなことは誰にも、リヴァイ本人にも言えるはずがない。もっと時間をかけたら、ハンジあたりにでも同意を促すかもしれないが。とにかく。エレンを嫉妬させたいがためだけにその身体を傷つけるような愚行を犯すつもりなら、エレンだって容赦はしない。
「軽蔑して、別れます」
例え話だと言うのに、自分から話題を振ったくせに、リヴァイはエレンの言葉を聞くと「ひっ」と声をあげて止まったはずの涙を再び零しだした。「別れる」効果は絶大だ。滂沱の涙である。そんなに泣くのなら、聞かなきゃいいのに。
いくら後悔しない方を選んでも避けられない後悔はあるのだと、エレンは最近になってやっと思い知った。勿論、リヴァイを見てである。
エレンはこういう時、世界の残酷さと美しさを同時に見る。
今のリヴァイもそうだ。聞かなきゃいいのに、聞かずにはいられないのだ。残酷な世界で、いかに後悔しない道を選びとっても、傷つかずにはいられない。それでもなお選ぼうとする、傷つこうとする、そのひたむきな姿はぼろぼろになってもなお美しい。世界が残酷だからこそ、せめて優しくしたいと思う。がむしゃらにあがいても後悔することしかできない彼女に寄り添いたい。
「嫌いになったか。俺から、離れるつもりか」
愚かでも美しい彼女の隣に。
「愛しています。だから、離れません」
誓う。

エレンは強いリヴァイが好きだった。
理想を言えば、リヴァイは強く気高いままでいてほしかった。だが彼女だって一人の人間だ、ただの女性だ。弱い部分だってあるだろう。ただそれをエレンに気取らせなかったら良かったのだ。エレンはただ強いリヴァイを見ることが好きなだけだったから。彼女の隣にいることを望んだわけではなかった。後ろから彼女を見るだけで良かった。本当にどんなに良かっただろう。エレンが彼女の強さしか見なかったら。知らなかったら。
しかし現実は反対だった。リヴァイは弱い。エレンのことになるととても弱くなる。そしてその弱った姿を、ただ一人エレンのみにしか見せない。エレンだけが、強くあり続ける彼女の弱さを知っている。
今だってそうだ。エレンから離れたくないと言い、エレンの前で泣く。彼女はエレンにだけ弱虫で泣き虫になった。弱くちっぽけな存在であることを、彼女はエレンの前でだけは許し、そんな彼女の傍にいることを、エレンだけが許されている。
決してリヴァイをそんな人間にしたかったわけではない。
人類最強を冠した女の唯一の弱点になるつもりなど、エレンには露ほどもなかった。
しかし結果的に、リヴァイはそうなってしまった。
彼女の弱く脆い心を否定することは簡単だ。「強い貴女しか愛せません」そう言えば良い。そうしたら彼女は今後一切エレンに弱みを見せず、ひたすら強くあろうとするだろう。強い彼女しか見たくないのなら、それで万々歳だ。しかし彼女の人格を踏みつけにしてまで、ただ自分の求めるままの姿でいてほしいと、果たしてエレンは願えるだろうか。答えは否だ。そんなことできない。例え彼女の姿に自分の苦手な部分があったとしても、彼女のありのままを受け入れること、彼女の全てを慈しむこと、それがつまり“愛する”ということなのではないだろうか。
エレンはリヴァイを見る。
小さな女だ。細い肩が小刻みに震えている。涙を流すその目は落ち窪んでいて、目元にははっきり隈が見える。痩せたな、と思った。スーツから覗く首が細くなっている。一週間で明らかに憔悴した彼女の姿。何がそこまで彼女を追いつめたのか、答えは悲しいほど明白だ。
今のリヴァイの姿は、エレンの憧れた“リヴァイさん”とは遠くかけ離れている。
苦手だな、と思った。こんな彼女の姿見たくなかった。でも愛おしいとも思う。エレンはひたすらに、一途にリヴァイに想われている。その証拠がこの姿だ。
結局この家に帰ってきた時点で、エレンの負けは決定している。
エレンは溜息を吐く。エレンは今、過ちを犯してしまった女を許そうとしている。
「リヴァイさん、約束してください。合意なしのセックスは?」
リヴァイは泣きながら答える。しかしその声は力強い。断固としてはっきりと。彼女だって許されたいのだ。
「しねぇ」
エレンは一つ頷く。まだだ。
「ゴムなしのセックスは?」
「…しねぇ」
口調は変わらない。だが何だその間は。エレンは目尻を釣り上げるより先に呆れてしまった。
「リヴァイさん。あの、ほんとに分かってますか?」
リヴァイにとってどれほどゴムなしのセックスが魅力的なのか、エレンは知らない。そこまでしたいものだろうか。確かに気持ちよかったが。でもあれは薬のせいで…。違う。思考があらぬ方に飛んで行かないように、エレンはリヴァイを見つめた。
リヴァイの顔はとても真剣だ。
「俺の身体が何より大事なんだろ、分かってる」
エレンの愛情のあり方を語る上で、リヴァイが大事だという意識はその根幹を成す。とても重要なことだった。それをちゃんとリヴァイ自身が分かっているなら、良い。もう、良い。十分だろう。
「分かりました」
エレンの静かな声に、リヴァイは脅えるようにその小さな身体を竦ませる。
一夜で四千人のヤンキーを血祭りにあげた伝説を持つ女が、たかが年下の恋人一人の言葉を固唾を飲んで待っている。
「もう良いです」
よく分かった。リヴァイはエレンから離れられない。エレンはリヴァイの隣にいることを誓った。その事実だけあれば良いじゃないか。それ以上のことなど、必要ない。
エレンは両腕を広げた。
「抱きついても良いですよ」
エレンはリヴァイの過ちを許した。身体に触れることを許した。その瞬間、弾丸のような速さと凄まじさで、リヴァイはエレンに飛びついてきた。「ぐえ」と思わず声が漏れる。骨が軋むほど抱きしめられて苦しげなエレンを気にすることなく(きっと気にすることもできないのだろう)、リヴァイは泣きじゃくりながら「悪かった」と「すまん」を繰り返した。自分の非を認め謝ることができるリヴァイさんは、とても良い子だ。
「俺こそ不安にさせて、すみませんでした」
そう言って抱きしめてやると、リヴァイは一層声をあげて泣いた。一週間のエレン不在は、とても心に堪えたようだ。







その弱さごとあなたを愛す






2013/6/29
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