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40代と25歳





その日、人類は勝どきをあげた。
身を震わせ思考を凍りつかせる、恐ろしいほどの脅威だった巨人をほぼせん滅するという悲願を叶えたのだ。
もはや巨人は人類の敵ではない。
人類は高らかに声をあげた。
巨人を殺せ!
巨人の子どもを殺せ!
巨人根絶に死力を尽くし、人類に味方した巨人の子ども。
生き残ったその子供さえ殺してしまえば、人類は真の平和を手にすることができるだろう。

人類の怨嗟の声に囚われるようにして、一人の少年が地下牢に捕えられている。
いや、もう少年や子どもという言葉は、その男に受け付けなかった。二十を半ばにした男は、もはや立派な青年だ。
二十五年。
二十五年生きてきた。その生が、明日終わる。
死を目前に控えた男の顔は、穏やかだった。
鉄の格子を挟むようにして、壮年の男が一人、青年と向かい合っている。その表情は険しい。
十年ほど前にも、このようなことがあった。
懐かしいな、と青年は思った。
「後悔はないか」
静かな声だった。腕組みをして壁に寄りかかっている男は、眼光だけは鋭く青年を射抜いている。真意を確かめる目だった。
青年に言えることはひとつだ。
「ありません」
後悔をしない方を選べと、かつて男は言った。男の背中を追いかけてきた青年は、その言葉通りに行動したに過ぎない。
疑り深い男は(青年がそうさせたというのか)、低く問う。
「本当か?」
「本当ですよ」
海を見ることはできなかった。その他、昔友人と見た本に記されていたどんな世界も、青年は知ることができないままだ。
自由を欲し、戦い続けた青年にとって、この結末は何と中途半端なことであっただろうか。
彼の願いは巨人追放しか叶えられていない。母親を食い物にした巨人への復讐しか。
それなのに、彼はこのまま死ぬことに悔いはないと言う。
青年の激情を知っているからこそ、不可解だった。
「何故だ? てめぇにはまだ夢があったはずだ。ここで終わらせることに、俺は納得できない」
青年への処刑通達は国王勅令の下なされた。それでも生き抜く選択肢はあったはずだ。友人と壁の外へ行くことも、上司の手をとって共に戦うことも。
いくつもあった選択肢を無視して、青年は呆気なく首を縦に振った。
何故。
「戦っていくうちに、気付いてしまったんです。俺は本当の化け物だって」
暗闇の中で、青年の瞳だけがぎらぎらと金色に輝く。
巨人せん滅から久しく見ていなかった青年の狂気に、男が息を呑む。
「俺はずっと、誰が何て言おうと俺自身は自分が人間だと信じてきた。でも違う。巨人討伐が成功した時、俺は絶望したんです。もう巨人を殺せないって。違う、まだいる。俺がいる。そう気付いた時、俺は歓喜に震えました。こんなの人間が抱いて良い喜びじゃない。俺は憎悪のまま巨人を殺す化け物で、今回その憎しみが俺自身に向けられただけ。俺はずっと、今でも変わらず、巨人を一匹残らず、ぶっ殺したいだけなんです」
青年の身の内に潜んだ化け物の意志が、今まで青年を生かしてきた。
このおぞましい世界で。
例え巨人化する能力がなくても、かつて少年だった子どもを初めて化け物だと認めたのは、子どもの上司である男本人だ。
その認識は正しかったのだと、青年は告白する。
青年の意志を従わせることなんて誰にもできない。男はあの時から分かっていた。
青年がもう死を決意しているのなら、思いとどまらせることは不可能だ。
「何か、思い残すことはないか」
それでも。それでも、どんなにその意志が強くても、心残りはあるだろう。まだ二十五の身空なのだ。
せめてもの手向けに、青年の無念を聞いてあげたかった。
長く無情を貫いてきた男には、死の覚悟を決めた部下に対する、優しく仕方が分からない。
「ありません。って言っても、納得してくれませんよね」
本心からの答えを聞いて眉間に深い皺を刻んだ男を見て、青年は苦笑する。
んー、そうだなぁ、なんて間の抜けた声を出しながら、青年は暫し思案する。
もしも秘め続けてきた本心を打ち明けることが許されるのなら。
次に出た青年の声は微かに震えていた。
「俺は貴方を一人にすることがとても心残りです」
青年によって紡がれた言葉に、男の目が見開かれる。
意外な答えだった。
自分自身のことではなく、他人の男の身を案じている。
部下も、上司も、同僚も、男の知己は皆男を残して逝ってしまった。
男には故郷があったが、数年前の大規模な都改正計画によって男の故郷は埋め潰された。
もはや男を一人の人間だと認めてくれる者は誰もいない。今の男には英雄という亡霊の名前しか与えられていなかった。
ここで青年が死んでしまえば、一人だけ残った部下を失ってしまえば、男は本当に一人ぼっちだ。
青年はそのことを憂慮している。
そして青年の胸の奥底にしまい込まれていた願いが、今明かされた。
「俺は貴方をうんと甘やかしてあげたかった」
人の温もりなど知らずに育って、知れば戦場で失い、それでも戦い抜けば、人類最強という呪縛を自ら進んでその身に受けざるをえなかった。
誰よりも優しい人であったのに、自分にも他人にも厳しくすることを己に強いた。
幾つもの無念の死を見届けて、その願いを身に刻んで、弱音も吐かず泣き言も言わず、常に強くあるように前だけを見据えていた。
一体どれだけの人が、その背に救いを見出しただろう。
そしていったい何人が、その背を守ってやれたことだろう。
男に休息を与えられた人間は、男の傷ついた心に触れることができた人間は、一人もいない。
ただ化け物だけが。人ではないその存在だけが。
男の弱みに付け入ることを許されていた。
だがそうすることを、化け物自身が許さなかった。
お互い思い合っていたのに、気持ちを確認する決定的な言葉を与えることはしなかった。
青年は自身の運命を確信していたから。
今まで犠牲ばかり強いられてきたこの人に、恋人を殺させる業を背負わせることはできなかったのだ。
最後に今まで手塩にかけた部下を手にかけることすら、青年にとってはさせたくないことだった。恋人など以ての外だ。だから口を噤んで、その傷を撫でることはしなかった。
青年の死が、男の枷になってはいけない。青年は頑なに処刑人を上司に任せることがないようにだけを訴えた。死ぬことに異存はありません、だから、と。それなのに「死ぬ瞬間にお前を一人にすることはできない」と「お前が死ぬまで、ずっと一緒だ」と言ったのは、処刑役を引き受けたのは、この男だった。
こんなに優しい人を、青年は男以外に知らない。
世界がこんなにもむごたらしい仕打ちをすることも、知らなかった。
青年は涙を零していた。憎しみ以外の激情がこの身を襲うのは、初めてのことだった。
今まで声に出すことを許してこなかった青年の言葉たち。男のことを、ずっと思い続けてきた。例えその身に触れられなくても、上司と部下の関係のままでも構わなかった。
ただ。
「貴方の気が済むまで、甘やかしてやりたかった…!」
一人で生きてきたこの男に。
その孤独を埋めるように。
傷つき血を流しながら殺戮を行った男を、労わるように。
叶うことなら、小柄なその身を抱きしめて、食事中も、風呂でも、寝台の上ででも、ずっと一緒にいてやりたかった。
それができないなら、せめてこの人だけは一人ぼっちにならず生き抜いてほしい。
この無慈悲な世界に抗ってでも。
青年の初めてなされた吐露に、男は堪らず駆け出した。
「エレン! エレン・イェーガー!」
男は鉄格子に阻まれてもなおその手を伸ばす。
がしゃがしゃと鳴る耳触りの悪い音を気にする者は誰もいない。
「リヴァイ兵長!」
青年も手を伸ばしたが、手枷の嵌ったその手が男に触れることはない。
死にいく者と生き残る者の慟哭が、暗い地下牢に木霊した。



後に「断頭台の奇跡」と語り継がれることになる、人類が真の平和を手に掴んだ日から三か月が経った。
変わらずリヴァイはこの世界を生きている。しかしその表情に生気はなく、眼光鋭かったその目の光は、どんよりと曇っている。ただ怠惰に起きて食べて寝ているに過ぎないその姿は、英雄と呼ばれる理想像からは遠くかけ離れ、生き恥を民衆に晒していた。それでも一向にリヴァイは構わなかった。
エレンの危惧した通り、リヴァイは一人ぼっちになってしまったのだった。
そんなリヴァイの元に、ある日突然生きた人間が現れた。
知己を失くしたリヴァイを訪ねてきた稀有な人物こそ、エレンの友人アルミン・アルレルトと幼馴染のミカサ・アッカーマンだった。
「珍しい顔だな」
腰かけた肘掛椅子から立ち上がることもしないで、リヴァイは二人を迎えた。
リヴァイの頬は痩せこけ、目元は落ち窪み、手足は筋肉が落ちて細い。立ち上がるのも一苦労なのだ。この男がかつては人類最強と呼ばれていたなど、誰も信じないだろう。
「俺に何の用だ?」
ブランデーを入れたコップを回しながら、リヴァイは掠れた声で尋ねた。
酒に溺れ死者と語らうひとときだけが、今のリヴァイの慰めだ。
「貴方に、生きる理由を与えにきました」
アルミンが落ち着いた声で言う。随分仰々しい物言いだなと、リヴァイは片眉を上げた。
アルミンは初めて出会った時より、随分精悍な顔つきをしていた。それもそのはずで前団長亡き後、新しく就任した調査兵団団長を支える作戦班班長がアルミンなのだった。
エレン処刑の後、兵士長を退いたリヴァイの空けた穴を埋めるように、次期兵士長と呼び声の高いミカサが一歩前に出る。そういえばこの女を見るのは久しぶりだった。
エレン処刑以前から、ミカサの姿をとんと見なくなった。エレン処刑に一番に反対し、その障害になるはずだったのに。三か月前のあの日にだって、ミカサは姿を現さなかった。
リヴァイがそのことを不思議に思う時間は与えられなかった。
ミカサはリヴァイの目の前に、布で包まれた塊を差し出したのだ。
「何だそれは?」
リヴァイの疑問はもっともなものだった。
その布の塊を両手で持つミカサに代わり、アルミンが優しく布の一部をずらす。
そこから現れたもの。
「!」
リヴァイは息を呑んだ。
「エレンの、子どもです」
布の中には、赤子が。
まだ生後間もない赤子が、すやすやと眠りについている。
信じられない存在に、リヴァイは低く唸った。
「これは…、どういうことだ?」
巨人をせん滅した日に。ミカサは静かに語った。エレンを除いた巨人討伐を成し遂げたその日の夜に、エレンはミカサの元を訪れた。エレンが言ったのはたった一言だけだった。「お前に生きる理由をくれてやる」恐らくエレンはその日、もしくはそれよりも前から、己の運命を知っていたのかもしれない。エレンがいなくなれば、残された者がどうなるのかも。
言葉は必要とされず、その夜エレンとミカサは結ばれた。
そのたった一回は奇跡のように血と血を繋ぎ、命を紡ぎ出した。
子どもを腹に宿したのだと知った時、ミカサはエレンの運命も、エレンが伝えた言葉の意味も、正確に理解した。
ミカサはエレンの子どもに生かされるのだ。
この子を置いて、身勝手に死ぬことはできない。
「エレンの…?」
理解が追いつかないリヴァイは、その赤子を見つめるばかりだ。
「エレンと、私の子ですが、エレンの子どもに間違いありません」
エレンもミカサも黒髪だ。赤子の髪も、当然黒い。寝ているのでその瞳の色まで確認することはできないが、その頬の丸みはかつて少年だったエレンの輪郭を思わせるようにも見えた。
俄かに信じられないことだった。身体を重ね、思いを確かめ合ったことこそなかったが、リヴァイとエレンは確かにお互いが特別な存在だった。それなのに、エレンはミカサと身体を繋げたというのか。それがエレンの意志だったと。
リヴァイが勘違いをしていたのだろうか。でも、処刑前夜、あの時、エレンの隠されていた本心をリヴァイはしっかりと聞いていた。ならどうして?
心労が祟り一気に老け込んだリヴァイの身体を倦怠感が蝕む。なるほど、この赤子がエレンの血を継いだ子どもだと認めよう。しかし何故わざわざ? 失意に落ちたリヴァイにエレンとの愛の証を見せつけてどうするつもりだ。リヴァイは過去、エレンに対して理由ある暴行を加えたが、それを今でもこの二人は根に持っているというのか。リヴァイに対する復讐なら、これ以上効果的なこともあるまい。
リヴァイの絶望も知らず、ミカサは続ける。
「エレンは生きる理由をくれてやると言いました。エレンなしでは生きられなかった弱い私に。うまく言えませんが、弱いのは私だけではなく、貴方も同じだと思います」
かつての最強に向かっての「弱い」発言に、リヴァイの目つきが険しくなる。目つきの悪さだけが、今なお健在だ。
しかしミカサもアルミンも、リヴァイの眼差しなどそよ風に吹かれるが如く気にしない。
「エレンはきっと、貴方にも生きてほしいのだと思います。エレンはこの子を貴方の生きる理由にしてほしいと、この子のために生き抜いてほしいと、思ったはずです」
そんなこと何一つエレンは言わなかった。しかし家族として不器用なエレンを支えてきたのだ、ずっとエレンを見守ってきたミカサには分かる。
アルミンがミカサの言葉を受け継いだ。アルミンとてエレンの親友だ。そしてとても賢い。エレンから何も託されなかったが、エレンが自分に望んでいた役割は、痛いほど分かる。
「この子の、名付け親になってください」
一人ぼっちになってしまったリヴァイに、エレンができること。
残した思いを抱えながら、死にいくエレンが望んだこと。
リヴァイを一人にしたくない。
三人を包む緊張感を何一つ感じていないまま眠っていた赤子が、唐突にその目を開く。
瞼に隠されていたその瞳が明らかになり、その眼差しが明るい室内で何ものにも邪魔されず一直線にリヴァイを射抜く。
「エレン、なのか…?」
そのまなこは持ち主の強い意志を物語るようにらんらんと輝く。
リヴァイがいつも眩しく見つめていた、その金色が。
エレンがいた。
エレンの意志は、変わらずリヴァイの傍にいた。
生きてほしいと。生き抜いてくれと。今度こそ一人にしないから。ずっと一緒にいるから、と。
リヴァイは椅子から立ち上がり、赤子の頬に触れた。温かさが、伝わる。生きているのだ。
奇跡のような存在だった。エレンの血が通った赤子。エレンの意志が生きている証。
リヴァイはエレンを処刑した瞬間、自分も死んだのだと感じていた。今のリヴァイは、呼吸するだけの屍に過ぎない。
だが、今この時、リヴァイはエレンに命を分け与えられたのだ。
まるでたった今生まれてきたのだというように、リヴァイは声をあげて泣いた。
人生で二度目となる産声は、多くの幸福と少しの悲哀を含んでいた。
己の命は。
子どものために捧げよう。
エレンの命は。
ずっと一緒だ。
この命は。

(たった一人残された貴方の、生きる希望となるでしょう)














2013/7/4
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